第3話『封印の名を告げた夜』
あの夜。
玉座の間には、皇帝以外誰もいなかった。
衛兵はエルマーが手を回し「下がらせて」あった。
呪術監視の結界も、“偶然”を装って壊れている。
――それは、大公エルマーが仕組んだ、“皇帝暗殺”の舞台だった。
その場にいるのは、たった二人。
帝印の呪いに蝕まれた皇帝アシュレイと、
禁術を使う公妃エディス。
――帝国皇帝、アシュレイ・ヴェル・レゼルナ。
黒曜石のような髪を持ち、琥珀と金の混じるような双眸は、まるで生きた焔のように、人の心を射抜く。
纏うのは、帝家直属の漆黒の礼装軍衣。肩口には金獅子の紋章、胸には帝印がきらめき、
その背にあるだけで、空間すべてが“服従”を強いられる。
その歩みは、静かだった。
けれど、足音もないその一歩ごとに、世界が「ひれ伏す」音がした。
顔は美しく整いながらも、どこか“人間らしさ”がない。
感情の欠片を見せることはなく、その無表情こそが、彼の暴君としての絶対性を物語っていた。
だが、今の皇帝の瞳は淀んでいて、そして憔悴しきったように覇気がなかった。
「……お前は」
エディスに見覚えがあるのか、アシュレイが言った。
その声に怒りはない。ただ、静かな諦めがあった。
「エルマーか」
「気づいていてどうして、何もしなかったのですか」
「言ってどうなる?」
短く返された声に、かすかな痛みがにじむ。
「お前は“命令”でここに来たんだろう?己の意志ではない」
エディスは一歩、玉座へ近づいた。
腹の奥で禁術が軋み、疼く。
「……殺しても構いません。私を」
その言葉に、アシュレイがまっすぐエディスを見た。
眼差しは冷たく、しかしどこか燃えさしのように揺れていた。
「殺せるなら、とっくに殺している」
短く告げて、彼はゆっくりと歩を進める。
「私はこの帝国のために、“怪物”になることを選んだ。
誰も近づかせず、誰も愛さず。
この呪いで、誰も傷つけぬように……心を閉ざした」
「それでも陛下は、数多を斬りました」
エディスの声は静かだった。
「そう、最初に母を殺した」
その一言に、空気が凍る。
「帝印が現れた夜、私はただ――母に触れようとしただけだった。
なのに、彼女は……焼かれた。私の手で」
その告白に、エディスの手が震える。
――この人も、私と同じ。
運命に人生を狂わされた人間。
術式の詠唱が、喉元までこみ上げた。
殺すこともできる。
今ここで、帝を葬れば、すべては終わる。
だが――
エディスは、瞳を閉じて呟いた。
「――永劫の眠りを汝に」
魔法陣が静かに、皇帝の足元に展開された。
光が、柔らかく、けれど不可逆に彼を包み込んでいく。
そしてエディスは掌を皇帝の胸にそっと当てた。
それは、生きたままの封印。
命を奪うものではない。
けれど、それは“死よりも長い孤独”だった。
アシュレイは、ただ最後まで、驚いた顔でエディスを見ていた。
その瞳には、痛みでも怒りでもない、どこか哀しみの色が浮かんでいた。
「……名を」
「え?」
「最後に、“おまえの名”を。俺は……」
その声が沈みゆく光のなかで消える。
エディスは、唇を噛み、ひとつ名を告げた。
「エディス・カリナです」
――そうして、皇帝は封印された。
*
「……なぜ、だ」
エルマー・エルスレインは、椅子にもたれたまま身じろぎもしなかった。
手にはグラスがあったが、酒はもうとうに空になっていた。新しくワインのコルクを抜くとグラスに注いだ。
壁には書簡が叩きつけられ、テーブルの上には砕けた水晶の飾りが散っている。
「……婚姻を、断る?」
小さく呟いたその声には、普段の理知や冷静さはなく、
何かが綻びかけた音が混ざっていた。
「貴族の娘が、“私を”断る……だと……?」
顔を上げる。
部屋に人はいない。
だからこそ、抑えていた本音がこぼれ出す。
「何が不満なんだ、エディス。
この辺境の国で、私以上の“後ろ盾”がどこにある」
「おまえはカリナ家の“管理物”だろう。感情など、与えられていないはずだ」
だが――
(なのに、あの目は……)
あの瞬間の、凍てつくような拒絶の瞳。
まるで、自分の全存在を「否定された」ような、
生まれて初めて味わう“敗北感”。
「なぜだ、なぜ頭から離れない……」
手元のグラスを投げつける。
壁に当たって砕け散り、赤い液が飛び散った。
息が荒くなる。喉が乾いている。
だが、それ以上に心が渇いていた。
「……そうだ、カリナ家の女は、ただの令嬢ではない。
《鏡写の祝痕》……相手の“真名”を映す、血の器」
「だが、完全な純血を宿しているのは、今や“あの女だけ”だ」
指が震えている。
「……ティリアには、意味がない」
思い出すのも忌々しい。
「エディスでなければ、“帝印”には届かない。あの女しかいない!」
そのとき、扉の外で物音がした。
だがエルマーは気づかない。あるいは、気づいても止まれない。
「おまえが拒んだせいで、すべてが台無しになった!どうして……なぜ……私に屈しない!」
そして、叫ぶように吐き捨てた。
「エディスじゃなきゃ意味がないんだよ……!!」
部屋には静寂が戻った。
その言葉だけが、まるで呪いのように、壁に貼りついていた。
翌日、エルマー・エルスレインの執務室には、一通の封書が届けられた。
帝印の紋章。赤金の封蝋。
そして宛名は、“大公殿下御覧”と、皇都筆写の筆跡で書かれている。
侍従が差し出すと、エルマーは視線を落とした。
(この紋章は……選抜関連)
一呼吸置いて、封を切る。
中から現れたのは、候補者一覧と、その推薦家門の署名。
ゆっくりと読み進めていく中で、彼の指が、ふと止まった。
「候補者第六位:エディス・カリナ ――カリナ公爵家推薦」
……静寂。
空気が、固まった。
視線をその一行に留めたまま、彼の指がわずかに震えた。
「……カリナ公爵、だと?」
舌打ちにも似た息が漏れる。
「あの男が……“あの女”を出した、だと……?」
椅子に深く背を預けながらも、思考は嵐のように渦巻いていた。
(なぜ今さら? あれほどまでに自分の家の影に追いやっていた娘を、なぜ“帝国の顔”に差し出す?)
次の瞬間、脳裏にあの光景が蘇る。
──「お断りいたします」
静かに、確かに、自分を拒んだあの女の目。
あのときから、何度も夢に出てくる。
嘲るわけでもなく、泣き叫ぶわけでもなく、ただ冷たく、確かに“自分を素通りした”目。
(……選抜に出る? あの怪物の傍に、“自ら”立ちに行くと?)
指が、手元の羊皮紙を無意識に握り潰しかける。
「なにを考えている、エディス……」
あの女はもう自分に従わないのだろうか?
だが、“呪いの怪物”の横で立つのなら――
(……これは、まだ“終わっていない”)
かすかに笑みが浮かんだ。
それは怒りでも勝利でもない、“確かめたい”という本能的な執着。
「そうか……なら、見せてもらおう」
彼の中で、選抜戦が“政治の場”から、“執着の舞台”へと変わった瞬間だった。
(今急いで手に入れる必要はない)