第二章 魔法が使えない男の使い道
行人が目を覚ましたのは、鶏の声によってではなかった。
いや、鶏かどうかもわからない。ただ、夜明けに合わせて何かが鳴いた。行人の知っている鶏の声よりも低く、一声一声の間隔が長い鳴き声だった。それが二度、三度と続いたとき、行人はすでに目を開けていた。
眠れていなかったわけではない。いつの間にか眠り、いつの間にか目が覚めた。干し草の袋の上に横になっていた体を起こすと、全身が軋んだ。三十八年間、行人はほぼ毎晩まともな寝具で眠ってきた。その三十八年分のつけが、一晩で来たような気がした。
ガランはすでに起きていた。
暖炉の前に座り、何か細い棒のようなものを手でいじっていた。作業しているのか、考えているのか、行人には判断がつかなかった。老人の背中は、しかし昨夜と同じ重さを持って、静かにそこにあった。
「おはようございます。」
「ああ。」
それだけだった。行人は外に出て、顔を洗った。水場は昨夜のうちに場所を確認していた。冷たい水に顔を突っ込んだ瞬間、頭が一気に覚醒した。水の冷たさだけは、元の世界と変わらなかった。
村はすでに動き始めていた。
朝の光の中で見る村は、昨夜よりも輪郭がはっきりしていた。石造りの家が十五、六軒。それをゆるやかに囲むように、耕された畑と、家畜らしき動物の柵が並んでいる。子供たちが走り回り、女性が洗い物を始め、男たちが農具を担いで畑の方へ歩いていく。
行人を見る目は、昨夜よりも落ち着いていた。ただ、落ち着いた目でじっくり見られるのは、感情的に騒がれるよりもかえって居心地が悪いと、行人は思った。観察されている、という感覚。
何もない、と思われているはずだ。
この世界の物差しで測れば、行人は何もない男だ。魔法が使えない。この土地の農作業の知識もない。体力も、村の男たちに比べれば大方劣るだろう。持っているのはスーツとネクタイと、九年間で積み上げた西洋哲学の知識だけだ。西洋哲学が農作業の役に立つかどうかは、行人にも自信がなかった。
朝食は、ガランが出してくれた。昨夜のスープとは別の、穀物を煮たような粥だった。塩気がある。それだけで、体が少し落ち着いた。
「今日、何かできることはありますか。」
行人が聞くと、ガランはしばらく間を置いた。
「今日は、村を知れ。」
それが全てだった。
村を歩き始めて三十分も経たないうちに、行人は一人の男と向き合うことになった。
カルタ、と後で教えられた名前。二十代前半か。背が高く、肩幅がある。農作業で鍛えられた体つきで、行人より頭一つ分は高かった。顔立ちは悪くないが、今は険しく固まっていた。
最初は無言だった。行人の前に立ちふさがり、上から下まで眺め回すように見た。それから、低い声で言った。
「魔法、使えるか。」
行人は少し考えてから答えた。
「おそらく使えない。」
カルタの顔が変わった。侮蔑ではなく、確認が怒りに変わった顔だった。
「使えない男が、なんでガランの家にいる。飯だけ食って、何ができる。農作業も無理だろう。役立たずをここに置いておく理由が、俺にはわからない。」
行人は少し考えてから答えた。
「今のところ、何もできないと思います。」
カルタは眉をひそめた。おそらく、反論を期待していた。謝罪か、言い訳か、あるいは反発か。いずれにせよ、行人の返答は予想の外にあったらしく、カルタはしばらく黙った。
「平気なのか、それで。」
「平気かどうかは別として、今は事実がそうなので。」
「事実。……いい度胸だな。」
「怒らせるつもりはないですが、そう見えているなら仕方がない。」
カルタの顔がさらに険しくなった。
こういう場合、行人の言葉の渡し方は相手の感情を刺激することがある。論理的に正しいことを言っているつもりなのに、かえって相手を怒らせる。これはK大学でも同じだった。論理と感情は別の言語だ、と行人はずっと思っている。それでも論理の言語しか使えないのは、もはや性格の問題だった。
「ガランに頼んで追い出してもらう。」
「それはガランさんが決めることです。」
カルタは舌打ちをして、行人の横を通り過ぎた。肩が触れるぐらいの距離を歩いた。わざとだろう。行人は動かなかった。
行人は背中を見送りながら、カルタが一度も怒鳴らなかったことに、なぜか気づいた。感情は荒立っていたが、手は出さなかった。それが何かを意味するかどうかは、今の時点ではまだわからない。
背中が遠ざかってから、行人は少し思った。
カルタの感情は、行人には理解できる。異邦人への警戒心でも、単純な嫌悪でもない。あれは、役割への執着だ。この村の中で何かしらの位置を持っている男が、どこから来たかもわからない異邦人の到来によって、その位置が揺らぐことへの反発。
自分が持っている「場所」が揺らぐことへの、生理的な抵抗。どの世界でも、どの集団でも、それを持たない人間はいない。カルタを責める気にはなれなかった。行人自身も、別の場面では同じ感情を持つことがある。
元の世界でも、あれに似た感情を向けてくる人間は何度かいた。行人が助教授の職を得たとき、同期の何人かはあれと同じ目をしていた。
どこへ行っても、俺は同じものを見ている。そう思って歩き出したとき、後ろから声がかかった。
「あの、ちょっとよろしいですか。」
振り返ると、三十代前半ほどの女性が立っていた。丸みのある顔立ちに、人懐っこい目をしている。両手に木の器を持っていた。
「さっきのカルタのこと、すみませんでした。あの子、ああいうところがあって。」
「謝らなくていいですよ。彼の言っていることは、正しいので。」
女性は少し驚いた顔をした。それから、ふっと笑った。
「正直な人ですね。よかったら、これ。」
器を差し出してきた。
「ランカの実を絞ったものです。この辺では朝に飲む習慣があって。口に合うかはわからないですけど。」
行人は受け取った。飲んでみると、酸味と甘みが混ざった、薄い果汁の味がした。知らない味だったが、不快ではなかった。
「ありがとうございます。」
「私、エナといいます。何かわからないことがあれば、聞いてください。ガランさんは口数が少ないから。」
エナは少し照れたような顔をして、それから仕事に戻っていった。行人はその背中を見送りながら、器の中の果汁を見た。
元の世界でも、最初に親切にしてくれるのはたいてい女性だった。これも、どこへ行っても同じことが起きている、ということなのかもしれない。行人はそれを、今のところは「自分の運がいい」と処理することにした。深く考えると、また別の問いが始まる。
村を知れ、というガランの言葉を行人なりに解釈すると、観察することだった。
手伝いを申し出て断られ、挨拶をして怪訝な顔をされ、それでも行人は村の中をゆっくりと歩いた。歩きながら、見た。
特に気になったのは、魔法だった。
村人たちにとって、魔法は日常の延長線上にある。重い荷物を軽くするのに魔法を使う。火を起こすのに魔法を使う。水を遠くから引くのに魔法を使う。それは行人の世界でスイッチを押すのと大差がない動作に見えた。意識的にやっているというより、体が覚えている動作として処理されていた。
行人は途中から、村人たちに声をかけ始めた。
「すみません、今の、何をしたんですか。」
荷物を運んでいた中年の女性が振り返り、不思議そうな顔をした。
「荷物を軽くしただけですよ。」
「その、軽くするとき、何か意識していることがありますか。」
女性はしばらく考えた。本当に考えている、という感じの間だった。
「……特には。ただやるだけ、という感じで。」
「やるだけ、というのはどういう感覚ですか。」
女性はさらに考えた。困惑しているというより、考えたことがなかったことを考えようとしている、という顔だった。
「水を飲もうとするみたいな? 意識してやるというより、やりたいと思ったらやれる、という……。うまく言えない。」
「いや、十分です。ありがとうございます。」
行人はその場を離れながら、頭の中で整理した。
意識してやるのではなく、意志が体を通じて自然に発現する。歩くとき、誰も足の動かし方を考えない。やりたいと思えば体が動く。この世界の魔法は、それと同じ構造をしているらしかった。
デカルトが生涯をかけて悩んだ問題がそこにある。心と体はどこで繋がっているのか。晩年、松果体という小さな器官に答えを求めたデカルトは、結局その問いに答えられないまま死んだ。
この世界の村人たちは、その問いに悩まなくていい。悩まなくていいから、答えも持っていない。
そして俺だけが、その問いを立てられる。
できないからこそ、外側から見える。できないことに、初めて意味が生まれた気がした。
もう少し歩くと、今度は老人が井戸の水を桶に移しているのが見えた。老人は特に力を入れた様子もなく、桶を宙に浮かせたまま水場まで運んでいった。行人はしばらくその動作を目で追った。
浮かせる、という動作を老人は意識していない。おそらく、重い桶を持つのが面倒だと思った瞬間に、体がそうした。思うことと、体が動くことの間に、あの老人には隙間がない。
デカルトは、その隙間を問い続けた男だった。精神と身体は全く異なる実体だ、とデカルトは言った。だとすれば、精神が身体を動かす仕組みはどこにあるのか。その答えを彼は最後まで出せなかった。
この世界の人間たちは、隙間のないところで生きている。
行人は隙間のある側から、彼らを見ている。
それは元の世界でも、ある意味で同じだったかもしれない。哲学を「教える」側にいた行人は、哲学を「生きる」側には一度もいなかった。観察者として外側にいることが、行人の自然な立ち位置だったのかもしれない。
元の世界でも。異世界でも。
どこへ行っても、俺は同じことをやっている。
その後、昼を過ぎた頃に行人はエナと再び顔を合わせた。
村の中央にある水場で洗い物をしていたエナが、行人を見つけて手を上げた。今朝ほど気を使った様子ではなく、気軽な、ただの挨拶だった。
「魔法の勉強、してるんですか。」
「観察しているだけです。」
「観察って、どういうことをするんですか。」
行人はエナに、今日一日見てきたことを簡潔に説明した。村人たちが意識せずに魔法を使っていること、使い方を言葉にできないこと、外側から見ると構造が見えてくること。
エナは洗い物の手を止めて、行人の話を聞いていた。真剣に聞いているというより、珍しいものを聞く顔で聞いていた。
「不思議な人ですね。できないのに、知りたがる。」
「そう見えますか。」
「そう見えます。でも、嫌いじゃないです、そういうの。」
エナは洗い物に戻りながら、それだけ言った。行人はその言葉を特に深く受け取らなかった。ただ、この村に来て初めて、誰かに「嫌いじゃない」と言われたという事実だけが、頭の片隅に残った。
午後の光の中で、村はゆっくりと動いていた。行人はまた歩き始めた。午後になって、行人に声をかけてきたのはテアだった。
ガランの孫娘、と後で知った。年は十九か二十か、そのくらいに見えた。背は行人より三十センチほど低く、肩まである茶色い髪を後ろで束ねていた。顔立ちよりも、目が印象的だった。大きい、というのではなく、何かを探しているような動き方をする目だった。
「昨日から、ずっと人に質問していましたよね。」
突然の言葉だった。行人は振り返った。いつから見ていたのかわからない。
「そうですね。」
「なんで。」
「なんで」という問い方が、まっすぐだった。礼儀として質問しているのではなく、本当に理由を知りたがっている声だった。
「魔法が使えないので、使える人間がどうやって使っているかを知りたくて。」
「使えるようになりたいから?」
「いや、使えるようになりたいというより、どういう仕組みなのかを知りたい。」
テアは少し黙った。
「仕組みを知って、どうするんですか。」
「別に、どうもしない。知りたいから知る。」
また黙った。今度は少し長い沈黙だった。
「……それ、わかります。」
テアが言った言葉は短かったが、その短さに何かが詰まっているような気がした。
「あなたも、そう考えるんですね。」
「みんなに変だって言われます。なんでそんなことを知りたいのか、って。」
「俺もよく言われました。」
テアは少し笑った。先ほどまでの探るような目が、わずかに和らいだ。
「私、魔法の扱いは一番得意なんですけど、なんで自分が得意なのかがわからないんです。ずっと気になっているのに、聞ける人がいなくて。」
「ガランさんに聞けばいいんじゃないですか。」
「おじいちゃんは、そういうことを聞くと怒るんです。やれればそれでいいと。」
行人はその感覚に覚えがあった。なぜそうなるかを問うよりも、できることを優先せよ、という圧力は、元の世界でも珍しくなかった。哲学科に来る学生の中にも、最初はそういう圧力に追い立てられるように疑問を抱えて来る者がいた。
「なぜ得意なのかを知りたいなら、俺に教えてもらえませんか。あなたが魔法を使うときの感覚を。できる限り細かく。」
テアは驚いた顔をした。
「私が教えるんですか。」
「あなたが使える人間で、俺が使えない人間だから。外側から見る目と内側から感じる感覚を合わせれば、何かわかるかもしれない。」
「……何かわかったら、私にも教えてくれますか。」
「わかったことは、全部。」
テアは少し考えてから、うなずいた。カルタのような感情的な拒絶ではなく、テアの同意には考えた形跡があった。それが行人には、少し心地よかった。
夕暮れになって、ガランと短く話す機会があった。
行人は一日の観察で気づいたことを、簡潔に話した。魔法が体に染み付いているということ、村人たちが魔法の構造を言語化できないということ、外側から見ることで見えてくるものがあるかもしれないということ。
ガランはただ聞いていた。何も言わなかった。
行人は最後に聞いた。
「なぜ俺を置いているんですか。追い出さずに。」
ガランはすぐには答えなかった。火を見ていた。
「以前来た迷い人のことを、昨夜言ったな。」
「ええ。」
「その人間も、魔力がなかった。」
行人は聞き返さなかった。続きがあると思ったからだ。
「その人間が、この村に何をもたらしたかは、まだ話さない。急ぐな。」
それだけだった。
行人はその言葉の意味を測り続けたが、今夜のところは答えが出なかった。急ぐな、という言葉には、何かを知っている者の重さがあった。待てと言っているのか、試しているのか、あるいは本当にただそれだけのことなのか。
一つだけ、確かなことがあった。ガランは行人を追い出そうとしていない。何らかの理由で、この老人は行人に関心を持っている。その関心が、かつての迷い人の記憶と繋がっているらしいことだけは、行人にもわかった。
暖炉の炎が、静かに揺れていた。
「もう一つだけ聞いていいですか。」
ガランが目だけで続きを促した。
「スキル鑑定、というものがあると、今日村人に教えてもらいました。俺を鑑定したら何が出るか、わかりますか。」
ガランは少し間を置いた。
「鑑定師を呼べばわかる。ただ、鑑定師はこの村にいない。隣の町にいる。」
「いずれ鑑定を受けた方がいいですか。」
「急ぐな。」
同じ言葉だった。行人は笑いそうになった。この老人の語彙の中で、「急ぐな」は万能の答えとして機能しているらしかった。しかし不思議と、それで納得できた。急いで何かを確かめたところで、今夜の干し草の寝床が変わるわけではない。
夜、テアとまた少し話した。
今日の昼の話の続きだった。テアが魔法を使うときの感覚を、たどたどしく話してくれた。手のひらの中に何か集まる感じ、意志を通り道に乗せるような感じ、流れに従うような感じ。行人はそれを丁寧に聞き、ひとつひとつ言葉にして返した。
「それ、今初めて言葉にした感覚のことを言ってる?」
「……そうかもしれない。」
「言葉にしてみて、どうでしたか。」
「なんか、変な感じです。ずっと体の中にあったものが、外に出た気がする。」
「それが言語化するということです。体の中にあったものに名前がつく。」
テアはしばらく黙って、空を見た。
「先生みたいな話し方をするんですね。」
「先生ではないけど。」
「先生じゃないなら、何ですか。」
行人は少し考えてから答えた。
「ここでは、わからないですね。まだ。」
テアは少し笑った。その笑い方が、瑠奈とも奈々美とも違う種類のものだと、行人は気づいた。どう違うかを言葉にしようとしたが、うまくいかなかった。言葉にできないものが、この世界には多い。それは元の世界でもそうだったはずだが、ここでは輪郭がくっきりしている気がした。
「一つ聞いていいですか。」
テアが言った。
「どうぞ。」
「なんで、使えもしない魔法のことを、そんなに知りたいんですか。使えないなら、関係ないじゃないですか。」
行人は少し考えた。
「俺の世界に、昔こういう問いを立てた人間がいました。心と体はどこで繋がっているのか、という問いです。その人間は、答えを出せないまま死にました。」
「答えが出なかったのに、意味があったんですか。」
「問いを立てたこと自体に意味があったんだと、俺は思っています。」
テアは黙った。考えているような、そうでないような、判断のつかない沈黙だった。
「……その人、誰ですか。」
「デカルトという、俺の世界の哲学者です。」
「デ、カルト。」
テアが音を確かめるように繰り返した。行人には、その繰り返し方が少し可笑しかった。デカルトの名前が異世界の夜の空気の中に置かれると、妙な軽さを持つ。重厚な哲学史の文脈から切り離されて、ただの固有名詞になる。それは悪いことではないと、行人は思った。
夜空には、また三つの星が浮かんでいた。
今夜はそれをテアと同じ方向から見ていた。それだけのことだったが、行人はしばらく空を見ていた。
知ることと、できることは別だから。
昼に自分が言った言葉が、夜になってから少しだけ重くなっていた。
別に、どうもしない。知りたいから知る。
テアに言ったその言葉を、行人は今夜になって、もう一度自分に向けて言い直した。俺はなぜここにいるのかを知りたいから、知ろうとしている。それだけのことだ。答えが出るかどうかは、今は関係ない。
ガランが言った「急ぐな」という言葉と、行人が自分に言い直した言葉が、どこかで重なった。重なった理由はわからなかったが、重なった、という感覚だけが残った。
今夜は眠れそうな気がした。昨夜よりは、少し。
寝床に戻りながら、行人は今日一日に起きたことを、順番に頭の中に並べた。カルタの敵意。エナの果汁。中年女性の「水を飲もうとするみたいな感覚」。ガランの「急ぐな」。テアの、言葉にしたことのないものを言葉にしようとする顔。
どれも、異世界に来る前の一日とは全然違う出来事だった。しかしどれも、どこかで見覚えのある感触を持っていた。敵意も、親切も、知的な共鳴も、元の世界にあったものと同じ手触りをしている。
異世界に来て、初めて一日が終わった。それだけのことが、行人にはなぜか、少しだけ重く感じられた。




