盜賊のパンデモニウム――女盗賊と臓器ブローカー
『パンデモニウム』――
あの騒がしい魔殿の眼が、
シーフのチェラーレを見張っている。
地獄の群魔と諸天の神々は、
マモンの招待状を受け取った。
エルメスは
最新型のエルメスのバッグを提げ、
誰も、それを金で買ったものだとは思わない。
マウイはプロメテウスの肩をぽんと叩いた。
同じものをくすねても、
捕まるかどうかで話はまるで違う。
非人の衆生は事件の地平線の外に集い、
外へ漏れることのない光と影を捕らえる。
『闘争関数を入力』
f(シーフのチェラーレ、臓器ブローカー):D(ノールールマーケット入口)=?
解を求めよ。
猫人族の霊媒師ベスティジュは、
逆光のチェラーレの助けを必要としていた。
彼女は一流の盗賊を探し、
盗み返してほしい――
角膜を一対、腎臓を二つ、肝臓を一片、心臓を一つ、
皮膚、骨髄、それから血液をおよそ二リットル。
発端は、
ある少年がベスティジュに
何日も泣きついていたこと。
そして今日、ようやくこの女猫人とちゃんと話す気になった。
そのかわいそうな子は、
ただ少しやんちゃだっただけだ。
母親が客と値段交渉をしている隙に、
路地の入口へ遊びに出た。
ほんの少し目を離しただけで、
日が落ちた頃には彼はばらばらになり、
鮮度保持の設備に閉じ込められていた。
今、
逆光に臓器を盗み出してもらうなら、
まずは本人を見つけなければならない。
だが逆光は誰にも見つからない。
――彼が盗みたがるものを、
身につけていない限り。
少年は、
逆光がいちばん盗みたいものを知っていた。
彼が欲しいのは、
さっきここを出ていった、
ミミックを連れた男。
『逆光に頼んで。
すぐ、あなたのところへ来るから。』
そう言う少年の目は、崇拝に満ちていた。
この無情な大売場で、
逆光の正体を見た者はいない。
だが子どもなら誰もが、
彼の物語を知っている。
暴力団の葬式で、
親分の手から銃を盗んだこと。
市役所の資料庫から、
ノールールマーケットの再建計画を丸ごと消したこと。
そして盗み出したのに気に入らなかった宝石を、
家賃が払えず追い出されそうな
隣人の玄関先へ、
平気で放り投げていくこと。
『あなたは逆光の欲しいものを持ってない。
でも、逆光が知りたがることなら、
教えてあげられるかもしれない。』
少年の声は震えていた。
無理もない。
鮮度を保つために、
彼の身体の大半は冷凍ケースに入れられているのだから。
ベスティジュは、
そんな頼みを断れなかった。
というより、心がまだ人である限り、
誰だってこの四分五裂の少年を
無視できるはずがない。
女猫人が考え込んでいる――
どう助ければいい?
そのとき、
冷たく鋭い感触が背中に押し当てられた。
低くしゃがれた声が、耳元で響く。
「振り返るな。
さもないと、
こいつで心臓までずっと痛ませてやる」
その声は、
炭の入った桶を背負って坑道から地上へ
上がってきた老ドワーフのようだった。
「あなたは……?」
ベスティジュは、
ドワーフに恨みを買った覚えがない。
「私が誰かなんて知る必要はない。
ミミックを連れた男と、
お前が何を取引したのか――
それだけ答えろ」
ミミック……?
ああ――逆光だ!
でも逆光って、女のはずじゃ……?
ベスティジュは冷静に言った。
「ここは売場よ。
欲しいものがあるなら、
取引で手に入れるべき。
奪うんじゃなくてね」
「でもここには、何のルールもない。
なら私とお前の取引の代金は――
お前の命で払わせるのはどうだ?」
「その代価じゃ足りないわ。
粗悪品を掴まされるのが怖くないの?」
相手が笑った。
「さすがノールールマーケットの古株だ。
で? お前の提示する代価は何だ」
「偽酒を売ってるやつ、知ってるでしょ?」
「ええ、知ってる。
この売場で、
あいつから酒を買うバカはいない。
外から来た連中しか騙せない」
ベスティジュはくすりと笑った。
「ずっと思ってたの。
あの商売、閑散としすぎてる。
あれでどうやって暮らしてるのかしらっ
て」
「ふうん?」相手は続きを促す。
「今なら分かる。
あいつは復活術の媒材を密輸してる……」
猫人の声音は、
悪党が子犬を蹴っているのを
目撃した時みたいな嫌悪に染まった。
「……しかも、最高級の」
「最高級の復活術媒材……」
相手は考え込む。
「死体、内臓……発育期の子ども!」
それは若い少女の声だった。
驚きのあまり、
声の偽装を続けるのを忘れている。
「やっぱり、お前は女なんだな?」
ベスティジュは振り返り、
逆光を見ようとした。
「値段を吊り上げるつもり?
私が払う代価に、
見た目が含まれてるなんて覚えはない」
荒いドワーフ口調が、警告を帯びる。
「予感がするの。会わせて。
私があなたに会った方が、
あなたのためになる」
ベスティジュが見たのは人影ではなく、
露店の上で揺れる一束の暴風鷲の羽根だけだった。
「私にとって得かどうかは、私が決める」
逆光は冷たい女声に戻る。
「いいわ。
偽酒売りが隠してる……子ども。
それを盗み出すのを手伝ってくれるなら、
私は“あの男”に何を売ったのか教えてあげる」
「知ってることは全部、包み隠さず話せ!」
逆光の口調は切迫していた。
ベスティジュには、
それがなぜそんなに重要なのか分からない。
だが逆光がそこまで執着するなら、
絶対に逃すわけにはいかなかった。
「必ず、知ってる限り全部話すわ」
「よし。
どうせ私も、
あの偽酒売りには
前から一発かましたかったんだ」
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チェラーレは偽酒工房の外、
がらくたの山に身を潜めていた。
背光の陰――
それは彼女がいちばん得意とする潜伏環境。
猫人の話では、
偽酒屋の「酒蔵」には
いくつか冷蔵庫があるらしい。
「あのクズが、酒を保存する設備なんて必要とするはずがない。
つまり、
あの冷蔵庫に入ってるのは酒じゃない……」
そこまで考えたチェラーレは、
吐き気すら覚えた。
怒りを押し殺し、
彼女は偽酒工場へ忍び込む。
強烈なアルコール臭が鼻腔を刺す。
だが床に散らばった容器ラベルには――
工業用メタノール。
「こいつ、
本当に他人の命を命と思ってない」
彼女は忍び足で、
男のいる作業室へ近づいた。
偽酒売りは、
情報端末の向こうへ媚びた声で話している。
「復活術の成功率ってのは、
肉体の“状態”次第でしてね。
欠けてる部分があるなら――
こちらで『補って』差し上げますよ」
小柄で、顔つきも卑しい男。
彼は手際よく香辛料、シロップ、メタノール、エタノールを混ぜ合わせる。
その匂いは、
エルフとドワーフが一緒に歌い、一緒に酔い潰れるほど芳醇だ。
そして一緒に失明するか、死ぬ。
チェラーレはマッチを一本擦った。
細い指先で軽く弾く――
偽酒売りの足元のメタノール樽が燃え上がる。
「ひいっ!」
クズが悲鳴を上げた。
消火設備など何一つ用意していない。
他人の命を大事にしない人間は、
往々にして自分の命にも慎重じゃない。
悲惨な運命は自分には降りかからないと思い込んでいる。
偽酒売りが慌てふためくその隙に、
チェラーレは正確かつ迅速に踏み込んだ。
彼女は絞殺索を取り出し、男の喉に回す。
偽酒売りは何が起きたか理解する前に、
視界がゆっくり暗くなっていった。
咳もできず、手を伸ばしても何も掴めない。
チェラーレの力加減は絶妙だった。
意識だけを奪い、命までは奪わない。
なぜ手加減する?
彼女は智慧端末を開き、確認する……
「やっぱり。
こいつ、懸賞リストに載ってる」
チェラーレは偽酒売りを縛り上げ、
短剣で額に文字を刻んだ。
最近、ちょっと苦労している“古い友だち”を思い出す。
この手配犯なら、彼の懐事情を少しは楽にできるかもしれない。
女盗賊は甘い笑みを浮かべる。
ボロアパートの前で、
この指名手配犯を見つけた時――
あの友だちはどんな顔をするだろう?
彼女は樽の蓋を見つけ、
燃え上がるメタノールに被せた。
酸欠になった炎は、たちまち消えた。
彼女は悠々と、偽酒売りの家にある金目のものを根こそぎさらっていく。
彼女はベスティジュが欲しがっていた人体……部品?を見つけた。
ため息をつき、
子どもの残りをきちんと片づける。
黄昏が近づいた頃、
彼女はベスティジュの露店へ行き、
報酬を受け取りに来た。
「彼が私から買ったのは、面具ひとつだけ。
ミミックの進化に使うつもりみたいよ」
猫人は包み隠さず言った。
「ミミックのため……?
あの男のそばにいる
“女”のためじゃなくて?」
チェラーレは、
最初から勘違いしていた気がした。
「気になるなら、
まだノールールマーケットから出てないわ」
ベスティジュは何かを見抜いたようだった。
「余計なお世話よ。
あんたは欲しい“少年”だけ、
ちゃんと受け取ればいい」
チェラーレは露店の死角に、
少年の身体をそっと置いた。
「時間を見つけて、
その子をそこへ連れていって」
チェラーレは観光農園のチラシを一枚、
猫人に渡した。
少年の背後に、
泣き崩れる母親がいるはずだと彼女は知っている。
「農場のあの婆さんなら、
復活の手助けをしてくれるかもしれな
い。」
「ただし――その子は、
しばらくそこで『働く』ことに
なるだろうけどね」
ベスティジュは微笑んで取引の報酬を受け取った。
誰にとっても悪くない取引だ。
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マモンは気持ちよさそうに酒杯を掲げ、
エルメスに乾杯した。
「正直に言って、
あの偽酒売り、腕は悪くない」
マウイは
偽酒工房からくすねてきた混合液を、
豪快に飲み干す。
「甘美、芳醇……
凡人の身体で飲まなければ、
確かに佳酒だ」
プロメテウスはそう褒めながらも、
飲むときは眉間に皺を寄せた。
「おい、兄弟。お前の肝臓は
もう半分以上食われてるんだ。
酔いが回るのが早すぎるぞ」
エルメスは皮肉っぽく、
そのタイタンをたしなめた。
エルメスは有名な盗賊神で、
生まれてすぐ牛を盗んだ。
マウイとプロメテウスはいずれも、
人のために火を盗んだ神だ。
マウイは英雄となり、
プロメテウスは山に縛られ、
鷲に肝臓を食われ続けた。
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閣下、そろそろお休みください。
さもなくば、明日のマンドラゴラ畑でどれほど大きな悲鳴が上がろうとも、
閣下を叩き起こすことは叶わないでしょうから。




