第6話『忠誠と利益を捧ぐ女』
この世界における魔法――それは単なる“便利な術”などではない。
本質は、「血」と「誓い」によって紡がれる、“契約型の力”である。
大気中には“マナ”と呼ばれる自然精霊の微粒子が漂っており、
それを“意志”と“言霊”で束ねることで、形ある術へと転化させる。
しかし、この術を行使できるのは、“祝痕”と呼ばれる魔法の器官を持つ者――
つまり、特定の血筋を引く貴族や魔術士の家系に限られている。
なかでもカリナ公爵家のような“女系継承術”を持つ家系では、
母から娘へ、精密な術式の伝承と肉体的な訓練によって、
他の家系では真似できない“静かなる魔”を操る力を育んできた。
一方、聖教会や帝国術局は、魔術を“国家管理”のもとに封じ込めようとしており、
無届けの魔術行使は禁術扱いされることも少なくない。
つまり――魔術とは、この世界では血と政治の匂いが混ざる“特権階級の道具”であり、
使えば使うほどに、その者の立場と意図が問われるものなのだ。
ノエルから殺気が消えた。
ノエルとの一件が過ぎても、私への敵意が消えることはなかった。
むしろ、沈黙の中で膨らんだ“関心”という名の毒が、じわじわと私を包み込んでゆく。
それから順に、他の候補者たちも――無言のまま、私を値踏みし始めていた。
軍閥派を後ろ盾に持つカーラ・ブレイドンは、他の候補者とはまるで違っていた。
――軍靴の音が静かな広間に響く。
整えられた琥珀色の瞳、ラフに束ねられた栗色の髪。
軍服ベースの青い礼装が、その引き締まった身体にぴたりと沿う。
まっすぐに前を見据えるその視線に、迷いは一切ない。
余計な装飾はない。
だが、その潔さと研ぎ澄まされた存在感は、レースや宝石で飾った令嬢たちより、よほど強く目を引いた。
――彼女は、“戦場で名を馳せる軍閥の娘”。
策略も駆け引きも知らず、正々堂々の勝負こそが誇りだと、
そう書かれてでもいるかのような立ち姿だった。
そんな彼女は、私の歩く姿にさりげなく視線を投げた。
注がれていたのは私の表情でも髪飾りでもない――腰だ。
歩行中の重心のぶれ、軸足の左右差、肩と骨盤の動き――彼女はそのすべてから、私の“戦闘スタイル”を分析している。
(まるで狩人ね。足音で獲物の脚の怪我を見抜くような)
続いて、対話の輪にも加わらず、あくまで物陰に徹していたのはイレーナ・クロウ。
情報組織〈群鴉の塔〉と繋がりがあると噂される諜報系の候補者で、深緑の髪は肩までつかず、表情は終始無機質。妃になるつもりなどはなからなさそうに見える。
一見控えめなその佇まいは、いわば“影”の中に生きる仮面のようだ。
彼女の背後に控える従者は、常に筆談を交わし、何かを記録している。
視線は私の履歴書、着衣、装飾品、さらには私の扇子の紋様や、出身地にちなんだ家紋へと。
私の“出自”を調べようとしているように見えた。
この会場に集められた者たちは、誰ひとりとして「ただの令嬢」ではなかった。
それぞれが各派閥の“刺客”であり、武器を美貌と教養の裏に隠した、なんらかの化粧をした女たちだった。
だが――私は、それ以上。
“処刑と死”を越えて、ここに立っている。
命が削れるという感覚すら、もはや薄れていた。
この身に宿る呪いの痛み、命の限りの刻限。
すべてを背負ったうえで、なお私は“勝ちに来ている”。
この広間にいる誰よりも、私は“地獄に近い女”だ。
だからこそ、笑える。
この毒のような空気の中で、私だけが――ひとり、微笑んでいられるのだ。
「これより、妃候補選抜第一課題を開始する」
場内に響いた執事の澄んだ声が、緊張の空気に音を与えた。
候補者たちは一斉に立ち上がり、用意された絨毯の中央へと歩を進める。
並ぶのは七脚の玉座模倣椅子。それぞれには皇帝陛下を模した“黒い仮面の儀礼官”が座していた。
第一課題――それは“礼儀作法”と名づけられた、模擬謁見の演技試験。
ただの挨拶や会釈ではない。
妃候補たちは一人ずつ前に出て、皇帝への“謁見”を模した短い言葉を披露する。
その間、後方に控える皇宮側の重臣たちと、帝術局の官吏たちが、
・姿勢、
・声の調子、
・言葉選び、
・“媚び”の度合い、
・“踏み込み”の一線
を厳しく見極めていた。
ここで媚びすぎれば“安っぽい”、突き放せば“非協力的”、
だが“曖昧すぎれば印象に残らない”――
まさに、言葉と態度による高等政治演技の戦場だった。
私は、他の候補たちの順番を、ひとりずつ見届けた。
リズ・ファーレンは、皇族らしい高貴さと慎み深さで会釈を決め、
ノエル・グレイスは、信仰と清楚を売りにした“慈愛の挨拶”で情を誘った。
カーラ・ブレイドンは軍の礼を混ぜた毅然とした姿勢を見せ、
イレーナ・クロウはあえて無個性に徹し、記憶に残らない“空白の印象”を残した。
――そして、私の番が来る。
静寂。
場の空気が、ぴたりと凍りついた。
私は、ゆっくりと仮面の儀礼官の前へと進み、しなやかに、けれど高慢にも見えぬよう、礼を取る。
ドレスの裾を掬い、踵を揃え、顔を上げる。
そのすべての動作に、無駄はなかった。
「エディス・カリナと申します。暴君陛下に捧げる愛はございません。ですが忠誠と利益なら、余るほどございます」
一瞬、場がざわめいた。
だが、それは“計算通り”だった。
私は、“恋も愛も信じない”という皇帝の嗜好を、前世で熟知している。
だからこそ、あえて“愛”を否定し、“実利”を差し出した。
これは媚びではない。
忠誠と交換条件を提示する、あくまで“対等な交渉”の姿勢。
皇帝に気に入られる必要はない。
ただ、“使えそうな女だ”と思わせれば、それでいいのだ。
言い終えたその瞬間、仮面の奥で――わずかに、椅子が軋む。
音にならない音。
その重みを知る者だけが、その“ほんの少しの動き”の意味を察知した。
これは、影武者ではなく皇帝本人――皇帝が、身じろぎをしたのだ。
座していた“黒衣の儀礼官”は、他の候補者の挨拶にはまったく動じなかった。
微動だにせず、沈黙を保ち続けていたその男が、エディスの言葉にだけ、
ほんのわずか、背を浮かせるような動きを見せたのだった。
その瞬間、後方に控えていた側近たちが、同時に顔を上げた。
――“中身は陛下”。
誰も声には出さなかった。
だが、空気が明らかに変わった。
側近筆頭である帝術局長の老賢者が、エディスの表情を注視する。
その隣に立つ黒衣の筆記官は、すでに筆を走らせていた。
“カリナ候補――評価要再検討。皇帝反応有”という符号が、帳面に残された。
仮面の奥の視線は、沈黙のままこちらに注がれていた。
それが“評価”なのか、“警戒”なのか、それとも――“興味”なのかは、まだわからない。
けれど、ひとつだけ確かだった。
――この瞬間、エディス・カリナの名は、確実に“暴君陛下”の目に刻まれたのだ。
*
──また、同じだ。
並ぶ女たちは、皆、よく似ている。
言葉を飾り、敬意を装い、美しさで媚びる。
そのどれもが、腹の底で「生き残りたい」と願っていることを、俺は見抜いている。
愛を語り、運命を語り、忠誠を口にする者ほど、信じてはならない。
それは、父も兄も叔父も、骨となって教えてくれたことだ。
──だから、俺はもう期待しない。
政略婚に意味などない。
妃など、飾りに過ぎない。
誰も、俺に“真”を向けてなどこないのだから。
だが──その時。
「暴君陛下に捧げる愛はございません。ですが忠誠と利益なら、余るほどございます」
女はそう言った。
愛を捨てて、利益を掲げる女。
それが“取り繕い”でないことを、俺は聞き分けてしまった。
言葉の調子、息の置き所、礼の角度。
すべてが“本気”だった。
(……皮肉なものだな)
俺が最も忌み嫌い、憎悪すらしてきた“愛”という言葉を、
最初に否定してきたのが、この女。
ならば、試してみるのも悪くない。
(名は……エディス・カリナ)
骨まで信じない。心までは許さない。
だが、使えるなら使う。
この女が“毒”か“刃”か、それとも“炎”か──
見極める価値はある。