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哲学科助教授・我妻行人、異世界で我思う、故に・・・  作者: 深海周二


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第五章 我思う、されど・・・

ソルウェンが村に現れたのは、知らせが届いてから三日後の午後だった。

その三日間、行人はいつも通り過ごした。テアと魔法の研究をして、エナと話し、ライナに何か言われ、ガランの家で本を読んだ。いつも通りのことをいつも通りにやった。

やりながら、待っていた。

待っている、ということに、行人は少し驚いた。誰かの来訪をこういう感覚で待ったのは、いつ以来だろうか。元の世界で言えば、博士論文の審査の前夜に近い感覚かもしれない。しかし審査の前夜は緊張だった。今感じているのは——緊張ではなく、もう少し軽い何かだった。


テアが気づいていた。

「最近、何か考えてますよね。」

「いつも考えていますが。」

「いつもと違う考え方をしてる顔です。」

行人は少し考えてから答えた。

「ソルウェンに聞きたいことがあります。」

「何を聞くんですか。」

「かつての迷い人のことと、あと——神について。」

テアは少し黙った。それから言った。「怖くないですか。」

「神について話すことが?」

「論破されることが。」

行人は少し笑った。

「論破されることよりも、論破できない理由を知りたいんです。」

テアはその答えを聞いて、何も言わなかった。しかし少し考えている顔をしていた。

ソルウェンが来たら、帳面の男のことを聞く。そして議論する。行人はそれだけを決めていた。



行人はその瞬間を、村の外れで迎えた。

エルフ、という存在を行人は概念としては知っていた。この世界に来て、そういう存在がいることはガランや村人たちとの会話の中で自然に了解していた。しかし実際に目の前に立ったとき、行人はしばらく、ただ見ていた。

外見は七十代に見えた。背はそれほど高くない。白に近い銀色の髪を後ろで束ねている。顔の皺の刻まれ方が、人間のそれとは少し違う。深いが、荒れていない。長い時間をかけて静かに刻まれた皺だった。


目が、違った。

長い時間を生きた者の目は、たいてい疲れているか、冷えている。しかしソルウェンの目は——面白がっていた。三百年以上生きて、まだ面白がっている目だった。行人はその目を見た瞬間、この人物は侮れない、と思った。侮れない、というのは、強いということではなく、深い、ということだ。


村人たちが緊張した様子で距離を置いている中、ソルウェンはまっすぐ行人のところへ来た。ガランへの挨拶もそこそこに。村人たちがざわついた。

「お前が迷い人か。」

「おそらく。」

ソルウェンは行人を上から下まで見た。値踏みではない。確認だ。何かを確かめている目だった。

「魔法が使えない。スキル鑑定で不明が出た。しかし言葉が通じる。」

「よくご存知で。」

「三百年生きていると、珍しいものへの嗅覚が育つ。」

行人はその言葉を聞いて、少し思った。珍しいもの、という言い方だった。異常なもの、でも、問題のあるもの、でもなく。この老人にとって、行人は純粋に珍しい何かとして映っているらしかった。


ガランが茶を出した。四人分——ガラン、行人、ソルウェン、そしてテアが来ていた。テアはソルウェンの隣に座りながら、明らかに緊張している。長老が村に来ることは珍しい。しかしソルウェンはテアの緊張を特に意に介した様子もなく、ただ行人の方を見ていた。


ソルウェンはしばらく、無言で行人を観察していた。

行人も観察し返した。三百年以上生きている存在を、行人はこれまで想像したことがなかった。想像できないとは思っていなかったが、実際に目の前にすると、想像の外にある何かが確かにあった。時間の重さ、というのが最も近い言葉だが、それも正確ではない。重さというより、密度と言う方が近いかもしれない。三百年分の経験が、この老人の中に圧縮されている。その密度が、目に出ている。

「何を考えている。」

ソルウェンが言った。観察を指摘された、というより、観察に対して観察で答えた、という感じだった。

「あなたのことを観察していました。」

「どう見える。」

「侮れない、と思っています。」

ソルウェンは少し眉を動かした。驚いたというより、確認した、という動き方だった。

「なぜそう思う。」

「面白がっている目をしているから。」

しばらく沈黙があった。テアが息を呑んでいるのがわかった。ガランは火を見ていた。

「正直な男だ。」

ソルウェンはそう言って、茶を一口飲んだ。それから行人を見た。値踏みを終えた目ではなく、これから話す相手として見ている目だった。


行人は先手を打つことにした。

「一つ聞いていいですか。」

「どうぞ。」

「五十年ほど前、この村に別の迷い人がいたと聞きました。その人物をご存知ですか。」

ソルウェンの目が変わった。面白がっている目のまま、しかし少し深くなった。テアがかすかに息を呑む気配がした。

「知っている。」

「どんな人物でしたか。」

ソルウェンはしばらく黙ってから答えた。茶を一口飲んで、それから話し始めた。

「真剣な男だった。毎晩、空を見ていた。三つの星の動きを記録し続けていた。この世界の構造を、外側から解明しようとしていた。魔法が使えなかったから、魔法の外側から見ることができた。誰にも相手にされなかったが、諦めなかった。」

「正しかったと思いますか。」

「正しかった。ただし、正しいことと、証明できることは別だ。」

行人は黙った。その言葉の形が、自分の感覚と同じだったからだ。正しいことと証明できることは別だ——行人が鑑定師に言ったことと、構造が同じだった。

「あの男の帳面を、お前が持っているな。」

行人は少し驚いた。

「ガランさんから受け取りました。」

「そうか。」

ソルウェンはそれだけ言った。

「ガランはよく持っていた。あの男が死んだとき、ガランはまだ若かった。」

行人はガランを見た。ガランは火を見ていた。何も言わなかった。五十年以上、その帳面を持ち続けた老人の横顔が、いつもより少し重く見えた。


「お前は、この世界がなぜ存在するのかを考えたことがあるか。」

ソルウェンが言った。唐突ではなかった。話の流れの中に、自然にその問いが置かれた。

「あります。答えは出ていない。」

「正直な男だ。」

行人はその言葉を、少し違う温度で受け取った。ガランも同じことを言った。しかしガランがその言葉を使うとき、それは保護者の安堵に近かった。ソルウェンがその言葉を使うとき——対等な者への確認に近かった。

「俺の世界の哲学者も、同じことを考えていた。」

「デカルトのことか。」

行人は止まった。

「知っているんですか。」

「お前がここへ来た経緯を、少し調べた。それだけだ。」

ソルウェンは淡々と言った。

「デカルトが自分の存在を疑い、疑っている自分の存在は疑えないという地点に至り、そこから世界を再構築しようとした。そのためには神の存在が必要だった。」

「よく御存知で。」

「三百年生きていると、様々な世界から来た人間と話す機会がある。お前の世界からも、何人か来た。」

それは行人にとって予想外の情報だったが、今は深く追わないことにした。


ソルウェンが続けた。

「この世界のことを話そう。」

そこからソルウェンが語り始めた。

森が動く。精霊が応える。魔法が機能する。これらはすべて、世界に「秩序」があることを示している。秩序があるということは、秩序を支える原理がある。原理があるということは——その原理はどこから来たのか。原理の外側に、原理を置いた何かがなければならない。

行人は聞きながら、頭の中で整理していた。

これはアリストテレスの論法だ。運動には原因があり、原因の連鎖を遡ると、最初に動かした動かされない者がいなければならない。トマス・アクィナスという哲学者は、それをスコラ哲学の中で精緻化した。デカルトが反旗を翻そうとした、あの体系。

しかしソルウェンの話し方には、教条的な匂いがなかった。「こうなっているから従え」ではなく、「こう考えると、こうなる」という語り口だった。デカルトが対抗しようとしたスコラ哲学の権威主義とは、手触りが全く違う。権威があるから正しい、ではなく、考えるとそうなる、という姿勢。


「この世界の魔法は、お前には使えない。」

ソルウェンが言った。

「しかしお前には見えているものがある。外側から見ているから。」

「そうです。」

「では聞く。外側から見て、魔法の構造はどう見えるか。」

行人は少し考えてから答えた。

「意志と物理現象の間に、隙間がない。使う側は意志を持ち、それが直接現象に作用する。どのように接続されているかを、使う側は意識していない。」

「その隙間がない状態を、お前の世界の哲学者は何と言っていたか。」

「デカルトは、その隙間を解けなかった問いとして抱えていました。心と体はどこで繋がっているのか。」

「そうだ。」

ソルウェンは頷いた。

「この世界の住人は、その問いを立てない。立てなくても生きていける。しかしお前は、立てる。立てるから、見える。」

行人は黙って聞いていた。

「隙間がない状態で生きている人間と、隙間の外側から見ている人間。どちらが世界をよく知っているか。」

「どちらとも言えない。」

「なぜ。」

「使えなければわからないことがある。使えなければ見えないことがある。どちらかが優れているのではなく、見えているものが違う。」

ソルウェンはそれを聞いて、また少し笑った。

「お前の師も、同じことを言っていたかもしれない。」

「どういう意味ですか。」

「デカルトは方法論を持っていた。疑えるものを全て疑い、疑えないものだけを足場にする。しかしその方法論は——外側から世界を見る、という姿勢だ。世界の中に入って生きるのではなく、世界を対象として観察する。」

「それが問題なんですか。」

「問題とは言っていない。」

ソルウェンは静かに言った。

「ただ、外側から見続けることにも、限界がある。見えないものが出てくる。」

「内側からしか見えないものが。」

「そうだ。」

行人は少し黙った。内側からしか見えないもの——それは行人がこれまで一度も立ったことのない場所だ。観察者として外側にいることが、行人の自然な立ち位置だった。元の世界でも。異世界でも。

「お前は内側に入ったことがあるか。」

ソルウェンが聞いた。

「ない、と思っています。」

「なぜない。」

行人は答えなかった。答えられなかったのではない。答えが、少し怖かった。

「何か言いたそうだな。」

ソルウェンが行人を見た。

「論法は理解できます。ただ、一つ聞いていいですか。原理がそこにある、ということは認める。しかしその原理が、意志を持つ存在だとは言えないのではないか。」

「なぜ意志が必要だと思う。」

「あなたが意志のある原理として神を想定しているから、聞いているんです。」

ソルウェンは少し笑った。笑い方がテアとも、エナとも、ライナとも違う。何かを確かめたときの笑い方だった。

「意志のないところに、秩序は生まれるか。」

「生まれます。俺の世界の物理法則がそうです。意志のない規則が、宇宙の秩序を作っている。」

「その法則は、なぜそこにある。」

行人は少し間を置いた。

「……そういうものだから、としか言えない。」

「それを我々は神と呼んでいる。」

行人は黙った。

この返しは予想していた。論理の構造として、どこかでこの言葉が来ることはわかっていた。しかし予想していても、崩せなかった。「そういうものだから」という壁は、行人の世界にも、この世界にも、等しく存在している。その壁の手前で、人はそれぞれ違う名前をつける。神と呼ぶか、法則と呼ぶか。


テアが息を詰めているのがわかった。ガランは火を見ていた。

「デカルトも、同じ壁の前に立った。」

ソルウェンが言った。

「そうです。そして神を持ち出した。」

「なぜ持ち出したと思う。」

「自分の認識論を成立させるためです。世界が本当に存在するという保証が、神なしには得られなかった。」

「つまり——必要だから、神を置いた。」

「そういう言い方もできます。」

「必要だから置く、と、存在するから認める、は、どう違う。」

行人は少し止まった。これは鋭い問いだった。デカルトへの批判としてしばしば向けられる問いと、構造が似ている。神を論理的に必要とするから置く、ということは、神の存在を証明したのではなく、神を道具として使ったのではないか、という批判。

「違います。必要だから置くのは、道具として使うことです。存在するから認めるのは、事実を受け取ることです。」

「では、デカルトはどちらをやったと思う。」


行人はしばらく黙った。正直に答えれば、こうなる——デカルトは、どちらでもあった。しかしどちらでもあった、という答えは、哲学的に不誠実だ。

「わからない、というのが今の正直な答えです。」

「正直な男だ。」

ソルウェンは三度目の同じ言葉を言った。


テアが遠慮がちに口を開いた。

「あの、一つ聞いていいですか。」

ソルウェンがテアを見た。

「神がいなければこの世界が成立しない、というのはわかりました。でも、神が意志を持つかどうかは、どうやってわかるんですか。」

ソルウェンは少し間を置いてから答えた。

「わからない。」

テアが目を丸くした。行人も少し意外だった。

「わからないのに、信じているんですか。」

「そうだ。」

ソルウェンは静かに言った。

「理性が届く限界の先に、信じることがある。理性で神の存在には至れる。しかし神が何であるかは、信じることによってしか知れない。」

テアはしばらく黙った。行人も黙っていた。

「それは、ずるくないですか。」

テアが言った。

「証明できないことを信じるのは。」

「ずるいかもしれない。」

ソルウェンは頷いた。

「しかし聞く。お前は、証明できないものを何も信じていないか。」

テアは答えられなかった。行人も、答えなかった。

ソルウェンはその沈黙を、しばらく置いた。追い打ちを打たなかった。ただ、静かに見ていた。

「今日はここまでにしよう。」

ソルウェンが立ち上がった。

「続きは明日だ。」


行人は外まで送った。夕暮れが始まっていた。深みのある紫がかった赤。見慣れた色になっていた。

「一つ聞いていいですか。」

行人は言った。

「かつての迷い人——あの男について、もう少し聞かせてもらえますか。あの男が星を見ていたのを、あなたは直接見たんですか。」

「見た。」

ソルウェンは立ち止まった。

「一度だけ、話したことがある。」

「何を話しましたか。」

「星の動きから世界の構造がわかる、と言っていた。俺は聞いた。それで何かがわかったとき、お前はどうするつもりだ、と。」

「あの男は何と答えましたか。」


ソルウェンはしばらく黙ってから言った。

「わからない、と言っていた。ただ、知りたいから知る、と。」

行人は息を吐いた。テアと最初に話した夜に、行人が言ったのと、同じ言葉だった。

「正しかったと思いますか。その答えは。」

「正しかった。」

ソルウェンは短く言った。

「あの男は信じていた。証明できないまま、信じ続けた。」

「何を信じていたんですか。」

「問いに意味がある、ということを。答えが出なくても、問い続けることに意味がある、ということを。」

行人は黙った。

「お前も、同じことをしている。」

ソルウェンが言った。

「気づいているか。」

「気づいています。ただ、俺が信じているかどうかは、まだわからない。」

ソルウェンは頷いた。

「正直な男だ。明日、また話そう。」

夕暮れの中を、老人の背中が遠ざかっていった。行人はしばらくその背中を見送った。


テアが隣に来た。

「あの人、すごいですね。」

「そうだな。」

「言い負かされましたか。」

言い負かされた、というより——」

行人は少し考えた。

「同じ場所に立っていた、という感じがした。」

「同じ場所?」

「俺もあの人も、答えの出ない問いの前にいる。ただ、答えの出ない理由が違う。あの人は信じているから問わない。俺は信じないから答えが出ない。」

テアはしばらく黙った。

「どっちの方がいいんですか。」

「わからない。」

二人でしばらく、遠ざかるソルウェンの背中を見ていた。

テアが言った。

「証明できないものを信じるか、という問い——私、答えられなかったです。」

「俺もだ。」

「なんで答えられなかったと思いますか。」

行人は少し考えた。

「信じているものが、あるからじゃないか。」

テアは行人を見た。

「信じていることを、証明しようとしている。証明できないまま信じていることを、認めたくない。だから答えられなかった。」

「ユキトさんは、何を信じているんですか。」

行人は答えなかった。答えられなかったのではない。今は答えたくなかった。

テアはそれ以上聞かなかった。

二人は村に戻り始めた。暗くなりかけていた。


ガランの家に戻ると、ライナがいた。

珍しかった。ライナがガランの家に来ることはほとんどない。

「長老と話したんだって。」

「そうです。」

「どうだった。」

「強い人でした。」

ライナはしばらく行人を見た。

「負けたか。」

「負けた、というより——」

行人は少し考えた。

「まだ続きがある。」

「明日も話すのか。」

「そうなりそうです。」

ライナは何も言わずに、ガランの家を出ていった。それだけだった。挨拶もなかった。

行人はその背中を見送りながら、ライナが「長老と話したんだって」という情報をどこで知ったのかを考えた。村は狭い。あっという間に広まっているのだろう。

ライナが来たのは、それを確かめに来ただけか、それとも別の何かか——行人はその問いを、今夜は括弧に入れないことにした。


行人は一人になってから、また外に出た。空を見上げた。三つの星が出始めていた。

かつての迷い人が見上げた星を、ソルウェンも見ていた。そして今夜、行人が見ている。三人が同じ星を見ていた、というのは正確ではないかもしれない。しかし同じ問いの前に立って、同じ星を見上げていた、というのは正確だ。


どこへ行っても、俺は同じことをやっている。


その言葉が浮かんだ瞬間、行人は気づいた。今日のその言葉は、倦みでも確認でも、肯定でもなかった。

何か別のものだった。うまく言葉にできなかった。ただ、以前とは違う温度を持っていた。

行人はその温度を括弧に入れないことにした。

初めて、括弧に入れなかった。


明日、またソルウェンと話す。「証明できないものを信じないのか」という問いに、行人はまだ答えていない。答えを持っていないのではなく、答えを認めることを、まだためらっている。

それが何なのかは、明日わかるかもしれない。


三つの星が、静かに浮かんでいた。


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