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第2話『大公の婚姻を拒みし女』


ここは――帝国の余白。

名ばかりの自治を許された“レグナ公国”。

軍を持たず、法を定めるにも帝都の許可が要る。

通貨も、外交も、この地には“影”しか与えられていない。

エルマーにとっては、「帝国に逆らわず従順に沈む、薄い色の地方」でしかない。


扉を開けた瞬間、空気が変わる。

エルマー・エルスレインの書斎は、まるで整然とした戦場だ。

広さよりも“密度”が際立つ空間。

壁一面の書架は軍略書と帝国法典、歴代政令文書でびっしりと埋まり、いずれも革装で統一されている。色は全て深い墨黒。背表紙の金箔だけが、光を返す。

中央に据えられた執務机は、重厚な黒檀こくたん製。無駄のない直線のみで構成され、紙一枚の歪みも見せない。

上には精緻なインク壺と万年筆、封蝋の道具、そして最新の軍務電報機が整然と並ぶ。時計はひとつもない。代わりに――

壁の奥に、帝国の全戦域を示した巨大な地図が貼られている。

赤と銀のピンが無数に打ち込まれ、日時と兵力が細密に記録されているそれは、“現在進行形の戦略”そのものだ。

窓は狭く高い位置にある。自然光は計算された角度でのみ差し込むように設計されており、余計な影を落とさない。

そこに立つ彼の姿は、まるで“神の将棋盤”を支配する者のようだった。

香の匂いすらない。代わりに、冷えた空気に鉄と墨の気配が混ざっている。

ここは、感情を持たぬ知性だけが呼吸を許される部屋。

そして、この男の人生と執着と支配欲のすべてが、この空間に集約されている。


乾いた風が、城壁の高窓から流れ込んでいた。

ろうそくの炎が揺れ、カリナの髪の端もわずかに揺れる。

目の前の男――エルマー・エルスレイン大公は、椅子に腰を掛け、指先だけで金杯を弄んでいた。

「……明日の暁、帝印は完全に目覚める」


帝印――それは、帝国における“絶対支配”の象徴であり、

同時に、皇帝の魂に刻まれた“呪い”そのものだった。

帝印を宿す者は、国法を超えた命令権を持ち、

帝術と呼ばれる特殊な術式を行使できる。

だが、それはただの“権力”ではない。

帝印は、感情とともに共鳴する。

怒り、恐れ、孤独――それらが高まれば、印は暴走し、

皇帝自身の肉体と精神を侵蝕する。それだけでは収まらず、周りの者もただではすまない。


帝印を制御できる者は、かつてこの帝国にひとりだけいた。

それは、アシュレイの母――セレネ皇妃。

古神殿の巫女筋を引く血族に生まれ、

“帝印の封印術”を知る、最後の継承者だった。

帝印が最初に暴れたあの夜。

少年だった皇帝の中に目覚めた呪いが、

帝国でたったひとつの「抑止の手」を、自ら焼き払ったのだ。

それ以来、帝印を封じられる者は、いない。


エルマーの声音は静かだった。だが、ひとたび口を開けば、部屋の温度がひとつ下がったような錯覚を与えた。

私は口を結んだまま、動かなかった。


「お前の役目だ」


それは命令だった。

「皇帝アシュレイを、殺せ。禁術を使って、二度とこの世に戻れぬよう、魂ごと“焼き切れ”」


「……そのために私に禁術を取得させたんですものね」


ようやく絞り出した声は、かすれていた。

恐怖ではない。怒りでもない。


エルマーは笑った。

その笑みは、あの婚礼の夜と同じ、優しい顔だった。


「君は、素晴らしい。感情を殺す術を持ち、“命令”に従える器だ」

「私はあなたの妻なのに」

「だからこそ、大義を与えるのだ」


私は立ち上がりエルマーを見た。

その視線の奥で、何かがゆっくりと崩れた。


一度も、心から抱きしめられたことはなかった。

一度も、愛してもらえたことはなかった。

なのに、命令は、“暗殺”。


「わかりました」


その言葉に、彼は微笑を浮かべた。


「その後は私が帝国を導こう」

その夜、私は、皇帝のもとへと向かった。

翌朝、皇帝アシュレイは、帝宮奥の儀式の間で“昏睡状態”で発見された――。



カリナ家の館には、いつも冷たい沈黙が漂っていた。

大理石の回廊に靴音が響くたび、メイドたちは頭を下げるが、誰ひとりエディスの目を見ようとしない。

それは、命じられた礼儀ではなく、暗黙の“無関心”だった。

「……エディス様、お食事の支度が整っております」

無表情に報告する侍女の背後に、義妹ティリアの明るい笑い声が廊下の向こうから重なる。

養子であるカリナ公爵と、後妻の義母グレイシャの声も混じっていた。和やかな、家族の会話だった。

その輪の中に、エディスの名が呼ばれることはない。

食卓は別だった。

礼装も、一段格下のものが与えられた。

舞踏会や社交の誘いは義妹に集中し、彼女はその影として生きることを強いられていた。

「政略に出すには、あの子の方が使いやすいのよ」

ある夜、扉の隙間から聞こえた義母の声が耳に焼きついている。

彼女の指す“あの子”は、エディスではなく、ティリアの方だった。

エディスは黙って部屋に戻り、鏡の前に座った。

窓の外には月が浮かんでいた。

白く、ただ静かに光っている。

(わたしは、何のためにここに生まれたのだろう)

問いの答えは、誰も教えてはくれない。


カリナ公爵家には、代々“女の血”にだけ受け継がれる特異な能力があった。

名を、《鏡写の祝痕きょうしゃのしゅくこん》――。

他者の“魂のかたち”を映す力。

それは、真名を引き出し、呪術の媒介となり、契約の鍵を開く異能。

一見すれば、帝国にとって極めて有用な力。

だがそれは同時に、“映したものを引き受けてしまう”という呪いでもあった。

見れば、染まる。

映せば、壊れる。

その力を完全に制御できた者は、歴史上ほとんど存在しない。

――カリナ家の娘は、常に“政略と呪術”の狭間で使い捨てられてきた。

しかし実母の代で帝印の存在が明るみになってから、帝国でカリナ家のその異能を必要とすることはなかった。


とはいえ、実母が亡くなったことで、

《鏡写の祝痕》を受け継げる“純血の後継者”は、エディスただ一人となった。

その特異な血に目をつけたのが、エルマー大公である。

回帰前、彼は政略家として動き、外面では優しげな求婚を装いながら、

その裏では、公国に伝わる禁術を私に習得するよう囁いた。

禁術――それは魂を削る契約の魔。

本来は王族すら口にしない“力”を、

私は彼に“愛されている”と信じ、得た。


だがそれは偽りだった。

彼は私を利用したあと、私を不気味がり、妹を抱いていた。



回帰後の次の日、カリナ公爵家の客間には、普段の倍以上の侍女と従者が詰めていた。

紅茶を注ぐ手は震え、花瓶の位置を直す者は三度もやり直していた。

理由はひとつ――

エルマー・エルスレイン大公が、正式に“来訪”したからだった。

「ようこそ大公様」

義母グレイシャが、作り笑いを貼りつけながらも、声の端をひきつらせる。

ティリアは硬直したまま、立ったまま動けずにいる。

だがエルマーは、何事もないように立ち上がった。

そして、部屋の奥で黙っていたひとりの少女――エディスに向き直った。


(ああ、そうだわ。今日だったわね)


「エディス・カリナ嬢」

呼ばれた名に、部屋の空気が凍りついた。

「貴女に、婚姻を申し込みたい」

ティリアが息を呑んだ。

義母が椅子から半分、腰を浮かせる。

公爵本人は眉ひとつ動かさず、その背後に立っていた。


「……は?」


それは、誰の声だったかわからない。見えなかったが、ティリアの声にも聞こえた。

だが確かに、部屋の全員が同じ言葉を心に浮かべた瞬間だった。

「エルマー様……、ご冗談、ですよね? まさかお姉さまに……」

ティリアの声は震えていた。


彼女はずっと、家の“顔”として育てられてきた。

舞踏会も、社交も、称賛も、すべて自分のものであったはずなのに――。


「貴殿の娘君は、たいへん優秀だ。

 ――私に必要なのは、“血統”と、“忠誠”だ」


その瞳は、まるで感情というものを知らないかのように冷たかった。

回帰前は、喜んだことを思い出す。

この家で、空気のように扱われていた私を、この人が救い出してくれたのだと歓喜した。

だが、あの夜、体に焼きついた“呪式の熱”がまだ残っていた。


それが答えを代弁するように、私の指先は震えていた。


カリナ公爵家の応接間に、エルマー・エルスレイン大公の声が響く。

堂々と、整然と、いつも通りの完璧な話しぶりだった。

一瞬の沈黙のあと、ティリアが小さく息を呑み、義母は硬直していた。


父親のヴェルナー・カリナ公爵は眉ひとつ動かさずに言った。


「まことに光栄な申し出だ。……エディス、おまえの返答は?」


全員が、エディスを見た。

だが、私の表情には――迷いも、高揚もなかった。

静かに立ち上がり、エルマーへと向き直る。

その瞳はまっすぐで、濁りも恐れもない。


「お断りいたします」


部屋の空気が、凍った。


「……え?」


最初に声を発したのは、ティリアだった。

続いて義母が、思わず立ち上がりかける。


「な……なにを……? エディス、今なんと――」

「私はこの婚姻を望みません」


はっきりとした拒絶。

それは、娘が決して口にしてはならない言葉だった。

エルマーの表情が、わずかに崩れた。


「……冗談はよせ。これは正式な縁談だ。

 君は“断れる立場”にいないはずだ」


彼の声には、明確な動揺がにじんでいた。


「承知しております」


それでも私は、まったくひるまなかった。


「ですが、私の意思を問われたので答えました。

 ――お断りします。あなたに嫁ぐつもりはありません」


一瞬、彼の青色の目が揺れた。

予想になかった反応。

計算外の返答。


「なぜだ」


低く呟いたその声には、怒りではない、別の感情が滲んでいた。

エディスの静謐な拒絶が、彼のどこかを深く傷つけていた。


「閣下に私はどうみても不釣り合いせすもの」


そして私は、ふわりと膝を折り、礼儀作法の範囲で――

まるで皮肉のように、優雅な一礼を見せた。


「本日は、遠路はるばるありがとうございました。

 どうぞお引き取りくださいませ。……“閣下”」


エルマーは、立ったまま動けなくなった。

その日、彼の“完璧な人生”は、わずかに軋んだ音を立てて、崩れはじめたのだった。



エルマーが去った応接間の扉が閉まると同時に、その空気は一変した。


「……何のつもりだ、エディス」


カリナ公爵の声は低く、だが確実に、怒りの熱を孕んでいた。

ティリアと義母は凍りつき、侍女たちは物音ひとつ立てぬよう身を縮める。

エディスは、まっすぐ父の方を見ていた。

目を逸らさず、背筋を伸ばして。


「私は、自分の意思を述べただけです」


その瞬間、音を立てて公爵の掌が机を叩いた。

書類が宙に浮き、ティリアが小さく悲鳴を上げる。


「黙れ。おまえの意思など誰が求めた。

カリナ公爵家の娘は、“選ばれる”立場ではない。

“差し出すため”に育てられたことも、忘れたか!」


エディスの頬が、淡く紅潮する。

恥でも怒りでもない。

その一言が、彼女の存在すべてを否定したからだった。


「育てた?嫁ぐのであればティリアのほうが良いのでは?」

「……何だと?」

「私という人間には、最初から興味などなかったでしょう?」


一瞬、公爵の目が鋭く光る。

その手が、エディスの頬に向かって――


「やめて、お父様!」

ティリアが思わず叫んだ。

その手は、寸前で止まる。

エディスが、まったく怯まず、ただ静かにその目を見つめていたから。


「この家に生まれながら、家の命を拒むというのなら――」


言葉を切った公爵は、冷酷な声で告げる。


「以後、おまえに与えていた寝室・衣装・食客・侍女はすべて剥奪する。“家の娘”ではなく、“預かり物”として扱う。おまえが口答えしたという事実は、帝都には伝わらぬよう、即刻、書面を改める」


「……いえ、その必要はありません」

どれほど罵られても、心は決して折れなかった。


「私は、帝国に嫁ぎます」

「は?」


エディスは静かに跪き、顔を上げる。

その瞳には、曇りも怯えもなかった。


「……帝国皇妃選抜へ、私を推薦していただけませんか」


その一言で、ティリアが目を見開く。

義母グレイシャは、まるで聞き間違いでもしたように唇を歪める。


「何を言っているのかしら? 立候補?」

「はい。そうです」


エディスは、まっすぐ父の目を見て答えた。

どこにも感情の揺らぎはない。

ただ、“決意”だけがそこにあった。

カリナ公爵は、重々しく椅子の背にもたれ、深く息を吐いた。


「エルマーを断っておいて、次は帝国か?

 まるで捨て駒が、自分で盤面に戻ると言っているようだ」

「……その通りです」

「愚かな自覚はあるようだな――おまえは、皇帝がどんな男か知って言っているのか?」


重たく低い声が、エディスの背を打った。

公爵が珍しく、真顔で詰め寄ってくる。

エディスはまっすぐ父の瞳を見た。


「……帝印を継いだ、帝国史上最年少の皇帝。即位から三年で、五つの反乱を鎮圧し、隣国二国を制圧。政敵を処刑し、宰相を自ら斬首し、兄弟を粛清したと聞いています」

「それだけではない」


公爵がテーブルを叩いた。ティリアが肩を跳ねさせる。


「暗殺者を笑いながら焼いたという話もある。

 自国の軍を“試すため”に戦場に突っ込ませたとも。

 無表情で兵士を見殺しにしたとも。

 どれが真実か、もうわからんほどだ」

「ですが、皇帝としては盤石です。

 誰も逆らえず、誰も近づけない。……完璧な“怪物”です」

「それが――わかっていながら、なお行くと言うのか?」

「はい」

即答だった。


「……おまえ殺されるぞ」


父の声に、ティリアがくすりと笑った。


「姉様、選抜には社交、芸術、帝術適性すべてが問われるのよ?」

「いいえ。今まで披露する場がなかっただけです」


その一言に、ティリアの表情がこわばる。


「私は、必要とされない娘として育てられました。

 だからこそ、“必要とされる場所”に自分から出向くべきだと思いました」


公爵は無言のまま立ち上がり、エディスに歩み寄る。

その足取りはゆっくりと、まるで獲物を試すようだった。


「名誉も家名も守れぬ女が、帝都の中心で何ができる?」


私は知っている。


この国では、今、帝国との関係改善を目的に“婚姻外交”の動きがある。

誰かが犠牲になるのは、時間の問題だった。実際、前世で何人もの令嬢達が送り込まれていた。

だが、誰も皇帝に娶られることはなかった。だから私が暗殺を一役買わされたのだ。


どうせ誰がいっても成功しないのであれば、私が試す価値はある。



「大公家にはティリアが――私は帝国へ、そのほうがお父様もご都合がいいのではありませんか?」


しんと静まり返った室内に、その言葉だけが残った。

公爵の目が、じっと娘を見据える。

やがて、わずかに口元を歪めた。


「……よかろう。推薦状を出してやる。だが――」



「敗北すれば、二度とこの家の名を口にするな。

 おまえが勝手に出た勝負だ。命も名も、そこで燃やせ」



「――はい」








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