第21話『燃えかけの王座の隣に座る女』
晩餐の席に漂っていた沈黙を、アシュレイの低い声が破った。
「エルマー?」
問いかけは、試すようでもあり、確かめるようでもあった。
「はい、エルマーは謀反を策略しています」
「そんな、馬鹿な。あいつほど忠実な家臣はいない」
「今は、疑われるのもしかたありません、ですが。お心に留めておいてください」
「何を知っている」
「今は、何も。まだ」
怒るのもばかばかしくなるほど、エディスの戯れ言に力が抜ける。
「まいい、今更お前に驚くことも何も無い」
「ありがとうございます」
「そんなことよりも」
「⋯⋯はい」
「お前は、妃としての見返りはそんなことでいいのか?」
エディスはスプーンを静かに置き、ゆっくりと微笑んだ。
「妃の敵は、皇帝の敵でありますから」
「そういう意味ではない」
エディスは少し考えて、ああ。と、アシュレイの方を見た。
「ご心配はいりません、子は望みません」
アシュレイの眉がわずかに動く。だが何も言わない。
「愛もいりません」
その言葉は冷たくも、空虚でもなかった。ただ、深く沁みるような静けさを伴っていた。
「では、なぜここまで尽くす?」
問いには、心の底からの疑念があった。
エディスは微かに目を伏せ、穏やかに答えた。
「私は、尽くした見返りの“愛などには価値がない”と知っております。
ならば最初から、要らないものとして切り離しておけば、失わずに済む――それだけです」
アシュレイの目が、かすかに揺れた。
それは、彼が抱える痛み――誰にも語れない“喪失と拒絶”の記憶に、静かに触れたからかもしれなかった。
「……誓えるか?」
彼の声が、ほんのわずかに低くなる。
「命の続く限り、私はあなたの“駒”。
あなたに背を向けることはありません。
あなたが命じるなら、敵を刺し、己を切り捨てる覚悟もあります」
それは誓いであり、願いでもあった。
嘘ではない。
苦しみと孤独を知る者だけが持ちうる、凍った覚悟。
アシュレイは、しばし彼女の瞳を見つめた。
そして、まるで決意を確かめるように、静かに言った。
「――妃として迎えよう」
――妃として迎えよう。
その言葉を、エディスは静かに受け止めた。
けれど、心は揺れなかった。震えることも、喜ぶこともなかった。
なぜなら彼女は、「愛された記憶」ではなく、「裏切られた記憶」を胸に抱えて生きているからだ。
前世――
彼女は今と同じように、大公に利用され、そして捨てられた。
「忠義」を誓い、「夫のために」と命を削った。
でもそれは愛のためでもあった。
だが、その結末は粛清だった。
誰も手を差し伸べず、ただ「都合が悪くなったから」と処分された“罪人”。
それが、前世の彼女に与えられた最後の称号だった。
だから、もう二度と信じない。
期待しない。夢見ない。
この手を取った皇帝すら――いつか敵に変わる。
だが、それでいい。
(自分で選んだこと……だからいいのよ。それでも)
心の奥底で、彼女は呟いた。
見切られることはもう覚悟している。
だからこそ、ただ冷静に、“確実に復讐すること”だけを考えれる。
皇帝の妃であることが、達成条件だとするならば――
その地位すら、利用するつもりだ。
(愛なんていらない。欲しいのは、ただ――自分を貶めた者たちに同じ苦しみを与えること)
最後まで自分の意志で復讐を完遂するという結末だけ。
*
皇宮入りした当日。
その朝、エディス・カリナのもとに、一人の専属従者が配置された。
名は――ナイン。
まだ十代の終わりほどの若さで、よく磨かれた靴に、襟元まできっちり留められた青い制服。整った身なりと緊張した背筋が、彼の実直な性格を物語っていた。
ノックの音のあと、まっすぐに頭を下げて言う。
「本日より、妃殿下付きの従者を務めさせていただきます。ナインと申します」
エディスはしばらく彼を観察していたが、ふっと微笑んだ。
「まあ、よろしくね。礼儀正しくてよろしいけれど……私、そう堅苦しいのは苦手よ?」
からかうようでも、どこか優しい声音だった。
ナインの耳がかすかに赤くなる。
「は、はい……!」
エディスは小さく頷き、振り返りざまに扇子を閉じると、さらりと告げた。
「じゃあ、最初のお仕事をあげるわ」
ナインは背筋を伸ばし直す。
「はい、なんなりと」
「いま、この帝国……どれだけ火の車か、全部教えてちょうだい」
「……え?」
予想外の指示に、ナインの眉がわずかに揺れた。
だがエディスはすでに、部屋の窓際に向かって歩きながら、淡々と続ける。
「妃になるってことは、帝国の問題ごと、全部押しつけられるってことなのよ。言ってしまえば――“燃えかけの王座の隣”に座るってこと」
窓の外、遠く霞んだ王都の街並みに目をやりながら、彼女は小さく笑った。
「命を削るのなら、“戦うべき敵”くらい、ちゃんと知っておきたいもの」
ナインはその横顔を見つめ、静かに頭を垂れた。
「かしこまりました。すべて持ってまいります」
ナインがエディスの命を受けて部屋を出ていくと、静けさが戻った。
廊下へ閉じられた扉の音が消えるのを待って、部屋の隅に控えていたイレーナ・クロウが一歩、静かに前へ出る。
「……従者殿は、真面目でいい目をしていますね」
その声には柔らかさがありながらも、どこか観察者としての距離感がにじんでいた。
エディスが椅子に身を預け、ゆるやかに扇子をたたむ。
「あなたに褒められると、なんだか裏がありそうで怖いわ」
イレーナは微笑んだ。
「裏ではなく、下地の話をしましょうか」
「……聞いてあげる」
エディスが視線だけで促すと、イレーナはゆっくり口を開いた。
「私は、帝国に忠誠を誓った者ではありません。皇宮に仕える者でもありません。以前も申し上げましたが、私の出自は――**“中立情報機構”通称《群鴉の塔》と呼ばれています」
静かな告白。だが、その言葉に込められた重みを、エディスは理解していた。
イレーナ・クロウは立ったまま口を開いた。
「……ひとつ、伺っても?」
エディスは机に並んだ文書から目を上げることなく、静かに頷いた。
「構わないわ。聞くだけなら」
「――群鴉の塔について、どこまでご存知なのですか?」
その声には、明らかな探りと緊張が滲んでいた。
「本来、あの組織は表に出てくるものではない。帝国の官制にも、宗教の記録にも記載がない。なのに――どうしてあなたがその名を?」
イレーナの言葉には、明確な警戒があった。
扉の隙間から冷たい風が入り込み、帳のように部屋の空気が沈む。
エディスは窓辺に立ち、薄い月明かりの下で扇子をゆっくりと開いた。
「……あなたが私に、恐怖心を抱くような話をして差し上げましょうか?」
その声音は静かだったが、空気を震わせるような底冷えのする響きを持っていた。
イレーナは一歩も退かない。ただ、黒衣の裾を握る指がかすかに強張る。
「中立と称しながら、あなたたちは――“エルマー”ともつながっているでしょう?」
一瞬、イレーナの表情が動いた。
反論ではない。否定でもない。ただ、予想よりも“核心に近すぎる”言葉に、思わず呼吸を忘れたような沈黙。
「なぜそれを?」
ようやく出た問いは、掠れるような声だった。
エディスは振り向き、瞳を細める。
「秘密よ」
微笑は、あまりに薄く、そしてあまりに強い。
「他に何か、話したいことでも?」
イレーナは黙ってゆっくりと歩み寄った。
「カリナ家は、東辺境の公爵家。そのあなたが――なぜ、エルマー大公と面識があるのですか?」
エディスは、わずかに微笑んだ。
その視線は冷たくも温かくもなく、ただ“静か”だった。
「……彼と話を交わしたことがある、というだけよ」
「ただの貴族に、それは稀なことです」
「ええ。だから“稀”だったのでしょうね」
「けれど――忘れないで。私は“情報の取り扱い”について、少しばかり心得があるの」
イレーナは沈黙した。やがて、低く頭を下げる。
「……心得ました。以後、侮りません。いえ、すでに――しておりませんが」
エディスは一歩近づくと、まるで戯れのようにイレーナの耳元へ囁いた。
「でも――私が知っていることは、他言しないで?」
扇子がひとつ、軽くたたまれる音がした。
「あなたの組織にも、エルマーにも。すべて、欺いてちょうだい。できる?」
イレーナの瞳が、一瞬だけ揺れる。
それは、命令か、試練か、それとも――信頼の裏返しか。
エディスはその表情を見つめながら、微笑んだ。
「あなたの“忠誠”がどれほどのものか、見せて」
イレーナは、ゆっくりと膝をついた。
「……心得ました。カリナ様。私は“影”として、誰にも悟られぬよう、貴女に尽くします」
「良い子ね」
そう言って、エディスは背を向ける。
その足取りは、決して疑っていなかった。
すでに“信頼する”と決めた者への、帝国一冷たい悪女の、最初の優しさだった。
エディスはゆっくりと扇子を開いた。
その布地に描かれた銀の模様を、ひと撫でする。
――これでひとつ、切り札が増えた。
(エルマーの駒は、私の手中に入った)
冷静な思考の裏で、微かに唇が動く。
けれど、それは誰にも聞かせるつもりのない言葉だった。
あの男が、どれだけ綿密に計算を巡らせようと構わない。




