第53話 闇の中の鼓動――彼女は見えなくても、すべてを聞き取っていた
暗闇――
そこは
正面から殴り合うモンクの舞台じゃない。
闇に潜み、
獲物の背後を取る盗賊にとっての、
天然の庇護所だった。
今のデレオには分かる。
次の一瞬で、
チェラーレは最も厄介な脅威
――アペス――の急所に
短剣を突き立ててくる。
だが、何もできない。
暗闇の中で、
かすかな風を切る音がした。
チェラーレが動いた合図だ。
守ろうとしても、避けようとしても、
位置もタイミングも掴めない。
――このまま、
アペスに一撃を食らわせるしかないのか?
ドン! ドン!
暗闇の中で、
コンガドラムが二度、鳴り響いた。
同時に、皆の耳に届いた。
真っ暗な中で、
足を「二歩」踏み外したような音が。
アペスはその二つの太鼓の音を合図に、
踏み違えた足音からわずかに
ずれた位置へと身を引いた。
チェラーレは息を整え、再び奇襲に移る。
ドン――ド、ドン!
またコンガドラム。
今度のビートは、
わざとチェラーレの歩調を
乱すように刻まれている。
真っ暗闇の中、
テーブルか椅子か、何
かがはじき飛ばされる音がした。
デレオは慌ててアレカの箱の中から
木切れを掴み出し、
即席の松明に火を灯した。
炎がデレオの周りをぼんやり照らし、
その傍らのカシヤの姿があらわになる。
勇敢な少女はコンガを抱え、
真っ暗な室内で、
楽師にとって数少ない
「敵に直接干渉できるスキル」――
《タイミングずらし》を発動していた。
完全な闇の中で、
カシヤには何も見えていなかった。
だが、
《聴覚強化》というスキルが、
チェラーレが動いた、
その“ほんの一瞬”を、確かに捉えていた。
薄闇の中、
チェラーレはカシヤを睨みつけ、
憎々しげに吐き捨てる。
「この忌々しい貴族女……
お前さえいなければ、
デレオは
シミリスのところへ戻ってたのに!」
アペスはチェラーレの目を見て、
何かを悟ったように目を細める。
そしてデレオにちらりと視線を送り、
ため息をついた。
「はぁ……あんたも、
ずいぶん業が深いわねぇ」
デレオは思わず言い訳しようとしたが、
その前に、
ウンブラ婆さんが――本当に影の中から――
チェラーレの背後へ、ぬるりと現れた。
老婆は手杖で、
黒白両道にその名を知られる女盗賊の頭を、
遠慮なくぶっ叩く。
「いっっったぁ!
婆ちゃん、なんでいきなり殴るのよ!」
チェラーレは頭を抱え、
二、三歩よろめいて、
椅子を一脚ひっくり返した。
ウンブラ婆さんは杖を支えに立ち、
ギロリとチェラーレを睨みつける。
「おとなしくしな。
もっと勇気を出しな。」
「毎回毎回、妹を盾にするんじゃないよ。
あの子を繋ぎ止めておきたいと思ってるのは、
ほかでもない“お前”だろうが」
「べ、
別にシミリスを盾になんてしてないし……」
チェラーレの頬が、
みるみる赤く染まっていく。
デレオは初めて見る表情だった。
気丈な女盗賊が、
こんなふうに照れるなんて。
正直、少し可愛いと思ってしまう。
「そうかい?」
婆さんは半眼になって疑わしげに見つめる。
「老身の知ってるシミリスは、
とっくに吹っ切れてるけどねぇ?」
「そんなことない!
あの子は、
あたしたちを心配させないように、
強がってるだけよ!」
チェラーレは視線を落とし、唇を噛む。
「自分のことは、どうなんだい?」
ウンブラは目を細め、さらに一歩踏み込む。
「わ、わたしは……」
チェラーレの顔が、
さっきよりもさらに真っ赤になる。
そこでデレオが前へ出て、
チェラーレの肩をぐっと掴んだ。
「チェラーレ。
オレはちゃんとシミリスに
会いに行くって言っただろ」
――細い。
抱きとめた肩は、
思っていたよりもずっと細く、頼りない。
「じゃあ……明日――ううん、
今すぐ行こう!」
チェラーレの表情は
一気に切羽詰まったものになる。
「それは、ダメだね」
ウンブラ婆さんが杖を振り上げ、
二人の頭に一発ずつお見舞いした。
「いったぁ!」
チェラーレは不服そうに頭を押さえる。
街中では「逆光のチェラーレ」
と恐れられる女盗賊も、
彼女が「冷たい」という言葉を言うたびに、
水は凍ります。
でもウンブラ婆さんの前では、
猫みたいにおとなしい。
「いっってぇな、このクソババァ!
また誰か殺す気かよ!」
デレオも頭を押さえて抗議しながら、
反射的に二、三歩身を引く。
「アンタ、
明日アビスウズに
頼みたい用事があるんだろうが」
ウンブラ婆さんは斜め目で睨みつけ、
杖をトン、と床に突く。
「べつに、明日絶対に行くなんて、
一言も言ってないし」
デレオはそっぽを向き、
まだ頭をさすりながらぶつぶつ言う。
婆さんは無言でまた杖を振り上げ、
デレオの頭にもう一発。
「ひっ!」
デレオは飛び退き、
危うくすっ転びそうになる。
「自分の責任を負い、男らしく、
明日はシミリスを
探しに行く準備をしてください。」
「おい!
行かせたくないって言ってたのに、
次の瞬間には行かせろって言うんだ。
完全に混乱してる!」
デレオは頭を抱えながら独り言を言った。
「明日の朝にここで物事を整理し、
昼食後にシミリスを探しに行って、
彼女ときちんと話をしてください。」
ウンブラ婆さんはそう言うと、
どん、と床を鳴らした。
その圧に押されて、
デレオもチェラーレも、もう逆らえない。
チェラーレは大きくうなずき、
デレオを見上げる。
その手は、気づけばデレオの上着の裾をそっとつかんでいた。
――こんなに甘えた顔のチェラーレを見るのは、初めてだった。
「それから、あんた」
ウンブラ婆さんの視線が、
カシヤに突き刺さる。
「あんた、サリクスの小僧の孫娘だね?」
「こ、小僧……?」
カシヤは思わず吹き出しそうになり、
必死で笑いをこらえた。
まるでとんでもない秘密を聞かされた子どものような顔になる。
「老身はね、
あの半人前の魔法使いより三十も年上なんだよ。
あいつの中途半端な魔法はぜんぶ、
このアタシが叩き込んでやったもんさ。
初めてのクラスチェンジ儀式だって、
老身が取り仕切ってやった。
緊張しすぎて杖もまともに
握れなかったあのヘナチョコに、
“ 小僧”って呼んで何が悪いのさ?」
ウンブラはそう言いながら、
卓上の茶を一杯、ぐいっと飲む。
「す、すみません、ウンブラお婆さま……」
カシヤは素直にぺこりと頭を下げ、
声も蚊の鳴くように小さくなる。
「ふん、そんなに礼儀正しいなんて……
気に入らないねぇ。呪ってやる」
ウンブラ婆さんの眉がぴくりと上がる。
何か悪いことを思いついた子どものように、
口の端がにやりと上がった。
「フロイト、行きな」
彼女がぱっとカシヤを指さすと、
かすかな黒い靄が
ふわりとカシヤの方へ漂っていく。
「えっ、ちょっと待って、
それはズルくない?」
カシヤはぽかんと固まり、
慌ててデレオの袖をつかむ。
「おい、ババァ!
今の呪い、カシヤに何をかけたんだよ?」
デレオは思わず口を挟み、
カシヤの手を握り返しながら睨みつける。
「大したことじゃないさ。
“里帰りできないようにして、
一年間、恋のライバルたちと
一緒にボロ家で暮らす”呪いだよ」
ウンブラ婆さんはふんと鼻を鳴らし、
茶碗をテーブルにコトリと打ちつけた。
アペスとチェラーレは、
ぽかんと互いの顔を見合わせ、
そろってゆっくりとカシヤを見て、
そのままの流れで、同時にデレオを見た。
部屋の中で、
まるっきり状況を理解していないのは、
アレカだけだった。
いつも通り、
そこらじゅうを嗅いだり舐めたりして、
一箱分のマイペースさを存分に発揮していた。




