第一章 我思う、故に
我妻行人が「我思う、故に我あり」をホワイトボードに書いたのは、おそらく三百回を超えていた。
いや、正確な回数などどうでもいい。行人自身、数えたことはない。ただ、この春で赴任九年目に入るK大学文学部哲学科の講義室に立つたびに、同じ言葉を同じ場所に書いてきた。黒板ではなくホワイトボードに変わり、白墨ではなくマーカーに変わっても、書く言葉だけは変わらなかった。「コギト・エルゴ・スム」。我思う、故に我あり。ルネ・デカルトが十七世紀に書き記した、哲学史上もっとも有名かもしれない一文。
これを書くたびに、行人は少しだけ虚しくなる。
虚しさの理由は自分でも正確にはわからないが、おそらくこういうことだろうと思っている。三百回以上書いてきた言葉を、自分はまだ本当にはわかっていない。わかっているつもりで教えているが、わかっているということと、わかっているつもりでいることの区別が、どこかのタイミングから曖昧になってきた。曖昧になったまま九年が経ち、来月には専任助教授としての最初の任期が終わる。
それだけのことだ、と行人は思う。ただの職業的な疲弊というやつだ。そして、昨夜のことを思い出す。
宮内瑠奈が行人の部屋を出ていったのは、午前二時を少し過ぎた頃だった。行人は玄関まで見送らなかった。ベッドに横になったまま、天井を見ていた。瑠奈が鍵を閉めていく音、エレベーターの到着を告げるチャイムの音、それらが遠ざかり、部屋がまた静かになった。静かになった部屋で、行人は嘆息した。
正確に言えば嘆息というより、息を吐いた。もうすっかり馴染んだ動作だった。誰かと一夜を過ごした後の、この空虚さにも馴染んでいた。馴染んでいるということが問題なのかもしれないが、問題だとわかっていてもそれを解決しようという気にはなれなかった。
瑠奈と最初に関係を持ったのは、今年の一月だった。きっかけは他愛もないものだった。ゼミの後に残って質問してきた瑠奈に、行人が「続きは外で話さないか」と誘った。それだけのことだ。瑠奈は少し考えてからうなずいた。その「少し考えてから」という間が、行人には全部わかった。迷っているのではない。受け入れるための準備をしているのだ。こういうことを行人は昔から察知できた。才能なのか業なのか、いまだによくわからない。
瑠奈は賢い。それは本当のことだ。デカルトについて鋭い問いを立てられるし、行人の話の本質的な部分を掬い取る能力がある。それに、笑い方が好きだった。口元だけで笑うのではなく、目が先に笑う。
それでも、満たされなかった。
満たされないのは瑠奈のせいではない。行人は自分でそうわかっていた。わかっていながら、同じことを繰り返していた。誰かと一緒にいる間、何かが満たされるような感覚が来るのを、どこかで待ち続けている。その感覚は来たためしがなかった。
一度だけ、瑠奈に聞いたことがある。先生は何を求めているんですか、と。
行人は答えなかった。答えられなかったのではない。答えたくなかった。なぜなら、正直に答えようとすると、こうなるからだ。俺は自分が本当にここにいるのかどうかを確かめたい。誰かに触れることで、自分が実在するという感覚を得たい。そういうことを言える大人は、なかなかいない。
代わりに行人はこう言った。「哲学者の職業病だよ」と。
瑠奈は納得したような顔をして笑った。
行人は、その笑顔に、また小さな罪悪感を感じた。罪悪感を感じながら、しかし特に何もしなかった。罪悪感というのは感じるだけで消費されていく感情だ、と行人は思っている。感じれば感じるほど、実際の行動への変換率が下がっていく。これはデカルトとは全く関係のない、経験則だった。
翌朝、行人は七時に起きた。
シャワーを浴び、コーヒーを淹れ、昨夜の瑠奈の残した気配がまだどこかに漂っている部屋の中で、スーツを着た。一限目の講義は九時からだった。行人は講義の準備を、正直なところほとんどしていなかった。九年間、同じことを教えてきたのだから、今さら準備の必要はない。そういうことにしていた。
本当のことを言えば、準備をしようとすると、この虚しさに向き合わなければならなくなるから、しない方が楽なのだった。
百十二番講義室の冷房は今日も効きすぎていた。
五月の下旬にしては肌寒いほどの温度設定に、前列に座っている学生の何人かが少し身を縮めているのが見えた。行人は上着の前を閉じながら教壇に立ち、出席確認を済ませた。出席を確認する際に、各列をゆっくり見渡すのは習慣だった。誰が来ていて誰が来ていないかを把握するためでもあるが、それよりも、自分の話を聞きに来た人間の顔を一度見ておきたいという、行人なりの礼儀のようなものだった。
後列の右端に、今日も小川奈々美が座っていた。
行人は視線を止めないようにしながら、ちゃんと見た。小川奈々美、二年生、行人の講義を受講し始めて二ヶ月目。先週、廊下ですれ違ったときに少し言葉を交わした。声が落ち着いていた。笑い方が瑠奈とは全然違う。何かがくすぐったそうな笑い方をする。
行人は教壇の端に手をついて、講義を始めた。
「えー、では前回の続きから始めます。デカルトの方法的懐疑について、前回は懐疑の対象と方法について話しました。今日はその到達点から始めようと思います。」
マーカーを手に取り、キャップを外した。
昨夜の空虚さが、まだどこかに残っていた。こういう日は、講義が逆に調子よくいくことがある。何かに追い立てられるように言葉が出てくる。それが良いことなのか悪いことなのかは、行人には判断がつかなかった。
「デカルトはあらゆるものを疑い続けました。感覚は信頼できない。今自分が見ているものが本当に存在するかどうかも疑える。今これが夢である可能性も排除できない。では何が疑えないか。」
行人は一度、学生たちを見渡した。
「疑っている自分が存在すること、だけが疑えない。考えているということは、考えている何かが存在するということだ。これが出発点です。デカルトはここから、すべてを再構築しようとした。建物を一度全部壊して、土台だけ残し、そこからもう一度建て直す。そういうイメージです。」
「では、デカルトが土台として選んだ言葉を書きます。」
ホワイトボードに向き直った。マーカーを走らせた。
昨夜の瑠奈の顔が、一瞬よぎった。口元だけではなく目が先に笑う、あの笑い方。そしてその後ろに、まだ一度しか言葉を交わしたことのない小川奈々美の笑い方が重なり、それからまたすぐに消えた。
どこへ行っても、俺は同じことをやっている。
そんなことを思いながら、マーカーを動かした。
「我思う、故に——」
そこまで書くと、何かが起きた。
起きた、という言い方が正確かどうかもわからない。
音はなかった。光もなかった。痛みも衝撃もなかった。揺れも、眩暈も、何もなかった。ただ、百十二番講義室の白いホワイトボードと冷えた空気と、九十七名分の気配が——消えた。いや、消えたのは講義室ではなく、行人の方だった。
ホワイトボードに走らせたマーカーの軌跡だけが、誰もいなくなった教室に残された。青いインクで書かれた、未完成の一文。我思う、故に——
最初に気づいたのは、土の匂いだった。
コンクリートとエアコンと人の体温でできた講義室の空気ではなく、湿った土と草と、どこか遠くから漂ってくる風の匂い。行人は目を閉じたまま、その匂いを嗅いだ。嗅いで、確認した。これは知っている匂いではない。知らない匂いだが、不快ではなかった。
次に気づいたのは、足元の感触だった。
フローリングではなく、地面だった。靴越しに伝わる、柔らかく不均一な地面の感触。革靴のソールで踏みしめると、わずかに沈む。雨の後のような、湿った締まり具合だった。
行人はしばらく動かなかった。
動けなかったのではない。動く前に、状況を把握しようとしていた。これは哲学者の習性というより、単純な性格の問題だった。行人は驚くとき、声を上げたり走り出したりする前に、必ず止まる。止まって、考える。興奮したり慌てたりすることが情報の収集を妨げることを、行人は経験的に知っていた。
目を開けた。森だった。
背の高い木々が密に立ち並び、梢と梢の間から光が差し込んでいた。地面には下草が茂り、遠くで鳥が鳴いていた。鳥の声は知らない鳴き声だった。よく聞く鳥の声とは、音の高さと間隔が微妙に違う。
光の色が、少し違う。
これが最初に気になったことだった。太陽光の色が、行人の知っているいかなる場所の光とも微妙に異なる。具体的にどう違うのかを言語化しようとすると難しい。より白いというわけでも、より黄色いというわけでもない。ただ、違う。
「……はあ。」
行人は息を吐いた。昨夜からの続きで、また嘆息していた。
状況を整理しよう、と思った。デカルトがやったことをやろうと思った。すべてを疑うのではなく、逆に、今確認できる事実だけを拾い上げる。
一、自分はさっきまで百十二番講義室にいた。
二、ホワイトボードに「我思う、故に」と書いた。
三、気づいたら森の中にいた。
四、森の光の色と鳥の声が、知っているいかなる場所とも違う。
五、土の匂いがする。体に怪我はない。
以上が確認できる事実だった。
なぜこうなったのか。どうやってこうなったのか。ここはどこか。これらはすべて、今の時点では確認できない事実だった。確認できないことについてあれこれ考えても生産性がない。まず確認できることから積み上げるべきだ。
デカルトも、同じことをやった。
確認できないものをすべていったん括弧に入れ、疑いようのないものだけを足場にした。行人が今やろうとしていることは、奇しくも、自分が三百回以上教えてきた方法論と構造が同じだった。
この事実に気づいた瞬間、行人は小さく笑った。おかしかったわけではない。こういう形で腑に落ちることが、時々ある。人間というのは、知識を体で経験するまで本当には理解していないものかもしれない、と思った。
立ち上がろうとして、初めて自分が膝をついていたことに気づいた。転んだのではなく、自然に膝をついていたようだった。いつの間にそうなったのかわからない。立ち上がり、スーツのズボンについた土を手で払った。
周囲を見回した。
森は深く、どちらへ行っても似たような景色が続いていた。しかし一方向だけ、かすかに地面が踏み固められている箇所があった。道と呼ぶには細すぎるが、人か獣が繰り返し通った跡がある。
行人はその踏み跡を辿ることにした。特別な確信があったわけではない。ただ、踏み跡があるということは、誰かがここを通ったということで、通った先に何かがある可能性が、踏み跡のない方向よりは高い。それだけの理由だった。
歩きながら考えた。
ここが地球上のどこかである可能性と、地球ではない別の場所である可能性。地球上であれば、非常に文明から離れた原生林か、行人が知らない何かだろう。しかしあの光の色は、行人が今まで見てきたいかなる場所の光とも違った。断言はできないが、地球ではない可能性の方が高いかもしれない。
地球ではない場所。
行人は、そこで考えるのをいったんやめた。結論を急いで間違えるより、証拠を積み上げてから判断する方が合理的だ。
数分歩くと、人の声が聞こえた。複数の声。子供の声だった。行人は立ち止まり、耳を澄ませた。
聴き取れた。意味まで理解できた。
「そっちじゃない、こっちだ」「待てよ」「早く」——子供たちが何かの遊びをしながら言い合っている言葉。どこの世界にでもありそうな、他愛のない言葉。
行人はこの事実を、ひとまず括弧に入れた。なぜ言葉が通じるのかを今すぐ考えることよりも、声の方向へ歩くことの方が優先順位が高かった。ただ、言葉が通じるという事実は頭の片隅に残した。後で考える必要があることはわかっていた。
木々の間を抜けると、開けた場所に出た。
村だった。
こぢんまりとした、石造りと木造が混在した家々が、緩やかな丘の斜面に沿って並んでいた。畑らしきものが見える。水場がある。人々が行き来していた。服装は行人が知っているいかなるものにも似ていない。中世ヨーロッパの農村とも、アジアの山岳地帯とも違う。素材は麻や毛織物に近いが、染め方や形が独特だった。
行人を最初に見つけたのは、先ほど声が聞こえた子供たちだった。
三人の子供が遊びの途中で固まった。行人を見て、目を丸くしている。おそらく行人のスーツとネクタイが、この村の文脈では全く見覚えのないものに映っているのだろう。
子供たちの声で気づいた大人たちも、次第に視線をこちらへ向け始めた。人垣ができ始めた。誰かが何かを言い、誰かが頷き、小声で話し合っている。敵意ではなく、困惑と好奇心が混ざった顔だった。
行人は動かなかった。動き回って余計な誤解を招くよりも、ここで待つ方が賢明だと思った。
やがて人垣の後ろから、一人の老人が前に出てきた。
皺の深い顔。背は低いが、立ち方に重さがある。眼光が鋭かった。七十代に見えるが、その年齢の人間が持つような眼光ではなかった。もっと長い時間をかけて研ぎ澄まされた、何十年も何百年も積み重なったような目だと、行人は思った。
老人は行人の前に立ち、つま先から頭の先まで、ゆっくりと見た。行人も老人を見た。
沈黙が数秒続いた。老人が口を開いた。
「……迷い人か。」
行人は少し考えてから、答えた。
「おそらく。」
老人は一度だけ頷いた。それ以上は何も聞かなかった。ただ、手招きして、自分の家らしい建物の方へ歩き始めた。行人はその背中についていきながら、空を見上げた。
光の色が、やはり少し違う。
太陽は一つだった。それだけは確認できた。太陽の形も、見た目の大きさも、行人の知っている太陽と大きく変わらない。ただ、色が違う。
今は確認できないことが、まだたくさんある。夜になれば、また別のことが確認できるかもしれない。
行人は老人の背中を追いながら、ふと思った。
「我思う、故に」——ホワイトボードに書きかけた文章の続きのことを。
続きはわかっている。「故に我あり」だ。三百回以上書いてきた言葉だ。しかし今この瞬間、その続きが、どこかひっかかる感じがした。
我あり、とは、どういうことか。
俺は今、ここにいる。それは確かだ。では俺は「ある」のか。
行人はその問いを、老人の背中を見ながら、頭の中に置いた。答えは急がなくていい。デカルトだって、この問いに向き合うのに何年もかけた。
老人が扉を開けた。中から、温かい光が漏れてきた。
行人は中に入った。
老人の家は、外から見た印象よりも広かった。
土間があり、その奥に板張りの床がある。壁際に棚が並んでいて、木の器や乾燥させた植物の束が整然と置かれていた。暖炉のようなものが部屋の中央にあり、低い炎が燃えていた。行人の知っている暖炉とは少し形が違ったが、機能は同じだろうと思った。
老人は行人に、棚の横に置かれた椅子を示した。座れ、ということらしかった。行人は座った。
老人は無言で動き始めた。何かを煮ている鍋から器に液体を注ぎ、行人の前に置いた。スープのようなものだった。香りがした。行人の知らない香りだったが、温かく、食べ物の香りであることは間違いなかった。
「……ありがとう。」
老人は何も言わずに向かいの椅子に座り、行人を見た。
行人はスープを一口飲んだ。温かかった。それだけで、体の緊張が少し和らいだ。自分が緊張していたことに、その瞬間まで気づいていなかった。
「名前を聞いていいですか。」
老人はしばらく間を置いてから答えた。「ガラン」と言った。
「ガランさん。俺は我妻行人といいます。ユキト、と呼んでもらえれば。」
ガランは頷いた。それから、初めて質問した。
「どこから来た。」
「別の世界から、としか言いようがない。」
「別の世界。」
「あなたたちの言う別の世界が何を意味するかはわからないが、俺にとっては、ここではない別の場所から来た。どうやって来たのかは、全くわからない。」
ガランは特に驚いた様子を見せなかった。「そうか」とだけ言い、スープを飲んだ。
行人は、この反応が少し意外だった。全くわからない場所から来たと言われて、驚かない人間は珍しい。少なくとも行人の知っている世界では。
「迷い人が来ることは、珍しくないんですか。」
「珍しい。」ガランは短く答えた。
「ただ、前に一度あった。俺が若い頃に。」
「その人はどうなったんですか。」
「ここで暮らした。最後まで。」
最後まで、という言葉の重さを、行人はしばらく反芻した。その人は元の世界に戻らなかった、あるいは戻れなかったということだ。今の行人には、どちらが自分に当てはまるのかわからない。戻りたいのかどうかも、まだよくわからなかった。
窓の外が暗くなり始めていた。
行人は窓から見える空を見た。夕暮れの色が、やはり少し違う。橙ではなく、もっと深みのある、紫がかった赤だった。綺麗だと思った。こういう素直な感想を持てたことが、少し意外だった。
その時、ガランが何気ない動作をした。暖炉の火が弱まりかけたとき、老人は薪に手をかざしただけだった。道具も使わず、火打ち石も出さず、ただ手をかざした。するとくすぶっていた薪が、静かに燃え直した。
「今、何をしたんですか。」
ガランは少し考えてから答えた。「火を直した。」
「その、手をかざすやり方で。」
「そうだ。」
行人は自分の手を見た。やってみようという気にはなれなかった。なれなかったというより、自分にはできないと、理由もなく直感した。体の中に何もない、という感覚だった。空っぽな容器に水を注ごうとしても、容器がそもそも存在しなければ水は溜まらない。そういう感じだった。
「おそらく俺には、それができない。」
ガランは行人をしばらく見た。「なぜそう思う。」
「わからない。ただ、できない気がする。」
ガランはそれ以上は聞かなかった。ガランは行人をしばらく見た。それから、わずかに口元を動かした。笑ったのかもしれなかった。
「子供でも火を熾せる。お前に熾せるか。」
行人は少し間を置いた。火を熾す道具の名前が、一瞬出てこなかった。正確には、名前は出てきたが、この場所でその言葉を口にすることへの違和感があった。
「……道具があれば。火を熾すための、俺の世界の道具が。」
「ない。」
「では、今はできない。」
「正直な男だ。」
ガランは言った。
「正直なら、当面は生きていける。」
これが保護の条件なのか、単なる感想なのか、行人には判断がつかなかった。しかし今夜の宿と食事は確保された。それで十分だと思った。
夜が来た。
行人はふと窓の外を見た。村の夜の景色が、橙色の明かりをぽつぽつと灯していた。
その明かりの色を見た瞬間、宮内瑠奈の顔が浮かんだ。
昨夜、あの部屋にいた。行人のマンションのベッドの上で、口元だけではなく目が先に笑う、あの笑い方をしていた。それがひどく遠い出来事のように思えた。遠いというより、別の層にある出来事のような感じだった。
行人は少し混乱した。
夢と現実の区別が、一瞬だけ曖昧になった。今自分がいるこの場所が夢で、目が覚めればあのマンションにいるのか。それとも昨夜の瑠奈との時間が夢で、自分はずっとここにいたのか。あるいは——夢から夢へ渡り歩いていて、どちらも等しく現実ではないのか。
デカルトが「今これが夢である可能性も排除できない」と言ったとき、彼は本当にこういう感覚を持っていたのだろうか、と行人は思った。講義で何度もその言葉を使ってきたが、今この瞬間ほどその言葉が体に刺さったことはなかった。
混乱は、数秒で引いた。
引いた後に残ったのは、奇妙な静けさだった。夢でも現実でも、今ここにいるという事実は変わらない。ならば今ここでできることをやるしかない。それだけのことだ。
ガランが寝床を示してくれた。干し草を詰めた布の袋のようなものだったが、行人は文句を言う立場でも気分でもなかった。横になった。
天井を見た。
K大学の近くのマンション、六畳一間の天井とは全然違う。木を組んだ梁が見える。隙間から、夜の空気が少し入ってくる。
眠れなかった。
眠れないのは、不安だったからではない。正確には、不安がないわけではないが、それよりも頭が動き続けていた。確認できた事実を並べ、確認できていない事実を整理し、明日何をすべきかを考え、それから考えるのをやめて、また考え始める。
やがて、外が少し明るくなり始めた頃、行人は起き上がった。
そっと戸を開けて、外に出た。
朝ではなかった。夜明け前の、あの一番暗い時間帯だった。村は静かだった。どこかで動物の声がする。風が低く流れていた。
行人はふらふらと歩き始めた。
眠いはずだった。しかし眠れなかった。こういう夜が、元の世界でも何度もあった。理由もなく眠れず、部屋を出て、夜の空気の中をあてもなく歩く。こういう夜は昔からある。
どこへ行っても、俺は同じことをやっている。そう思った瞬間、行人は立ち止まり、ふと空を見上げた。
星が出ていた。そのうちの三つが、月のように見えた。
月のように、というのは、星にしては大きすぎるということだ。しかし月と呼ぶには複数あった。三つの、丸い、淡い光。等間隔ではなく、少し不規則な位置に浮かんでいた。ゆっくりと動いているように見えたが、それが錯覚なのか本当に動いているのかは、しばらく見ていてもわからなかった。
そうか。行人はそこで初めて、本当の意味で理解した。
俺は異世界にいる。
驚きではなかった。確認だった。驚きはとうに終わっていたのかもしれないし、まだ始まってすらいないのかもしれない。ただ、三つの星を見上げながら、行人は静かにそれを了解した。
昨夜のK大学の講義室で思ったことを、また思った。
どこへ行っても、俺は同じことをやっている。
眠れない夜に外を歩くことも。空を見上げることも。何かが満たされるような感覚を、どこかで待ち続けることも。
三つの星が、静かに浮かんでいた。
我思う、故に——。
続きを、行人はまだ知らなかった。




