第9話『笑って、戦う女』
翌朝、メリル・クラークは皇妃選抜を辞退し、帝国を離れた。
表向きの理由は“体調不良”。
だが、実際はすべての証拠を私が握っていたから。
魔石の反応。仕込まれていた魔術式。
全てを押さえ、さらにそれを“公開しなかった”ことで、無名だった私の評価は上がった。
――“小細工の通じない女”。
その印象操作も、全て計算のうちだった。
*
メリル・クラークが静かに姿を消した日を境に、皇妃選抜の空気は、確かに変わった。
かつては優雅に笑みを交わし、
聖句や詩を引用していた令嬢たちの会話からは、言葉の温度が抜け落ちていた。
誰かが紅茶を差し出せば、香りを嗅ぎ、必ずひと口分を残すようになり――
誰かが微笑めば、返されるのは礼ではなく、刃のような視線。
廊下ですれ違うたびに、誰かの靴音が早くなる。
ドレスの裾を踏まれたかと振り返れば、誰もいないこともなくなった。
不穏。猜疑。沈黙。
だが、それは“私だけ”に向けられたものではなかった。
それとは別に――“あの女は危険だ”
もはや誰も、エディス・カリナのことを“辺境の令嬢”とは呼ばなかった。
帝国に名もない、公爵家の娘。
皇帝の正妃候補にしては、あまりに“格”が釣り合わない女――
けれどその女が、初日の段階で二人の候補を葬った。
毒も剣も使わず、声を荒げることもなく。
*
沈黙と共に、女たちは私を避け始めた。
だが――その中に、ただ一人だけ。
真正面から、睨み返してきた者がいた。
カーラ・ブレイドン。
鉄錬将家と呼ばれる軍閥派の中でも、最も“実戦”に近い家系の娘。
華奢な令嬢たちとは違い、引き締まった肢体と炎のような気配を纏い、
剣術と魔力の腕一本で己の価値を示してきた女。
彼女にとって、私のような――“正体を隠して笑うタイプ”は、最も不愉快で、危険な存在だった。
私が歩けば、彼女も歩く。
私が視線を逸らせば、彼女は睨み続ける。
言葉はなくとも、挑発は明確だった。
(……なるほど)
これは、次の試練が“肉体”に関わるものであることを、彼女が嗅ぎ取っている証だ。
ならば私も応じるしかない。
彼女のように力を誇る女に、“最も恐れる敗北”を見せるために。
*
翌日、候補者たちは城の奥にある封印魔法陣の訓練場へと呼び出された。
そこは、本来なら皇帝直属の魔術士たちが使う場。
だが今回は“試験”として、妃候補たちに開放されている。
上空には結界、地には転送陣と防護符。
選抜官たちは、その光の円の外から“反応”だけを記録している。
「第二課題、模擬戦形式による演習」
執事が無機質に告げる。
候補者たちが微かにざわめく。
「候補者は対面形式で順に試合を行い、魔力運用・耐性・攻防判断を試すものとする」
ざわめきが広がった。
それは“貴族令嬢に求める試練ではない”という動揺――だが一人だけ、明らかに笑っていた者がいた。
「ようやく面白くなってきたわね」
カーラ・ブレイドン。
先に名を呼ばれた彼女は、自ら結界陣に踏み入れた。
両手には素手用の魔力刃を展開。
その紅色の刃が空気を焼くように、結界内の気温をわずかに上げる。
「対戦者――エディス・カリナ」
私の名が呼ばれた瞬間、周囲の女たちの顔に笑みが浮かんだ。
私は、沈黙のまま一歩を踏み出した。
ドレスは動きを阻害しないよう、裾に魔法糸の補強が施されている。
手にしたのは、たった一本の扇子――それだけ。
「貴女、剣も構えないの?」
カーラが不敵に笑う。
「その程度の武装で、私とやり合えると?」
「もちろん。ただし、“正面から”戦うとは言っていないけれど?」
私の言葉に、カーラの眉が僅かに跳ねた。
*
開始の合図と同時に、カーラは疾風のごとく踏み込んできた。
魔力によって補強された足運び。
剣術の呼吸と戦場の本能――すべてが“戦いなれた者”のそれだった。
あれは、回帰前の事。
――“公妃”と呼ばれていたあの頃。
夫エルマーは勢力を拡大していた。そ
して私は“公国の悪女”として後宮の外れに押し込まれていた。
後宮、そこにはもうひとつの顔があった。
――帝国軍魔導研究局、訓練管轄・零番隔離区。
公国でも“処分前の才覚持ち”だけが集められる、魔導技術実験の場。
選ばれた理由は、ただ一つ。
「この女は“毒に死なない”……面白い素材だ」
どこで漏れた情報かはわからないが、それだけで私は“戦闘素体”の一人にされた。
食事は規定量、睡眠は制限付き、話すことも許されなかった。
でも――教えられた。
否、叩き込まれたのだ。
帝国式 魔導格闘術《十二式》。
最初は、術式の発動もできなかった。
腕を折られ、肋を砕かれ、反復させられた。
けれど私は、生き延びた。
何度でも立ち上がった。
なぜなら。
それが、“エルマーの望むこと”だったからだ。
そして、あの冬の夜。
私は第五式《焦熱》から第六式《回転制御》へ、瞬時に切り替える動作を完成させた。
(正面突破型。左膝に重心のクセ。第六式で受け流し――)
私はすでに、カーラの最初の三手を計算し終えていた。
私は迎え撃たない。
刹那――扇子をひらりと振る。
空中に描かれる魔術紋。
それは“魔力撹乱”の術式。
カーラの足元で急に気流が歪み、着地寸前の踏み込みが狂った。
「っ……!」
ほんのわずか、狙いが逸れたその隙に、私は扇子で彼女の手首を打ち上げる。
軽く、しかし致命的に。
刃が空を裂き、彼女のバランスが崩れる――私の手は、すでに彼女の背へと回っていた。
「危ないわよ。勢いだけで飛び込むと、転ぶわ」
耳元で囁くように言い、私はそっと彼女の背を押した。
――倒れた。
膝をついたカーラの目が、信じられないものを見るように見開かれる。
息を切らせたまま、床に手をついた彼女に、私はにっこりと微笑んだ。
*
静まり返った演習場。
候補者たちがざわつき、重臣たちが顔を見合わせる中――
その誰にも気づかれぬ場所で、一人の男が椅子の背にもたれたまま、目を細めていた。
黒の軍服の上に、仮面。
表情の一切を隠し、“傍観者のふり”を貫く男――アシュレイ・ヴェル・レゼルナ。
この皇妃選抜において、誰もが“決して姿を現さぬ皇帝”と噂する存在。
だが彼は、最初から、すべての試験を自身の目で見ていた。
数々の候補が毒や策略で潰し合い、
その中で“笑いながら毒を飲んだ女”がいる。
そして今日、戦場においては一歩も剣を抜かず、
戦いの本能を持つカーラ・ブレイドンを膝つかせたその女――エディス・カリナ。
「また……面白い」
静かに呟いた言葉は、誰の耳にも届かない。