第72話 もう大丈夫だ、シミリス――帰ろう
デレオはそっとシミリスの方へ歩み寄る。
その顔を見た。
本当は抱きしめてほしいと渇望しているのに、
絶望と怒りで高い壁を築いてしまった少女の顔を。
その背で揺れる魔力は、
砕けた翼のように頼りなくはためいていた。
デレオは躊躇しない。
彼はその身体を強く抱きしめた。
シミリスの身体が小さく震える。
怒りと悲しみの殻は、
その抱擁の中で少しずつ剥がれ落ちていく。
召喚塔を取り巻いていた嵐は、
干上がった潮のように一瞬で静まり返り、
残されたのは、夜風と、人々の吐息だけだった。
シミリスはついに、
デレオの胸の中で声を上げて泣き崩れた。
その涙は彼の肩を濡らしていく。
塔の上には重い夜の帳が垂れ込め、
黒雲が渦を巻き、
ときおり裂け目から差し込む月光が、
銀白のまだら模様となって人々の間に落ちる。
デレオは、震えるシミリスの肩越しに、
さきほどまで戦場に立っていた彼女の鋼の意志が、
いま柔らかな嗚咽となって崩れ落ちていくのを感じていた。
彼女は傷ついた雛鳥のように、
夜の闇の中で、ようやくボロボロの羽をおろしていた。
「ごめんなさい……」
彼女は嗚咽まじりに呟く。
その声は、石の隙間に染み込む小雨のようにかすかだ。
「私……ただ、怖かっただけなの。」
彼女はデレオの服をぎゅっと掴み、
関節が白くなるほど強く握りしめた指先が、
小刻みに震えている。
デレオは彼女の背中をやさしく撫で、
自分の存在と温もりを伝える。
塔の上を巡る風は、
遠いどこかで消えきらない溜め息のようにざわめき、
皆の額の前髪を揺らした。
烈焔犬は身体を丸め、
まるで子を包み込む親のように、
二人をそっと囲い込む。
『ようやく悟ったか!』
原初の大精霊の天鼓雷音が、
晴れゆく風雲のあいだから空気を震わせた。
その姿は最後の召喚霊光へと変じ、
静かにシミリスの胸の中へと降りていく。
「戦闘終了だニャ。」
アレカが小声で告げた。
「全員レベル50、昇格許可達成。職業レベル、現段階の上限到達。」
この嵐のあとに残った静寂を壊したくなくて、
いくら大事なレベルアップと昇格の報せでも、
彼は声を張り上げようとはしなかった。
塔の下から響いていた戦いの余韻は、
すでに消え去っている。
遠くで聞こえるのは、
アペスの呼び声と、カシヤの奏でる音楽だけだ。
彼女は塔の根元で最後の裂け目を守っていた。
稲光と炎がきらめき、
召喚獣たちの残像は、少しずつ薄れていく。
アビスウズは瓦礫の中に膝をついていた。
荒い息を吐きながら、手の中で最後の幽光を灯す。
その目はなお閉じようとせず、
皆の背中を見送るように、固く開かれたままだった。
「……全部、終わったの?」
シミリスはしゃくり上げながら問う。
その声には、不安と恐怖が色濃く混じっていた。
デレオは彼女の顔をそっと両手で支え、
目と目が合うように顔を上げさせる。
「何も終わってなんかいないさ。
ただ……俺が帰ってきただけだ。」
シミリスの涙は、ようやくその流れを止める。
瞳には、まだおぼろげながらも、わずかな希望の光が宿っていた。
彼女は視線を落とし、
額をデレオの胸に押しあてる。
まるで、最後の命綱を掴んだかのように。
「……私を、許してくれるの?」
「君に必要なのは、俺の許しじゃない。
君自身が、君を許してやることだ。」
デレオの声は、自分でも驚くほど柔らかかった。
塔の下から、せわしない足音が駆け上がってくる。
アペスとチェラーレが、
カシヤとアビスウズを連れて塔の頂へと飛び込んできた。
彼女たちの身体には戦いの傷がいくつも刻まれているが、
その顔には、安堵と疲労が入り混じった表情が浮かんでいる。
カシヤのウクレレは弦が一本切れていた。
それでも彼女は、
まるで命綱を抱きしめるように、
その楽器をぎゅっと胸もとに抱え込んでいた。
アビスウズの顔色は蒼白だが、
シミリスの姿を見ると、無理やり口元に安堵の笑みを浮かべる。
「勝った……のかしら?」
アペスは掠れた声で笑いながら問いかける。
チェラーレはその場にどさりと腰を下ろし、
匕首を膝の前の石床に突き立てて、大きく息を吐いた。
「少なくとも今夜は、召喚塔が泣くことはないわね。」
シミリスは顔を上げ、
周囲の、傷だらけになった塔の壁と、破れた夜空を見渡す。
彼女の魔法──砕けた翼は、
ゆっくりと収まり、
細かな銀の光となって空中でほどけていった。
「……わたし、あなたと一緒に帰りたい。」
彼女は小さくそう告げた。
皆が顔を見合わせる。
風が、傷だらけの塔の頂を吹き抜け、
遠くの街の灯のぬくもりを運んでくる。
すべてが静まり返り、
夜の中に残っているのは、彼らの穏やかな呼吸だけだった。
「俺の家は、すぐ近くだよ。」
デレオはそう囁き、
シミリスの手をそっと握った。




