第5話『毒を飲む女』
レゼルナ帝国。
この国の中枢にある黒曜の城では、今まさに“皇妃選抜”と呼ばれる儀式が始まろうとしていた。
それは表向きには皇帝の正妃を選び出すという名目だが、実態は違う。
“選ばれなかった女の家系は二度と日の目を見ない”
そう言われて久しいこの儀式は、もはや殆どが政敵の刺客同士をぶつけ合わせるだけの政治的粛清だった。
何故なら通常の精神であれば、暴君になど嫁ぎたいと思わないほど国が地獄に満ちていたからだ。
そして私は、その地獄に自ら足を踏み入れた。
選ばれるためではない。
勝ってこの世で“生き残って、祖国に復讐する”ために――。
私はエディス・カリナ。かつて、“史上最凶の悪女”と悪名高かった女。今更、良心などはもうない。
この身に呪いを抱え、時間の尽きる足音を背に受けながら、私はその広間の扉を押し開けた。
*
会場は、まるで氷の宮殿のように冷え切っていた。
荘厳な黒曜石の柱がいくつも立ち並び、天井には巨大な水晶のシャンデリアが吊るされている。
金と紫を基調とした絨毯が敷かれ、その中心には円卓が置かれ、七つの椅子が均等に配置されていた。
すでに候補者たちは着席しており、それぞれが持ち前の美貌と教養をこれでもかと飾り立てている。
絢爛なドレス、煌めく宝飾、仄かに漂う香水と魔香の混ざり合う香り。
それらは、一見すると社交界の麗人たちが集う舞踏会のような華やかさを演出していた。
だが、その光の下にあるのは鋭利な“棘”だった。
私は、最後に入場した者として静かに一礼する。
あまりにも自然で無駄のない所作に、一部の女たちが苛立ちを隠しきれず、わざとらしく鼻を鳴らした。
「まあ……辺境公爵家のご令嬢ですって? 帝国の言葉もたどたどしいのではなくて?」
嘲るように声をかけてきたのは、リズ・ファーレン。
香水の香りが風に揺れ、遅れて高笑いが響く。
その場の空気を塗り替えるように、リズ・ファーレンが現れた。
濃い金髪は巻き上げるように結い上げられ、陽光を受けて金属のようにきらめいている。
瞳はエメラルドグリーン、鋭く見据える視線は、誰を見ていても“格下”と決めつけていた。
ドレスは紫と金の刺繍が施された帝国式の礼装。
旧皇族の血筋を誇る者だけが着ることを許される格式――まさに“威圧”そのものだ。
紅を差した唇には、常に微笑みが浮かんでいる。
けれどそれは、“親しみ”ではなく、“優越”の象徴
「ご心配ありがとうございます。けれど、帝国の言葉には毒がよく混じりますもの。慎重になるのが礼儀かと」
私が静かに返すと、リズのまつげがぴくりと震えた。
その刹那、彼女の視線がちらりと私の前に置かれた紅茶のカップに流れた。
微細な動きだったが、私の目は確実に捉えていた。
――小賢しい。
香りも温度も違和感がある。
この紅茶には、確実に何かが混ぜられている。
「これは帝国では流行りの紅茶なのかしら」
私はそう言うと、私は迷わずそのカップを手に取った。
「まるで毒でも入っている香りですわ」
私は何事もないかのように紅茶のカップを手に取った。
白磁の縁に口を添え、――そのまま、ひと口。
会場の空気が、わずかにざわついた。
それは、ほんの一瞬。
だが、リズ・ファーレンの指先がぴくりと震えたのを、私は見逃さなかった。
彼女はそれを隠すように、そっとレースの扇子を口元に当てる。
その目が、わずかに見開かれていた。
(信じられない……本当に、飲んだ……?)
紅茶には確かに仕込まれていた。
“アルシル草”と“ロザニア根”。どちらも即効性のない、けれど確実に体温と呼吸を奪う“気づかれにくい毒”。
だが、私はまるで清水でも飲んだかのように、穏やかな表情のままカップを置いた。
口元に、うっすらと微笑を浮かべて。
「……とても良い香りでしたわ。帝都の紅茶は、香りの調合が繊細なのですね」
その声に、リズの肩がびくりと跳ねた。
唇に塗られた深紅の口紅が、わずかに歪む。
その瞬間、彼女ははじめて気づくのだ――
“仕掛けたはずの獲物が、最初から毒に気づいていた”ということに。
恐怖でもない。怒りでもない。
ただ、“計算を外された女の、静かな羞恥”がそこにあった。
リズは無言のまま、ゆっくりと椅子の背に背中を預けた。
けれどその指先は、ずっと膝の上で強く握りしめられていた。
勝負は、もう始まっている――
そう知らしめるには、十分な一杯だった。
――毒が入っていると知っていて飲んだという“演出”。
これでよい。
私は、毒を恐れず飲み干す“覚悟を持った女”として、この場の者たちに刻まれる。
それだけで、次からは誰も軽々しく手を出そうとは思わないはずだ。
私は涼しい顔で視線を交わした。
リズは私の様子をうかがっていたが、私がピクリとも反応を見せないことで、表情を曇らせた。
彼女の眉間に刻まれる皺。
残念ね、リズ。
私に毒は、効かないのよ。
……毒など、今さら恐れるものでもない。
公爵家の女系後継者にだけ施される“継承術”――。
表向きには一切伝えられていないが、我が家では代々、“女”だけに伝えられる秘密の訓練があった。
幼い頃、母は私に少量ずつ毒を飲ませていた。
花に含まれる微毒、薬草に紛れ込む麻痺成分、魔獣の体液に混じる痺れ毒……。
それは決して、愛のない行為ではなかった。
継承者として「生き残るために必要な力だ」と、母は泣きながら私にそう言った。
やがて、母は亡くなり、あの術の存在を知る者はカリナ家で私一人だけとなった。
だから私は、知っている。
“私を毒で殺すことはできない”ということを。
次に、私に声をかけてきたのは――ノエル・グレイス。
聖教会の後援を受けた清楚系令嬢で、銀糸のごとき髪を三つ編みに束ね、純白の法衣風ドレスをまとう彼女は、まさに“天の加護を受けし聖女”のような佇まいだった。
だが、その柔和な瞳の奥には、うっすらと偽善の光が差していた。
礼儀正しく、聖句を引用するたびに胸に手を当てるその仕草。けれど、私は気づいていた。彼女の袖口からわずかに覗く銀の指輪に――それは“信仰の印”などではなく、教会製の細工指輪であることを。
「ご機嫌麗しゅう、エディス様。陛下の慈悲があらんことを、共に祈りましょう」
彼女の声は、柔らかく響いた。まるで鐘の音のように清らかに、それでいて、どこか耳に残る違和感を伴って。
「もちろん。陛下の審美眼が確かであることを、心より祈っております」
私は微笑みを浮かべたまま、穏やかに返した。
けれど、言葉の裏側では激しい干渉が始まっていた。
ノエルの声には、ごく微弱な“封魔の術式”が編み込まれていた。
聖句のイントネーションに沿って、対話相手の魔力の流れを鈍らせる、聖教会が得意とする“祈りの呪詛”――その技法だ。
無意識に返答していれば、こちらの魔力が鈍らされ、場合によっては術の発動すら封じられる。
しかし、私もただの令嬢ではない。
あらかじめ扇子に仕込んでいた音声妨害の魔道細工を、会話の合間に静かに作動させる。微細な反響が言霊の軌道を撹乱し、ノエルの術式を無効化していく。
見えない戦い。
聖なる祈りを交わしながら、その実、交わしているのは殺意と干渉の応酬だった。
互いに微笑みながら、穏やかな声で言葉を交わす。
「そういえば――エディス様のお家、カリナ公爵家は」
ノエル・グレイスは、微笑を崩さずに言葉をつないだ。
その声音は柔らかく、まるで礼儀正しい会話の延長のようだった。
「古くから“魔術”に長けた血筋だと、聞き及んでおりますわ。
そのご母堂様もまた、大変ご高名な魔導師でいらしたとか」
彼女は静かにカップを置くと、薄く口元に笑みを湛えた。
まるで“褒めている”ように見せながら、完全に――探ってきている。
魔術。
この場において、それは“便利な技術”ではない。
むしろ、政治と信仰においては“制御されるべき力”であり、特に聖教会にとっては、封じ込めたい対象でもあった。
つまりノエルは今、私にこう言っているのだ。
(あなた、本当に“魔術”を使えるのですよね? 見せてごらんなさい)
私の実母・セレナ・カリナは、カリナ公爵家の当主夫人であると同時に――表の顔は公国では名をはせた“文献系魔導師”だった。
古き帝国暦以前の呪式や“祝痕”の体系に深く通じ、
“視える目”を持つ娘を育てる中で、自らの知を密かに継承させていた。
だがその存在は、私が十歳の頃、謎の死を遂げることで公爵家の記録から消える。
その後、再婚した義母が“正統な貴族夫人”として家を継ぎ、母セレナの名は伏せられた。
「ご明察ね。母は“術を操る指先にこそ、女の品格が宿る”と教えてくれたわ」
私はあえて微笑みで返した。
ノエルの言葉に乗りながらも、はっきりと、“こちらの格を崩さない”ように。
「けれど、魔術は便利すぎて……時に、祈りの妨げになるものですものね?」
「ええ、だからこそ“品位を”と学びました」
「……無駄に振りかざせば、牙となって自らを傷つける。魔術も、信仰も」
ノエルのまぶたがぴくりと揺れた。
一瞬の静寂。
言葉の応酬は、まるで刺繍されたベールの裏に刃を隠したかのようだった。
ノエルはやがて、ほほ笑みを深くしながらそっと視線を逸らした。
「……エディス様って、ほんとうに“危うくて美しい方”ですわね」
それは誉め言葉に聞こえるようでいて、明らかな牽制だった。
けれど構わない。
この程度の“探り”なら、いくらでも受けて立つ。
ふと、風が抜けた。
ほんのかすかな空気の揺らぎ――いや、“揺らがされた”とでも言うべきか。
テーブルの上に並ぶ装飾ろうそくの一本が、突然、ぱたりと消えた。
誰も気に留めなかった。
いや、誰も“気づくことがなかった”。
けれど私は違う。
ノエル・グレイスの視線が、その一瞬、消えたろうそくへ滑ったことを見逃さなかった。
(なるほど……小手調べ、というわけね)
封魔の術式が空気に微細な歪みを与え、周囲の魔力の流れを変えた。
それによって、周辺に存在していた“火”の気配が一瞬だけ霧散したのだ。
だが。
私は指先でそっと魔力を流す。
無音の詠唱。
視線すら向けないまま、軽やかな指の動きだけでそれを発動した。
パチ、と。
消えていたろうそくに、朱い炎がひとりでに灯った。
まるで命が芽吹くような、静かな“灯り”だった。
その瞬間――ノエルの表情が、明らかに揺れた。
祈りの仮面が、わずかにひび割れる。
彼女のまつ毛が震え、口元が言葉を失う。
「……」
私はあくまで無表情のまま、紅茶のカップに再び口をつける。
ただ、炎が揺れている。
あの火は“消えた”のではない。
“誰かに消された”ものを、私は“つけ直した”のだ。
その意味を、ノエルだけは痛いほど理解したはずだ。
だからこそ、彼女はもう言葉を発さない。