春分のパンデモニウム――賢者と精霊使い
メジェドの子デレオは、
『パンデモニウム』に完全に目を付けられた。
彼が行く先々で、
現場は必ずぐちゃぐちゃになる。
こんなに見応えがあるんだ。
どの悪魔が見逃すっていう?
地獄の群魔と諸天の神々は、
マモンの招待状を受け取った。
ルシファーは鼻をつまみ、
ベルゼブブの食い方に露骨な嫌悪を示す。
サタンは皿を手にしたまま、
今日は何が何でも何かを叩きつけると決めている。
リヴァイアサンは、人間界へ出張中のアバドンの代理席に座っていた。
アスモデウスとベルフェゴールは、
そろって欠席。
片方は純愛劇に興味が薄く、
もう片方は、ただ面倒が嫌いなだけだ。
非人の衆生はイベント・ホライズンの外側に集い、
決して外へ漏れないこの光と影を捕まえようとしていた。
『闘争関数を入力』
f(賢者サリクス、精霊使いシミリス):D(術者の始業式)=?
解を求めよ:
春分――夜が引き、昼が伸びる日。
この日は小雨が降っていた。
夜と昼はまだ拮抗しているが、
春分を越えれば白昼は黒夜を振り切る。
日を追うごとに、
世界は一分ずつ明るくなっていく。
王畿学院は、
この日を入学者の始業式に選んだ。
光ある前途が、
ここから始まる――そういう意味だ。
十八で入学し、二十二の卒業までに第二階職業への晉升が保証される。
さらに卒業生の五割は、
社会へ出た瞬間に第三階級だ。
首都で子の将来を考える親なら誰もが、
この学校の入学試験を突破させようと血眼になる。
そしてシミリスは、八歳で例外入学した。
途中で彼女は学校を丸ごと焼き払い、
四百人を超える師生に長期の心理治療を強いたが――
休学二年、里親家庭で生活態度を作り直したのち、
彼女はふたたび首都第一の学府へ戻ってきた。
『耐荷重増加』
デレオも数日前、
冒険者の神の祝福を受けた。
彼も今や第一階だ!
嬉しさと得意げな気分が、ないわけじゃない。
だがシミリスの前で腕前自慢なんて、やるだけ無駄だ。
デレオの背中には大荷物が山のように積まれていた。
ベッドカバー、シーツ、着替え、教科書、文具、
それに数え切れない私物のあれこれ。
「おい! 俺を覆うな、そっちの布団を覆え!
濡れてカビたら、この学期ずっと地獄だぞ」
シミリスは彼に傘を差してやりながら、
一年分の布団が臭くなろうが気にしていない顔だった。
こんな荷物、もちろんデレオのためじゃない。
この世界で本当に彼のものと言えるのは、
たぶん――シミリスがくれた、あのランプ一つだけだ。
「で、姉貴は? 妹がやっと復学できるってのに、
当の本人が勝手に消えるとか、あり得ねえだろ」
デレオは不機嫌に文句を言った。
「チェラーレが……ちょうど稼げる話を嗅ぎつけたって……」
シミリスの声には、少し申し訳なさが混じっていた。
デレオは黙った。
チェラーレは最近ずっと、
デレオの学費を工面するんだと騒いでいたのだ。
バスに乗ると、
運転手は彼らの荷物に露骨に渋い顔をした。
通勤通学のピークだ。
混み合う車内へあれだけの荷物を持ち込めば、邪魔になる。
王畿学院の学費を払える家なら、運転手を雇って
坊ちゃん嬢ちゃんを恭しく送り迎えするのが普通だろう。
せめてタクシーだ。
最高学府の学生が、開学初日からバスでこんな無作法――
そんなはずがない、という顔。
「へぇ~、バス通学のくせに男僕は雇えるんだ?」
校門をくぐった瞬間から、冷笑の矢が待ち構えていた。
洒落た服の新入生たちが、
大げさな疑問文で周囲に聞こえるように言う。
――この二人が、ここにどれだけ場違いか。
デレオは気にもしない。
だがシミリスは、顔が強張り、胸を痛めていた。
殴り合いにでも行くべきか?
デレオは衝突の「費用対効果」を頭の中で弾いた。
チェラーレがここにいたら、もう何人か黒目と鼻血だろう。
だがデレオは分かっていた。
自分はずっと校内に張り付いて、シミリスの盾にはなれない。
「先輩方、ちょっといいっすか。こっちで」
デレオは作り笑いを貼りつけ、
絡んできそうな「先輩たち」を横へ引っ張った。
十歳の少年と、十八の青年の群れ。
誰だって本気で手を出せるわけがない。
だが――この学校を目指すなら、知らないはずがないものがある。
デレオは火焔のランプを取り出した。
「二年前のニュース、覚えてます?」
新入生たちはまだ状況が飲み込めていない。
しかし校内には、長くいる学生もいる。
何人かはその灯を見た瞬間、ヒステリックに取り乱した。
校警と教師が即座に割って入り、秩序を保とうとする。
二年前の事件は、首都議会の議員全員に
「校内への警力配置」を異議なしで可決させた――それほどの傷だった。
詰問と怒号のあと、
デレオの両手に――手錠が嵌められた。
シミリスは、目の前で起きたことをただ見ていた。
焦燥、不安、罪悪感が、彼女の胸の内で一気に膨れ上がる。
「お前ら……二年前の件で、何も学んでねえのか!」
デレオは焦り、校警を押しのけた。
口調も動きも、つい荒くなる。
次の瞬間――警棒が背中に叩き込まれた。
この一撃で、デレオは悟った。
まずい。
痛みなんかはどうでもいい。
だが、ここには人命がいくらでもある。
そして――あの子の未来がある。
「シミリス、ウティアテスを呼ぶな!
頼む、やめろ!」
デレオは「忍辱」という二文字を鎧のように着込んだ。
だが彼が耐えれば耐えるほど、
シミリスの内側に積もった怒りは濃く、硬くなる。
「火で焼くなって言ってるんでしょ。
……分かった」
シミリスの声は、押し殺しきれない怒りを含み――別人のようだった。
「いいよ。じゃあ、火は使わない」
彼女の髪がふわりと舞い上がる。
周囲の空気が、急に数度、沈み込んだ。
足元から氷が這い、
霜の霊光が彼女の周囲をくるくると回り始める。
「冬の元素精霊――
こいつらが、
私に燃やしてくれって泣き叫ぶまで凍らせて」
パチパチという音が空気を満たす。
氷の凍裂と、乾いた薪の燃焼――
驚くほど、その音は似ていた。
春分だ。
冬の元素精霊は、とっくに眠っているはずなのに。
だがシミリスは、色褪せた北風の底から、力づくで引きずり戻した。
漂う小雨は氷晶へ変わり、
校庭の石畳へ散っていく。
建物の隙間に溜まった水が凍り、膨張し――
数分も経たないうちに、古い壁がいくつも崩れ落ちた。
誰もが呆然と立ち尽くし、
冷気に思考も運動も奪われる。
校庭には、
人型の氷像が一本、また一本と立ち並んだ。
冬の元素精霊はシミリスの命令に従い、
校内全域へ無差別攻撃を放つ。
全校が震える中、
デレオだけが立ち尽くしていた。
――どうすれば、この子を止められる?
また、だ。
シミリスは、
どうにも学園生活に適応できないらしい。
だがデレオは知らなかった。
この二年、彼女は寄宿していた農場で、一日たりとも無駄にしていない。
第一階の術者から、第二階の精霊使いへ晉升し、
その第二階スキルすら封頂――次の進階を目前にしている。
学校へ戻ったのは、ただ形式を通し、
紙切れ一枚――卒業証書を手に入れるためだけ。
「……もうさ。勉強って段階を飛ばして、
そのまま社会に出るって選択、真面目に話し合おうぜ」
十歳の少年は、
暴走する親友を見て、乾いた息を吐いた。
彼女は、たぶん……
その紙切れをそこまで欲していない。
転機は、校内全体を包む柔らかな光とともに訪れた。
老いてなお澄んだ、柔和で、しかしよく通る声。
長い祈りを唱え終えた直後――防御性魔法が起動する。
『広範囲魔法防御』
冬精霊の凍結の力が、瞬間的に削がれた。
シミリスは、その声の主を睨みつける。
「子どもよ。……もう、止めなさい」
怒りの最中へ、
一人の老紳士が踏み込み、場を収めに来た。
「私はサリクス。
今年から王畿学院の校長を務める者だ」
老紳士は優雅に歩み寄り、
凍りついた学生と校警を見渡す。
「丹精込めて育てた子が、
自分の視界の外で凍殺されるのを望む親はいない。
……その点だけは、どうか分かってほしい」
温和で、謙虚で、包容がある。
シミリスの敵意と怒りは、行き場を失った。
老人はゆっくりと、無鉄砲な若者たちを解凍していく。
心臓が完全に止まり切る前に――
「氷と炎の賢者ケルヴィン……
メンデル……
マクスウェル……
フロイト……」
『緊急蘇生術』
デレオとシミリスは目を見開いた。
見て、学んだ。
――これが、本物の大人の仕事だ。
シミリスの冷たい怒火が、すっと消えた。
冬の元素精霊は、再び北風の奥へ退いていく。
凍殺されかけた者たちは、
悪夢から覚めたように
ふらふらと立ち上がった。
何もなかったみたいに。
老人はシミリスの手を取り、
そしてデレオへ笑いかけた。
「少年。君の小さな恋人は、私が預かろう。
……安心して任せてくれるかね?」
老人は微笑み、デレオの頭をぽんと撫でた。
この子は妙に縁がある。
いつか孫娘を紹介して、友だちにするのも悪くない――そう思いながら。
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パンデモニウム群魔、嘩然――
「……死体が、一つもねえ!」
ルシファーは失望し、
ベルゼブブの頭を皿へ叩きつけた。
ベルゼブブは気にも留めず、
ルシファーが「もっと食え」と励ましているのだと勘違いしている。
サタンは口実を得て、手にしたものを片っ端からマモンの頭へ投げつけた。
リヴァイアサンは笑った。
あの娘は遠からず、自分のもとへ来る。
召喚塔林で、じっくり待ってやろう。




