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哲学科助教授・我妻行人、異世界で我思う、故に・・・  作者: 深海周二


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第四章 星を見ていた男

行人が村の暮らしに慣れた、という言い方は正確ではない——と、以前も思った。

しかし今は少し違う言い方ができる。慣れたのではなく、輪郭が見えてきた、というのが第一段階だった。そして今は、輪郭が当たり前になった、という段階にいる。当たり前になる、ということは、見えなくなる、ということでもある。


異世界に来て、数ヶ月が経っていた。

朝、鶏に似た何かが鳴く。行人は起きる。ガランの家の前にエナが何かを置いていく。行人は礼を言う。エナは「余ったので」と言って行く。午前中は村の仕事を手伝おうとして、断られるか、邪魔にならない程度の作業を任される。昼にエナと話す。午後はテアと研究をするか、村の外れをぶらぶら歩くか、ガランの家で本を読む——異世界に来てから行人が気づいたことの一つは、この世界にも文字があり、読める、ということだった。カントの理屈で言えば、当然そうなる。夕方、テアと話す。夜、ガランと短く話すか、一人で空を見る。


三つの星が出ている。それも当たり前になっていた。

どこへ行っても、俺は同じことをやっている。

その言葉が頭に浮かんだ瞬間、行人は少し止まった。同じ言葉なのに、今日は少し違う響きを持っていた。これまでは確認だった。あるいは、肯定だった。しかし今日は——なんと言えばいいのか——静かな、倦みのようなものが混じっていた。


倦み、という言葉が正確かどうかはわからない。ただ、何かが以前と違う。

エナが近くにいる。テアが毎夕話しかけてくる。ライナは相変わらず勝気だが、最近は行人を見つけると何かしら言葉を投げてくるようになっていた。悪口とも挨拶ともつかない、あの感じ。カルタは干渉しなくなった。ガランは「急ぐな」以外の言葉も、少しずつ増えてきた。


欲せられている、ということはわかる。

しかしその欲せられている感覚が、何かを満たしていない。元の世界で何度も経験した、あの感覚だった。満たされる手前で止まる感覚。もう少しで届く、と思っているうちに、また同じ場所に戻っている。

行人はその感覚を、今のところ括弧に入れることにした。括弧に入れることには慣れていた。慣れすぎているかもしれない、とは思ったが、それもまた括弧に入れた。


ライナと言葉を交わすことが、少しずつ増えていた。

増えた、というのは正確ではないかもしれない。ライナの方から来る頻度が増えた、というのが正確だ。行人が何かをしているとき、ライナが通りがかりに何かを言う。

「また観察か」

「テアと何を話してたんだ」

「その服、いい加減どうにかならないのか」

最後の言葉については、行人も同意した。異世界に来て数ヶ月、スーツとネクタイはさすがに限界だった。ガランが村の男物の服を用意してくれたが、行人はまだそれに袖を通していなかった。

「なんで着ないんだ。」

ある日、ライナが聞いた。

「着替えると、自分が別の人間になった気がするので。」

「それの何が悪い。」

「悪くはないですが、まだその準備ができていない。」

ライナはしばらく行人を見た。呆れているのか、考えているのか、判断がつかなかった。

「……変な男だな。」

「よく言われます。」

「誉めてない。」

「わかっています。」

ライナは短く息をついて、行人の横を通り過ぎた。今日は肩がぶつかる距離ではなかった。以前よりは遠く、しかし以前よりは近い、微妙な距離だった。


数日後、ライナがまた来た。

今度は何も言わずに、行人の隣に座った。行人が何かをしていた、というわけでもない。ただ、村の外れの石に腰掛けていた。ライナはその隣に来て、同じように石に腰掛けた。

二人でしばらく、何も言わずにいた。


行人が先に口を開いた。

「何かありましたか。」

「別に。」

「ただ座りに来たんですか。」

「悪いか。」

「悪くはないですが。」

またしばらく沈黙が続いた。村の方から、夕方の音が聞こえてくる。誰かが何かを叩いている音。子供が笑っている声。

「ユキト。」

ライナが言った。名前を呼ばれたのは初めてだった。

「はい。」

「あんたは、ここにいていいと思ってるか。」

 行人は少し考えてから答えた。

「いていいかどうかは、わからない。ただ、今はここにいる。」

「それで十分なのか。」

「十分かどうかも、よくわからない。」

ライナはそれを聞いて、少し黙った。それから、短く鼻で息をついた。

「正直な男だ。」

「カルタにも同じことを言われました。」

「あいつと一緒にするな。」

ライナは立ち上がった。帰るのかと思ったが、帰らなかった。ただ立って、遠くを見ていた。行人はその横顔を、一度だけ見た。何かを考えているような、そうでないような、判断のつかない顔だった。

「前の迷い人の話、聞いたか。」

「今日、ガランさんから聞いた。」

「そうか。」

それだけだった。ライナは何も続けなかった。行人も聞かなかった。

やがてライナは「飯の時間だ」と言って、村の方へ歩いていった。行人はその背中を見送りながら、括弧の輪郭がまた少しくっきりしたことに気づいた。


近づかれている、ということはわかる。

しかしこの近づかれ方は、エナやテアのそれとは違う。エナは行人を気にかけることで近づく。テアは行人と考えることで近づく。ライナは——何のために近づいているのか、行人には今もわからない。ライナ自身にもわかっていないかもしれない。

苛立ちでも、親切でも、知的な共鳴でもない。ただ、隣にいる。それだけだった。

元の世界にも、同じ引力を持つ女性が何人かいた。行人はそのたびに、理由もなく距離を取ってきた。


今日も、括弧に入れた。ただし今日の括弧は、以前より少し、透けて見えた。


ガランが「前の迷い人」について語り始めたのは、行人が三つの星を眺めていた夜だった。

特に何かのきっかけがあったわけではない。ただ、行人が外で空を見ていたとき、ガランが珍しく後からついてきた。二人で並んで、星を見た。

しばらく沈黙が続いた後、ガランが言った。

「前の迷い人も、よくあれを見ていた。」

 行人は聞き返さなかった。続きがあることがわかったからだ。

「毎晩だ。村が寝静まった後も、夜明けまで見ていることがあった。俺が若い頃の話だ。」

「若い頃、というのは——」

「お前の年齢より、俺が若かった頃だ。」ガランは短く言った。

「その迷い人は、お前より若かった。二十代の前半だったと思う。」

行人は少し計算した。ガランの年齢が七十代だとして、若い頃というのは五十年以上前のことになる。

「言葉は通じましたか。」

「通じた。お前と同じだ。魔力もなかった。」

「その人は、三つの星の何を見ていたんですか。」

ガランはしばらく黙った。火を見るときの目で、星を見ていた。

「動き、を見ていた。三つの星がそれぞれどう動くか。速さ、位置、周期。毎晩、同じ場所から、同じ方角を向いて記録していた。」

「記録、というのは。」

「書いていた。紙に。この世界の文字ではなく、あの男の世界の文字で。俺には読めなかった。」

行人は黙って聞いていた。

「やがて、あの男はこう言い始めた。三つの星の動きには規則がある。その規則から逆算すれば、この世界の構造がわかる。この世界がどういう形をしているか、どういう力によって動いているか。星を見ることで、そこまでわかると。」

「村人は何と言いましたか。」

「誰も相手にしなかった。」ガランの声に、何かが混じった。責めているのではない。ただ、事実として言っている声だった。

「星の動きを知って何になる。魔法が使えるわけでもない。畑が豊かになるわけでもない。そう思うのは当然だ。俺も当時はそう思っていた。」

「今は。」

「今は、わからない。」

ガランは一度だけ、行人の方を見た。

「あの男が正しかったかどうかは、俺にはわからない。ただ、間違っていたとも思っていない。」

二人はしばらく、また黙って星を見た。

「その人は、最後まで村にいましたか。」

「最後まで。誰にも証明できないまま、死んだ。」

ガランは静かに言った。

「星の記録を書いた紙は、俺の家にある。お前の世界の文字で書かれているから、俺には読めない。お前には読めるかもしれない。」

行人は少し驚いた。

「なぜ今まで言わなかったんですか。」

「急ぐな、と言っていたからだ。」

行人は少し笑いそうになった。この老人の「急ぐな」は、本当に万能の言葉として機能している。ただ今夜は、その言葉の重さが少し違って聞こえた。急ぐな、というのは待て、ということではなく——お前がその言葉を受け取れる状態になるまで待っていた、ということかもしれない。


翌朝、ガランが一冊の帳面を行人に渡した。

表紙は革張りで、端が擦り切れていた。開くと、行人の知っている文字が並んでいた。ただし現代語ではなく、少し古い言葉遣いで書かれていた。日本語だった。

行人はしばらく、その文字を見ていた。

別の世界から来た人間が書いた言葉が、今自分の手の中にある。同じ言語を持つ者が、この異世界に、五十年以上前にいた。その事実が、奇妙な重さで行人の手のひらに乗った。

帳面の内容は、ガランの言った通りだった。三つの星の動きを、几帳面に記録している。日付と思われる数字、星の位置を示す図、角度と思われる数値。そして余白に、思考の断片が書き込まれている。

行人がその断片を読み始めると、男の声が聞こえてくるような気がした。


——この世界の星は、元の世界の星とは動き方が違う。しかし動き方に規則がある。規則があるということは、この世界を支える原理があるということだ。


——村人は魔法を「そういうものだ」として使っている。しかし魔法にも規則があるはずだ。規則のないところに、現象は生まれない。


——俺には魔法が使えない。だから魔法の外側から見ている。外側からしか見えないものがある。


行人は帳面から目を上げた。窓の外に、朝の光が入り始めていた。

この男は、自分と同じことを考えていた。魔法が使えないから、外側から見る。外側から見るから、見えるものがある。行人が第二章の最初の一日に気づいたことと、構造が同じだった。

しかしこの男と自分の間には、決定的な違いがある。

この男は、問いを誰にも届けられなかった。

行人は帳面の後半を読み進めた。星の記録は几帳面に続いているが、余白の文章は少しずつ変化していた。最初は「規則がある」という確信に満ちた言葉だったものが、やがて「誰かに話したいが、どう話せばいいかわからない」という言葉になり、最後の方には「俺が死んだ後、この記録を読める者が来るかもしれない」という一文があった。

行人はその一文を、もう一度読んだ。

俺が死んだ後、この記録を読める者が来るかもしれない。

この男は、書き続けることが次の誰かへの問いの手渡しだと、わかっていた。答えが出なくても、書くことをやめなかった。それはデカルトが問いを立て続けたことと、同じ形をしている。


行人は帳面を閉じた。

外側からしか見えないものがある——自分が第二章の最初の一日に気づいたことと、同じだった。五十年以上前にこの世界に来た別の迷い人が、同じ場所に立っていた。


どこへ行っても、俺は同じことをやっている。

今日のその言葉は、また少し違う温度を持っていた。倦みでも肯定でもなく、静かな、確認だった。ただし今日の確認は、自分一人についてではなく、もっと広い何かについての確認だった。人間というのは、どこへ行っても同じことをやっているのかもしれない。俺だけではなく。


その夜、行人はテアに帳面のことを話した。

テアは驚いた顔をした。

「そんなものが残っていたんですか。」

「ガランさんが持っていた。」

「おじいちゃん、一度も話したことなかった。」

「急ぐな、だったんだろう。」

テアはしばらく黙った。それから、少し違う顔で行人を見た。

「……その人も、魔法が使えなかったんですよね。」

「そうらしい。」

「ユキトさんと同じだ。」

「同じだな。」

「その人の書いていたこと——星の動きから世界の構造がわかる、って——ユキトさんはどう思いますか。」

行人は少し考えてから答えた。

「間違っていないと思う。」

「じゃあ、その人は正しかったんですか。」

「正しかったかどうかは、証明できない。ただ、問いの立て方は正しかった。」

「問いの立て方が正しくても、答えが出なければ、意味がないんじゃないですか。」

テアの問いは、まっすぐだった。責めているのではなく、本当に知りたがっている問い方だった。

「デカルトも、心と体はどこで繋がっているのか、という問いに答えを出せなかった。」

行人は言った。

「しかしその問いがなければ、俺はテアに何も言えなかった。あの夜、暴走を止めるための言葉が、俺の中にあったのは、デカルトが問いを立てたからだ。」

テアは黙った。

「答えが出なくても、問いは次の人間の手に渡る。」

「……次の人間、が、ユキトさん、ということですか。」

「かもしれない。」

テアはしばらく空を見た。三つの星が出ていた。

「なんか、怖い話ですね。」

「どのあたりが。」

「その人が見ていた星を、ユキトさんも見ている。その人が気づいたことを、ユキトさんも気づいた。じゃあ、その人と同じ場所に、ユキトさんも行くんですか。誰にも証明できないまま、死ぬ。」

行人はしばらく考えた。

「それは怖くない。」

「なんでですか。」

「証明できないことは、前から知っていた。俺がここに来た理由も、どうやって来たかも、なぜ俺なのかも。全部証明できない。ただ、ここにいる。それだけのことだ。」

テアはまた黙った。今度の沈黙は少し長かった。

「……その人と話せたら、よかったですね。」

「そうだな。」

行人は帳面の表紙を見た。擦り切れた革の感触が、手のひらに残っていた。


ソルウェンが村を訪れるという知らせが来たのは、それから数日後のことだった。

村にエルフの使いが来た。長老ソルウェンが近くを通る。時間が許せば村に立ち寄りたいと言っている。そういう内容だった。

村人たちがざわついた。長老が村を訪れることは珍しい。何か特別な用件があるのではないか、という話が広まった。ガランだけが、特に動じた様子もなく頷いた。

行人はその知らせを聞いたとき、奇妙な感覚を覚えた。

議論したい、と思った。

それは知的好奇心ではなかった。自分の問いを外にぶつけたい——そういう衝動だと、自分でわかった。これまで行人は、問いを頭の中に置く人間だった。宙ぶらりんのまま抱えておく。外にぶつけることを、ずっと避けてきた。

なぜ避けてきたのかは、今もよくわからない。


行人はガランのところへ行った。

「ソルウェンというのは、どんな人物ですか。」

「エルフの長老だ。三百年以上生きている。」

「知恵者ですか。」

「知りたがりだ。」

ガランは少し間を置いた。

「お前と、少し似ている。」

行人はその言葉を少し意外に思った。自分と似ている、という言い方を、ガランがするとは思っていなかった。

「それから——あの男のことを、知っているかもしれない。」

「前の迷い人のことを?」

「ソルウェンの年齢なら、時代が合う。あの男が生きていた頃に、ソルウェンもこのあたりにいた可能性がある。エルフは足が広い。どこへでも行く。」

行人は帳面のことを思った。星の動きを記録し続けた男。この世界の構造を、外側から把握しようとした男。誰にも相手にされなかった男。

その男のことを、三百年以上生きている長老が知っているかもしれない。

「ガランさんは、ソルウェンにあの男のことを聞いたことがありますか。」

「ない。」

ガランは短く言った。

「お前が聞け。」

これも「急ぐな」と同じ重さを持つ言葉だった。お前が聞け、というのは、俺には聞けない、あるいは、お前が聞くべきだ、という意味だろう。どちらなのかは、今の時点ではわからない。ただ、ガランが五十年以上その問いを抱えてきた、ということだけはわかった。


行人はその夜、一人で外に出た。

三つの星が出ていた。かつての迷い人が毎晩見上げていた星。行人が最初の夜に了解した星。今はもう当たり前の夜空の一部になっていた星。

行人はその星を見ながら、今日一日に起きたことを順番に並べた。帳面を受け取ったこと。五十年以上前の日本語を読んだこと。「俺が死んだ後、この記録を読める者が来るかもしれない」という一文。ライナが隣に座って、何も言わずにいたこと。ソルウェンが来るという知らせ。

そしてガランの言葉——「お前が聞け。」

行人はその言葉の意味を、もう一度考えた。ガランはソルウェンにかつての迷い人のことを聞かなかった。五十年以上、聞かなかった。なぜ聞かなかったのか。聞けなかったのか、聞くべきではないと思っていたのか、あるいは——聞く必要のある人間が来るまで、待っていたのか。

行人はその星を見ながら、初めてある言葉が頭に浮かんだことに気づいた。


俺はここで何をすべきか。


「すべきか」という言葉を、行人はこれまで意識的に避けてきた。すべきことがある、ということは、ここに意味があるということだ。意味があるということを、行人はずっと信じないようにしてきた。信じると、裏切られたときに面倒だから。

しかし今夜は、その言葉が自然に浮かんだ。

なぜ浮かんだのかはわからない。かつての迷い人の帳面を読んだからかもしれない。あの男が誰にも届けられなかった問いを、行人が五十年後に受け取ったからかもしれない。あるいは、ソルウェンという受け取り手がいる、と初めて感じたからかもしれない。


行人はしばらく星を見てから、家に戻った。

答えは出ない。しかし今夜は、答えが出ないことが、以前ほど不快ではなかった。

かつての迷い人も、答えが出ないまま星を見上げていた。それでも書き続けた。問いを手放さなかった。


我思う、故に——。


続きは、まだ書かれていない。ただ、ソルウェンが来る。あの男の問いを持って、行人は長老の前に立つことになる。


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