第8話『夢に仕掛けられた毒』
舞踏会が終わり、候補者たちは各自の部屋へ戻るために階段のホールへと散っていった。
だがその途中、意図的に足を止めた者たちがいた。
リズ・ファーレン、イレーナ・クロウ、ノエル・グレイス――そして、その少し後ろに控えめな微笑を浮かべるメリル・クラーク。
「まさか本気で、あの黒い仮面の男を“皇帝陛下”だと思っていたわけじゃないでしょうね?」
リズがわざとらしくため息をつきながら、背後から声をかけてきた。
「まあ、さすが“辺境の令嬢”。見る目がないにも程があるわ」
イレーナがうつむいて口元を隠しながら笑い、ノエルが手を合わせて“哀れみの祈り”を捧げるポーズを取った。
「でも……逆に、わざと選んだのかしら? 誰にも相手にされなかったから?」
「ええ、きっとそうよ。出目も立場も薄い、じゃあ話題性で攻めるしかなかったのね」
その輪の中で、メリル・クラークは静かに笑っていた。
「……私は、逆に素敵だと思ったけれど」
一歩だけ進みながら、けれど決してエディスを“庇う”ような口調ではない。
「勇気があるわ。誰も近づこうとしなかった相手に、自分から行ったのですもの」
それは“称賛”のように見えて、裏を返せば――“誰も近づかなかった理由もわからなかった女”という婉曲な皮肉。
「……ありがとう。ご忠告、胸に刻んでおくわ」
エディスは淡々と答えた。
もう振り返らなかった。
それは、彼女たちの“嘲笑”を、自分の時間に含めないという意思だった。
(……何もしらないって幸せなことね)
あの仮面の下にいた男が、誰なのか。
やがて知るときが来る。
そのときこそ、笑っていた女たちが――最も声を失う順番になるのだから。
舞踏会が終わり、星のない帝都の夜が静かに訪れていた。
石造りの廊下を渡り、寝室に戻る足取りはゆっくりとしたものだった。
だが、その静寂を破るように、部屋の前で待っていたのは――あの女だった。
「……お疲れさま、エディスさま」
メリル・クラーク侯爵令嬢。
舞踏会で“仮面の中身”を最も探ろうとしていたのは、間違いなく彼女だった。
その女が、今、優雅な所作で私に向かって微笑んでいる。
「突然ごめんなさいね。今日はいろいろと……緊張もあったでしょう?」
「ええ。皆さま、それぞれ個性的で、見応えのある夜でしたわ」
「本当に。あなたの選んだ相手、とても興味深かったわ。――陛下だったのかしら?」
さらりと探るような声。
だが私は、眉一つ動かさず笑った。
「さて、どうでしょう? 仮面の下は、誰にも分からないものですわね」
「ふふ、そうね……でも、今夜は、ゆっくりお休みになって。明日からまた厳しくなるでしょうから」
そう言って、メリルは小さな包みを差し出した。
手のひらほどの、絹で包まれた香包。
「これ、お香なの。“安眠”に効くって、聖教会の神官さまからいただいたの。
少し火を入れるだけで、ぐっすり眠れるそうよ。あなた、今夜は特に疲れていたようだったから……」
柔らかな声音。
けれどその手つきには、“確実に渡す”という意思があった。
私は受け取りながら、そっと内心魔術式を走らせる。
(……やはり。揮発型の幻惑術)
微量なら気づかぬまま、夢と現の境を曖昧にし、そこに“記憶操作”を仕掛ける術式に連動している。
優しさを装って、“夢の中で狂わせる”罠。
メリル・クラーク。
この女は、決して直接的な敵意をぶつけてこない。
ただ、眠りを、香りを、安心を媒介にして、心を侵そうとする。
「ご親切に……ありがとう、メリルさま」
私は微笑みながら、それをそっと受け取った。
「でも、今夜は月が綺麗ですから……窓を開けて寝ようかと思って」
メリルの目が、ほんの一瞬だけ細められた。
「……そう。お気に召すといいわ」
仮面を脱いでもなお、その瞳は演技のままだった。
“無害な微笑み”の奥に、
燃え残るような嫉妬と、焦りの光が宿っていた。
*
夜も更け、屋敷全体が沈黙に包まれる頃――私は静かに、メリル・クラークの部屋の扉を叩いた。
数拍の沈黙のあと、扉の向こうから慌ただしい衣擦れの音が聞こえる。
「……はい、どなた?」
扉が少しだけ開かれた隙間から、彼女の瞳だけがこちらを覗く。
仄かな照明に照らされたその目は、警戒と驚きに揺れていた。
「私よ。……エディス・カリナ」
私は柔らかく微笑みながら名を告げた。
「今宵、少し眠れなくて……。お話でもできたらと思ったの」
あえて、薄手の寝衣の上に外套を羽織っただけの姿で立つ。
首元から覗く鎖骨、露わな足首――
“隙”を見せることで相手の警戒心を揺さぶる。
それも作戦のひとつだった。
メリルの喉がかすかに動く。
「まあ……どうぞ、お入りください」
作り笑いを浮かべながら、彼女は私を部屋へと招き入れた。
*
部屋は清潔に整えられ、
香を焚いた形跡がうっすらと残る、柔らかな甘い香気が空気を満たしていた。
窓には透き通ったカーテン。
棚の上には色とりどりの小瓶と、淡く光る魔石。
そして机の上には、小ぶりな香炉が置かれている。
「……素敵なお部屋ね。あなたらしいわ」
私がそう言って室内を見回すと、メリルはぎこちなく笑って頷いた。
「ありがとうございます……ちょっと散らかってますけど」
鏡の前に立っていた彼女の顔には、焦燥がにじんでいた。
「ねえ、メリル」
私は、ゆっくりと振り返りながら言った。
「あなた、何かを――隠していない?」
その一言で、空気が凍った。
メリルの顔から一瞬で血の気が引き、唇がわななきながら開く。
「な、なにを……仰って……?」
私はにっこりと笑ったまま、香炉の前に歩み寄った。
そして、指先でそれをすっと持ち上げ、鼻先に近づける。
「この香り……好きなのよ。甘くて、でもどこか苦くて。
まるで、あなた自身を象徴してるみたい。そうだ、先程いただいた香炉もここで使いましょう」
「や、やめてください……それは……!」
メリルが慌てて駆け寄る。
だがその手を、私は軽く払いのけ火をつけた。
目を見て、低く告げる。
「毒を盛るなら、もっと上手くやらないと」
その瞬間、部屋の空気が変わった。
言葉の温度が凍り、
香の甘さが皮肉に変わる。
メリルの体から力が抜け、その場に崩れ落ちるように膝をつく。
「なぜ……どうして……気づいていたのに……!」
「簡単なことよ」
私は冷静に告げた。
「あの場で騒げば、誰が得をするか分からないでしょう?あなたが“演じる女”なら、私も“演じる女”よ」
「私は……選ばれなければならなかったの……!」
メリルの声が震える。
それは敗北の声だった。
外側の完璧な仮面が、初めて内側から崩れた音。
私は一歩、彼女に近づく。
「そう……でも、あなたは“選ばれない”。」
言い終えると同時に、私は香炉を手から滑らせた。
ガシャン――
砕ける陶器の音が室内に響き渡り、
中からは濃密な香気が立ちのぼる。
けれどそれは、もう毒ではなかった。
私が事前にすり替えておいた、ただの安眠用の香草。
メリルの目が見開かれ、唇が震えた。
「そ……んな……」
「あなたが仕掛けた毒はもうないわ。けれど――“負けた”ことは、あなたの心が一番よく知っているでしょう?」
私は背を向けて、ドアの方へと歩き出した。
背後から、何の言葉も、音も聞こえない。
*
夜の帳がすっかり下り、私は一人、部屋の窓辺で冷えた紅茶に口をつけていた。
月光が斜めに差し込むなか、扉をノックする音が響く。
「……どうぞ」
返事をすると、黒の軍装に身を包んだ隻眼の男が静かに現れた。
――皇帝直属の監察官、バラン・ヴィステリア。
銀髪に混じる白、額に刻まれた古傷。
その眼光は、まるで何もかも見透かすような鋭さを帯びていた。
「お見事でした、カリナ様」
彼は、扉を閉めながらそう言った。
声は低く、けれどどこか――含みがある。
「何のことかしら?」
私は椅子の背にもたれながら、涼しげに返す。
「貴女が本当に“何もしていない”なら――それはそれで、恐ろしく聡いということになりますな」
そう言って、バランはゆっくりと微笑んだ。
だが、その笑みには温もりなどひと欠片もなかった。
報告は、すべて通っている――その表情が何より雄弁だった。
「……陛下は、どうお考えかしら」
私は紅茶を置き、わざと間を空けて尋ねる。
すると、バランは一言だけ、口にした。
「“面白い”と」
その声音は、決して皮肉ではなかった。
ただ、事実として。
ただ、皇帝という男の“好奇心”を伝えるものだった。
私の背筋に、ひとすじの冷たい戦慄が走る。
(……食いついた)
“暴君”アシュレイ・ヴェル・レゼルナ――その男の興味は、飽きられれば即座に殺される刃と同義。
けれど、惹きつけた者には一時の猶予が与えられる。
それが、命を繋ぐ唯一の鎖。
私は微かに口元を吊り上げた。
「なら、もう少し踊らせていただきますわ。――その鎖が錆びる前に」
バランは何も言わず、一礼だけを残して部屋を後にした。
閉じた扉の先に、月が細く笑っていた。