第38話 じゃあ、 いつか私に勝てるようになったら考える
マスクルスが、
そっとカーテンを引いた。
窓の外の自然光が、
デレオの顔を照らす。
「冒険者ギルドに、
遺跡にいたあの悪魔のことを
報告しに行きたい。
あれは……さすがに普通じゃない」
「たしかに……。
あのとき本気で前に出て殴り合ってたら、
たぶん三分ももたない」
アペスは拳を握った。
「そこまで強いのか?
面白い。妹よ、詳しく聞かせてくれ」
マスクルスの表情には
強い好奇心が浮かび、
同時に“強者が強者を求める”渇きが
滲んでいた。
「最初は調子よくてさ。
亜竜の群れを一つ潰したんだけど、
そしたら他の魔物が
縄張りを取りに来始めた」
アペスは喉が渇いたのか、
テーブルの水のコップを指さす。
カシヤが水を注ぎ、
ついでに話を引き取った。
「それで、いったん撤退することにしたの。
あいつら同士で争わせておいて、
最後に戻って残りを片づければいいって」
「合理的だな」
マスクルスも納得した様子で頷く。
「……それ、君の発案か?」
彼はデレオを見た。
「迷宮で揉まれた冒険者なら、
だいたい同じことをする」
デレオは肩をすくめる。
「俺の部隊に参謀が一人欲しい。
興味はないか?」
「兄ちゃん!
スカウトやめて!」
アペスが兄の腕を
思いきりつねった。
「いてっ!
わかったわかった!
……っていうか妹よ、
そんな怪力なら
さっさと退院手続きしたらどうだ?」
乱暴に扱われても、
マスクルスはどこか嬉しそうだった。
デレオの暮らしは相変わらず苦しい。
彼は危うく、
その誘いに頷きそうになった。
すぐに答えないよう、
自分を抑える。
安定して高収入の仕事。
魅力がないわけがない。
だが、心の奥で声がした。
『俺はまだ十九歳だ。
世界は広い。
もっと見て回りたい』
そんな誘いを受けるつもりはない。
それは、
シミリスと向き合うのを
怖がっているのと同じだった。
アペスは悪魔の話を続けた。
「二日目の朝。
ゴブリンの集団が
その悪魔を召喚した」
「……あいつ、
数え切れないほどの隕石を降らせて、
宇宙船遺跡をぶっ壊した」
「粛清者Ⅱ型も、
まとめて二機やられた」
「……ああいう機体、
私でも第五の脈輪を開放しないと
一機倒すのがやっとなのに……」
「でもあの悪魔は、
たった一発の魔法で……」
悪魔のことを語るアペスの声には、
珍しく不安が混じっていた。
カシヤがその不安を受け取り、
話を継ぐ。
「悪魔の狙いは――
たぶん三か月前に出土した“九宮盤”」
「もう手に入れてしまったのか、
まだ分からないけど……」
「それは、そんなに重要なものなのか?」
マスクルスが尋ねる。
「愚神イピミシュスが、
人類に残した“補償”よ」
「用途は、まだ研究中」
学者のカシヤは、
真相を掴むまでは断言しない。
「……絶対に九宮盤を渡すわけにはいかない」
マスクルスの思考が、
軍人のそれへ切り替わる。
「考えてみれば、
出土して間もないのに目をつけられた」
「……あれはきっと、
大きな変化をもたらす力を持っている」
マスクルスは眉をひそめ、
九宮盤の価値を測りかねているようだった。
だが追及はせず、
重々しく頷くだけに留める。
「もし君たちの言う通りなら……
政府を動かさなければならない」
「その件なら、
サリクス卿にはもう話してある」
デレオが言った。
「よし。
議会の連中はあいつに片づけさせろ」
「だが軍は先に動く」
「討伐予算が通るのを待ってたら、
悪魔の隕石はとっくに
大統領の執務室に落ちてるぞ!」
そう言うと、
マスクルスはせわしなく立ち上がった。
「よし、ここからは大人の仕事だ。
お前たちは明日、
どこかで買い物でもして、
ゆっくり話してこい」
「空が落ちてくるわけじゃない」
「そうそう、デレオ。
カシヤの従妹に返すもの、
まだ買ってないでしょ?」
アペスが悪戯っぽく言う。
デレオは察して、
アペスを睨んだ。
だがカシヤは天然に首をかしげる。
「返すものって、何を買うの?」
「服だよ、服!
人が動けないときに引っ張って、
破いたあれ!」
アペスはわざと
にやけた顔を作る。
「今日の午後のうちに買いに行きなよ。
明日になったら、
私っていう“お邪魔虫”が増えるからね」
マスクルスが固まった。
「服を破いた?
……どういう展開だ?」
アペスは苛立たしげに叫ぶ。
「関係ないでしょ!
このクソ兄!」
彼女は枕を掴むと、
腕を振り上げ――
勢いよくマスクルスの顔面へ投げつけた。
枕は速く、容赦なく飛ぶ。
「バシッ」
音がして、
マスクルスは口いっぱいに綿を食らった。
彼は真っ赤になって枕を引きはがし、
目を見開いてアペスを睨む。
兄としては厳しくしたい。
――が、口元が引きつり、
笑いを堪えきれない。
「ちょ、待て!」
「なんでお前、
カシヤに機会を作ってやってるんだよ!」
「いい男はそう簡単に手放すな!」
マスクルスは鼻を押さえ、
もう片方の手で枕を振り回しながら、
わたわたと抗議した。
声には呆れと心配が混じっている。
妹が本当にチャンスを
他人に譲りかねないことを
危惧しているようだった。
アペスは鼻で笑い、腕を組む。
「私より弱い。興味ない」
目には負けん気。
口元には得意げな挑発。
マスクルスは鼻を揉みながら言った。
「お前なあ……
人は今と表面だけで判断するな」
「デレオの伸びしろ、
俺はかなり買ってるぞ?」
アペスは不服そうに鼻を鳴らす。
「じゃあ、
いつか私に勝てるようになったら考える」
「真面目に言う。時間の問題だ」
マスクルスは少し顎を上げた。
カシヤがくすりと笑う。
「デレオには、
たしかに可能性があると思うわ」
「じゃ、楽しみに待ってる」
アペスは淡々と言いながらも、
瞳の奥に
かすかな期待の光を宿していた。
息を吸い、
肩の力がふっと抜ける。
ようやく折り合いがついたのか、
兄との張り合いも終わったようだった。
そしてアペスはデレオを見た。
その視線は、意外なほどやわらかい。
デレオの心臓が、
思わずその視線に合わせて跳ねる。
空気が少しだけ静まり、
繊細な鼓動が滲んだ。
まだ入院中でなければ――
デレオは危うく
「一緒に出かけないか」と
口にするところだった。
そのとき、
デレオの智慧端末がメッセージを告げた。
『フィネストラ指名依頼』
「会長かよ……めんどくせぇ」
デレオは指の腹で
眉間をつまんだ。




