酔狂のパンデモニウム――泥酔したがるトロールと幻術師アビスウズ
これは本編とは関係のない、
独立した物語である。
『ノンプロット・クエスト開始』
『パンデモニウム』の視線が、
幻術師アビスウズを射抜く。
地獄の群魔と諸天の神々は、
マモンからの招待状を受け取った。
農神サトゥルヌスは、
バッカスの美酒を携え、
はるばる土星から駆けつける。
神農氏もまた、
杜康の古酒を手に、
歳星より降臨した。
ソーマは騒がしき魔殿に座し、
各界から集まった至高の銘酒を品評する時を待っている。
非人類の衆生たちは
イベント・ホライズンの外側に集い、
決して外部には流出しないこの光と影を捉えようとしていた。
『闘争関数を入力』
f(幻術師アビスウズ,泥酔したトロール):D(踏み荒らされた食肉花壇)=?
解を求めよ:
トロールが
失恋する姿を見たことがあるだろうか?
この亜人類の怪物たちは、
その多くが単純な思考回路を持っている。
男であれ女であれ、
告白した相手が自分を気に入らなければ、
通常は
棍棒で相手を叩きのめして気絶させる。
それから⋯⋯いや、
無理やり襲うようなことはしない。
自分が強者であることを証明すれば、
さっさと別の求愛対象を探しに行くのだ。
地に倒れ伏した弱者など、
もはや興味の対象外なのである。
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アビスウズはいつものように早起きだった。
家の外へ一歩踏み出した瞬間、
農場で働くゾンビたちの様子が
おかしいことに気づく。
彼らの生肉に
対する渇望が臨界点に達しており、
曾祖母の支配力が
暴走寸前まで押し込まれていたのだ。
「あのババア、全然気づいてないじゃない」
アビスウズは
獲物を見つけたような笑みを浮かべた。
彼女は十四歳。
自分の才能を誇示したい盛りである。
「ババアが気づく前に片付けちゃおう。
あいつ、どんな顔するかしら。
楽しみ!」
アビスウズは自信に満ち溢れていた。
それもそのはず、
彼女は第一クラスの職業を
カンストさせたばかりなのだ。
Lv50の幻術師。
三十、四十になっても辿り着けない者が多い中、
彼女はわずか十四歳でそれを成し遂げた。
彼女は意気揚々と自家の農園を巡回する――。
アンブロシアを培養する真菌工房の門は
開け放たれ、
金羊を飼う囲いは無傷。
農場のどこを探しても、
働いているスケルトンやゾンビの姿がない。
マンドラゴラの畑には、
かなり乱れた足跡が残されていた。
どうやら主の平衡感覚は最悪らしい。
足跡は深かったり浅かったり、
ふらついているかと思えば、
突然激しく踏み荒らされている。
歩幅もバラバラで、
精神状態が不安定なのが見て取れる。
方向もあちこちへ蛇行し、
最初から最後まで直線がない。
足跡は千鳥足のまま食肉植物園へと続いていた。
アビスウズが園に近づくと、
アンデッドたちの唸り声が聞こえてきた。
その死者たちの声は、
まるで冥界の市場のように、
低く苛立たしい「死の囁き」に満ちていた。
十数体ものアンデッドが、
食肉植物の葉陰に集まっていた。
彼らは、
ひどい顔で泣きじゃくる一体のトロールを、
一口ずつ貪り食っている。
ゾンビが緩慢な動きでトロールの腕を掴み、
ガブリと噛みつく。
腱を引き裂き、肉を喰らう。
血が流れる間もなく、
トロールの
強大な自己再生能力が傷口を塞いでいく。
この亜人類は、
まさに「棍棒を持って歩くプラナリア」だ。
『生命の伝道師メンデルよ、
奴らの嗅覚受容体を一時的に改編し、
血肉の鮮美を時鮮の香気へと変えよ』
『嗅覚異常』
アビスウズは
自家のアンデッド群に幻術を放った。
血肉を渇望していた奴らにとって、
今のトロールからは
汗臭さも体臭も消え失せ、
傷口の血生臭さの代わりに、
セロリのような上品な香りが漂い始めた。
ゾンビたちはベジタリアンではない。
彼らは次々と手元の「野菜」を放り出した。
血肉の誘惑が消えると、
不死者たちは
再び自動化魔法の制御下に戻り、
ふらふらと本来の作業場へと帰っていった。
トロールはさらに声を上げて泣いた。
「ねえ、うちのゾンビたちが
勝手に噛みついたことを泣いてるなら、
謝るわ。」
「でも、もう行ったから安心しなさいよ」
「⋯⋯あいつらを戻して。
私を食べて。
もう生きていたくないんだ⋯⋯
うう、わあああん!」
「ちょっと⋯⋯お姉さん?
うちのアンデッドに
変なもの食べさせられないわよ。
血肉を摂りすぎると暴走しやすいんだから」
見分けにくいが、
アビスウズはこのトロールがメス⋯⋯
いや、女性であると聞き分けた。
トロールは聞き入れず、
立ち上がると
巨大なサケツボカズラ草のそばへ歩み寄り、
それを引き抜いて中の消化液を飲み干した。
サケツボカズラの瓶口からは
濃厚な酒の香りが漂っており、
温血動物でその誘惑に抗える者はいない。
しかし――。
「ちょっと! それ、
未処理のまま飲んじゃダメだってば!」
アビスウズは慌てて駆け寄り、
トロールを引き止めた。
サケツボカズラの原液には
筋肉分解酵素が凝縮されている。
飲めば数分で胃腸に穴が空く。
「構わないで!
あの人は私をいらないって言うし、
力じゃ勝てないし!
もう生きていたくない!
酔い死にさせて!」
トロールの大姉御は、
理不尽に地面をのたうち回って暴れ始めた。
「ダメよ!
あんたは酔い死になんてできないわ!
消化液に内臓を蝕まれ続けて、
でも自癒能力が勝手に治しちゃうだけなんだから」
アビスウズは、
これまでにも多くのトロールが
サケツボカズラの消化液を
盗み飲みに来るのを見てきた。
「でも、何か飲まなきゃやってられないよ。
求愛を断られるのがこんなに苦しいなんて
⋯⋯正気でいたくないんだ!」
女トロールは顔を覆って号泣した。
「そんなの飲んでも、
本当には酔えないわよ⋯⋯」
アビスウズは彼女の肩を叩いた。
トロール特有の体臭に、
思わず呼吸を止める。
「数週間ずっと胃痛に苦しんで、
体がそれを代謝し終えるまで
地獄を見るだけ。
死ぬことすらできないわ」
トロールは涙を溜めた目で、
自分を案じてくれる人間を見上げた。
「ったく、
精製されたサケツボカズラ酒を
ちゃんと買えばいいじゃない」
アビスウズは
少しお節介が過ぎたかもしれないが、
家の農産物に苦しめられる
単純な亜人類を放っておけなかった。
「でも⋯⋯あんたの家の酒、高いんだもん」
トロールたちは揃いも揃って一文無しだ。
彼らは刹那的に生きており、
有り余る労働力がありながら、
先を見据えた経済活動を好まない。
「じゃあこうしましょう。
うちで大きな穴を掘るのを手伝って。」
「終わったら、
ババアに頼んで極上の
サケツボカズラ酒を二瓶あげるわ」
一昨日、
ババアが仕留めた羊食いの火龍⋯⋯。
いい加減、
埋めてやらなきゃいけなかった。
夕陽が沈む。
――掘地の声最も悲しく、
トロールは心すべて断腸せり。
女トロールは大きな穴を掘り終え、
死んだ火龍を引きずり込んで放り投げた。
彼女の腹が痛み始めたのは、
その時だった。
「う⋯⋯っ」
女トロールは苦痛に膝をついた。
オエッ、ゲボォォォォ――。
生臭い嘔吐物が大きな口から溢れ出した。
「大丈夫⋯⋯?」
アビスウズは鼻を摘まんで尋ねた。
「痛い⋯⋯痛いよぉ⋯⋯」
「はぁ、だから言ったじゃない」
アビスウズは祈りを捧げる。
『夢を掘り霊媒フロイトよ、
彼女に腹を裂く苦痛を忘れさせよ』
『感覚遮断』
放っておけば自癒能力で治るが、
今は痛みを止めてやるだけでいい。
「ふぅ⋯⋯ふぅ⋯⋯ああ、はぁ⋯⋯」
女トロールは一息ついた。
「ほら、これ。あんたの給料よ」
アビスウズはサケツボカズラ酒を
二瓶差し出した。
女トロールは
喜色満面で一瓶をひったくると、
仰向けに煽って一気に飲み干した。
「ちょっと、待ちなさいって。
そんなに急がないで!」
アビスウズは残りの一瓶を遠ざけた。
「ガアァッ!」
女トロールが怒りの咆哮を上げる。
「邪魔しないで!
穴掘りなんてしんどいことしたんだ、
もう我慢できない!」
彼女は術師など恐れていない。
この距離なら、一拳でその首を飛ばせる。
「そうじゃないわ。
酒は飲ませてあげる。
でも、酔うならもっと
いい場所で酔いなさいってこと」
アビスウズは敵軍の動向を見抜いた
軍師のように不敵に笑った。
トロールが当惑した表情を見せる。
「あんたを振ったっていうそのイケメン、
どれほどのものか見せなさいよ」
アビスウズは酒瓶を手に、
農場の外へと歩き出した。
「な⋯⋯何を企んでるの?」
女トロールに嫉妬の炎が燃え上がる。
目の前の人間は
救いようのないブスだと思っているが、
油断は禁物だ。
「安心しなさい。
あたしはオスのトロールに
なんて一ミリも興味ないから」
彼女は傷心のトロールを横目で一瞥した。
トロールの集落に着くと、
トロールは
遠くに自分を振ったオスを見つけ、
悲しそうに身を縮めた。
「ふーん⋯⋯確かに逞しくて強そうな奴ね」
アビスウズは女トロールの背を叩いた。
彼女はまた嫉妬の顔を見せる。
「大丈夫だって――年上は好みじゃないわ。
あたしが好きなのは、
ユーモアがあって誠実な男。
それも頭脳派よ」
アビスウズには
トロールの審美眼など理解不能だが、
恋に悩む者にとって
「割れ鍋に綴じ蓋」という言葉が
あることは知っている。
「さあ、あたしが力を貸してあげる」
『夢を掘り霊媒フロイトよ、
奴の記憶を欺き、
目の前のすべてを慈しませよ』
『デジャヴ』
本来は戦場で敵の意志を
混乱させるスキルだが、
コツを知る者が使えば、
恋の駆け引きにも応用できる。
「愛させることまではできないけど、
あんたに対して『懐かしさ』を
感じるように細工したわ。
もう一度行ってみなさいよ。
チャンスはあるかも」
アビスウズは自家製の銘酒を、
そのトロールのお姉さんに押し付けた。
女トロールは酒を抱え、
トロールの「イケメン」のもとへ歩んでいく。
旨い酒、懐かしい感覚、
そして「美しい」女。
彼は即座に恋の沼に落ちた。
「ふぅ⋯⋯」
アビスウズは、
自分は実にいいことをしたと、
弓を持つキューピッドにでもなった気分だった。
二人の愛の結末を見届けたい気もしたが、
この先の展開はR15どころかR18⋯⋯
しかもキャストが全く好みではない。
彼女は流行りの恋の歌を口ずさみ、
ステップを踏みながら自分の農場へと帰っていった。
曾祖母が門の前で待っていた。
「どこで油を売っていたんだい?」
叱るような口調だが、
老婆に怒っている様子はない。
「いいことをしてきたのよ!
数日後には、
うちに酒を
買いに来る意外な客が増えるかもね!」
アビスウズは楽しげに言った。
「ふん、小癔しい餓鬼だ。
誰に似たんだか⋯⋯」
老婆は冷笑し、手招きをした。
「さっさと入りな。
新しい部屋の片付けを手伝いなさい。
王畿学院を火の海にしたあのお転婆娘が、
明日からここに越してくるんだから」
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「ほう、この酒⋯⋯!」
サトゥルヌスは驚きと共に、
アビスウズの家の酒を一口味わった。
「完敗じゃ!」
神農氏は自らの水晶のように
透き通った腹を見つめ、
酒が内臓に染み渡り、
それを腐食させていく壮大な光景を鑑賞していた。
「フー酔狂だ!」
ソーマは感嘆し、杯を投げ出した。
「皆様、飲み過ぎにはご注意を。
ここの酒は、
本当に喉を焼き尽くしますから」
マモンは恭しく、
しかし不敵な笑みを浮かべていた。
閣下、ウィスキーか熱いミルクでもいかがですか。
体を芯から温めて、そのままベッドへ潜り込みましょう。
明日、この召喚の嵐が静まるのかどうか……
また夜に、見届けることにしましょう。




