第31話 誰も知らなかった―― 悪名高き女盗賊が、 いつから俺たちを尾行していたのか
その日一日じゅう、
サリクス老の銀のダガは、
いやに静かだった。
ノールールマーケットみたいな場所では、
誰もが獲物を探し、
誰もが警戒を最大まで上げている。
誰からも狙われないなんて、
あり得ない。
――はずなのに。
だがデレオは、
あえて深く考えないことにした。
満足げなアレカと、
余韻を胸に抱えたカシヤを連れて、
このガソリンとスクラップの匂いに
満ちたノールールマーケットを、
もう少しだけ気楽に歩いていたかった。
アレカが
作った小さな道具やアクセサリーを手に、
あちこちの露店で物々交換をする。
カシヤは交換してもらった
古い詩集を胸に抱え、
頬をほころばせている。
アレカはぴょんぴょんと
跳ねながら後ろをついて来て、
ときどき地面に転がるよく分からない
パーツをくんくん嗅いでいた。
この黒市めぐりは、
カシヤにとって驚きと
新鮮さに満ちた小旅行だった。
夕日が沈みかけても、
彼女は名残惜しそうにあちこちの品物を
眺め続けていた。
そして、
再び「うちはルールなんて扱ってません」と
スプレーで書き殴られた
あのコンクリートの壁の前を
通りかかったとき――
デレオが、
いま一番聞きたくない声が、
路地の奥の暗がりから響いた。
「このまま帰れると思ってないよね?」
その声は冷たく、
憎しみを帯びていた。
――暗闇に置き去りにされた者の、
行き場のない憎悪。
次の瞬間、
刃が風を裂く音がデレオの耳元で鳴る。
考えるより先に、
彼は腰の銀の短剣を抜き、
反射的にそれを受け止めた。
キンッ!
サリクシスのダガーが最後の震動を見せ、
振動がデレオの手首まで痺れを走らせる。
全身の産毛が逆立った。
――この声は、チェラーレだ。
デレオが子どもの頃から
ずっと怖れてきた女。
彼からあまりにも多くを奪っていった女。
天真爛漫さも、善良さも、
人を疑わない信頼も。
それでも、
幼い頃から今日まで、
ずっと彼を守り続けて
きたのもまた彼女だった。
彼女が与えてくれたもののほうが、
奪っていったものより多いのかもしれない。
――ただの一度も、
彼の意思を確かめたことはなかったけれど。
「敵意感知の魔法?
そんなもので炙り出されるのは
三流までだよ。」
彼女は、
銀の刃の折れた欠片を、
指二本でつまみ上げる。
気高く、
しかし柔らかすぎる銀では、
幾千もの打撃に耐えた鋼を止められない。
影の中から姿を現した彼女は、
悪名高き女盗賊だった。
だが、
政府の恩恵が届かない場所では、
女神のように崇められる存在でもある。
何もなかった虚空から
突然現れたかのように、
デレオの前に立ちはだかる。
その登場はいつだって
強烈な存在感を伴っていた――
真っ黒な装いだけでなく、
「今、あんたを狙ってるよ」
とでも言いたげな圧のある気配そのものが。
「純銀製なんかで
受け止めようとするほうがおかしいって、
思わない?」
チェラーレは苛立っていた。
彼女の前から姿を消したこの男が、
こんなに「丸くなって」しまったことに。
折れた刃を、
彼女はデレオの足元へ投げ捨てる。
その声は低く、冷たく、
重い圧力を含んでいる。
腰には一本の短劍。
まだ鞘から抜かれていない柄を、
彼女の手が確かに握りしめていた。
足取りは軽く、
足元のガラクタの山を踏んでも、
ほとんど音を立てない。
一つ一つの金属片の位置まで
把握しているかのように、
どんな微かな動きも
見逃さない雰囲気だった。
デレオは大きく息を吸い、
実際以上に落ち着いて
見えるよう自分を整える。
「チェラーレ、やめてくれ。
俺たちはただ、
小道具を探しに来て、
ちょっとした物々交換をしただけだ。
誰とも揉めてないはずだ。」
最後に会ってから、
もう随分時間が経っている。
彼女から逃げ切れないことぐらい、
デレオ自身が一番よく分かっていた。
――それでも、なぜ今日、
この場所に現れた?
――カシヤが一緒だからか?
アレカはデレオの足元で目を見開き、
大事そうに舌で折れた刃を「拾い上げる」。
四つの宝石には淡い光が宿り、
チェラーレを
にらみつけるようにきらめいた。
その態度は、
彼女をまったく気に入って
いないことをはっきり物語っていた。
カシヤは少し緊張した様子で、
デレオのそばにさらに身を寄せる。
チェラーレの視線が、
三人を順に舐めるように流れ、
最後にデレオの上で止まった。
「……あんた、
うちの妹に一つ、
借りがあるよね。
今日は、その返事を聞きに来た。」




