第12話『女たちの脱落と、ひとりの例外』
仮面舞踏会の夜から、彼女は常に“影”にいた。
柱の陰、カーテンの奥、吹き抜けの上階、回廊の見えない曲がり角。
誰よりも存在感を消し、誰よりも情報を拾う女――イレーナ・クロウ。
その夜も、彼女はひとり、書庫の隣の部屋の扉に身を潜めていた。
わずかな音。わずかな灯り。
扉越しに交わされる二人の声は、彼女の耳に寸分漏らさず届いていた。
――「“役に立つ”うちに、お使いください」
その言葉に、イレーナは眉をひそめた。
エディス・カリナ。
帝国の貴族記録にも、旧世代の名簿にも存在しなかった“空白の女”。
だが、その所作、その返答、その間合い――すべてが、経験者のものだ。
表向きは静かに微笑む女。
だが内側では、毒、幻術、魔術、そして何より“勝ち残る戦略”を熟知している。
「……何者なの?」
小さく呟いた声は、風にさらわれた。
そして、覗いた先――
エディスが皇帝の手に手袋をはめるのを見た瞬間。
イレーナの目が、細く細くすぼまった。
「……あの皇帝が、他人に触れた?」
かすかに指先が震える。
恐怖ではない。興奮だった。
彼女の記憶の中にある“呪いの理”では、皇帝は誰にも触れられないはずだった。
それが今、あの女だけには通じていない。
“例外”を、彼女はこの目で見たのだ。
イレーナは静かに自室へ戻っていた。
窓を閉め、魔術障壁を張ると、机の裏板に隠された“魔石”を起動させた。
黒い水晶に似た石板が、ぼんやりと蒼く光を帯びる。
ピリ、と音がしたかと思えば、すぐに無機質な声が応答した。
「……こちら《群鴉の塔》」
「レゼルナ帝国・皇妃選抜潜入中クロウ・イレーナよ」
「報告を」
イレーナはすぐさま、静かに語り始めた。
「候補者:エディス・カリナを調べて」
「そいつがどうした?」
「毒耐性、幻覚魔術の無効化、対話型封魔の回避。さらに――皇帝との“直接接触”を確認」
「……接触?」
「はい。帝印を持つ皇帝アシュレイが、彼女に触れられても苦悶しなかった。
彼女が何らかの『旧術的免疫構造』を持っている可能性があります」
「わかった。継続監視を」
「承知いたしました」
通信が切れると、石板から蒼い光が消えた。
部屋の中は再び、重たい沈黙に包まれる。
イレーナはふうっと息を吐いた。
彼女にとって、これが“通常業務”だ。
だが内心では、既に確信していた。
彼女を甘く見れば、国家さえ傾く。
だからこそ、“監視”し続けなければならない。
夜はまだ、深かった。
*
夜の回廊。
仄暗いステンドグラス越しに射し込む月光の中、ひとつの影がじっと息を潜めていた。
リズ・ファーレン。
旧皇族の末裔と称される高貴な血統を持つ彼女は、そっと柱の奥から覗いていた。
その視線の先には――エディス・カリナと皇帝アシュレイ。
女が男の手に、手袋をはめている。
――しかも、あの噂高い“呪いの手”にだ。
(ありえない……皇帝に、触れた?)
その瞬間、リズの喉奥がひくりと震えた。
常識では有り得ないことが、今、目の前で起きていた。
あの冷血の皇帝が、人に触れられて、痛みに呻かないなど。
しかも――まるでそれを、許しているような視線。
(ふざけてるわ……私の方が家格も血統も上なのに……)
くい、と唇を噛む。
美しい顔が、怒りに染まりかけた。
だがすぐに、リズの表情は切り替わった。
それは、狩人のような瞳だった。
(……あの女に出来て私に出来ない筈はない。皇帝陛下は人に心を許さないのなら、“身体”から落とすまで)
彼女はゆっくりと指先を撫でながら考えを巡らせる。
エディスとは違う、自分の武器。
洗練された所作、夜会服、肌を引き立てる香の配合。豊満な身体。
「“近づくな”と言われて育った男ほど……落ちやすいものよ」
小さく、誰にも聞こえぬように呟いた。
*
噂が、静かに城内を駆け巡っていた。
「エディス・カリナが、皇帝陛下と個人的に会っている」
火のないところに煙は立たない。
そして、その“煙”は、リズ・ファーレンの中で確かな嫉妬へと変わっていた。
(――ならば、私も)
リズは夜会用の艶やかなドレスをまとい、鏡の前で最後の確認をしていた。
完璧なまでに整えられたメイク。
艶やかに塗られた唇は、見る者の視線を釘づけにする色――けれどその色には、“媚薬”が混ざっていた。
誰に教えられたでもない。
女の武器を、彼女は知っていた。
そして今夜、それを使う覚悟も。
――皇帝陛下を落とすのは、この私よ。
彼女は、小箱に丁寧に詰めた茶菓子と、薔薇を模した香の細工を手に、執務室の前に立った。
「……陛下に面会を申し付けられたのですが」
門番の騎士が一度視線を交わし、リズの顔に見惚れ何も言わずにうなずく。
「失礼いたします」
リズはゆるやかにスカートを摘み、優雅なカーティシーを取った。
部屋の奥には、皇帝アシュレイ・ヴェル・レゼルナがいた。
だが、視線はよこさない。
椅子に深く身を沈め、指先ひとつ動かさぬまま、まるで何も見ていないかのような沈黙。
だがリズは、怯まなかった。
「こちら、手作りの菓子でございます。陛下のお好みに合えばと思い……」
テーブルに小箱をそっと置く。
香が立った。甘く、深く、薔薇の香に包まれるように。
そして、皇帝の横に立ち手がその肩に触れようと近づいた――その瞬間だった。
「……近づくな」
短く、低い声。
リズの身体が、落雷を浴びたかのように強張る。
「……陛下?」
ようやく皇帝が目を上げた。
その瞳は、夜より冷たく、刀より鋭かった。
「お前。香の調合。甘味の濃さ――」
アシュレイは一語一語を噛み砕くように言った。
「媚薬と魔術の併用だな」
リズの顔色がさっと失せる。
「そんな……」
「甘く見すぎたな」
皇帝はゆっくりと立ち上がった。威圧することなく、ただ“動いただけ”なのに、空気が軋む。
「俺が“女”に飢えているとでも?」
その瞬間、背後の扉が音もなく開いた。
待機していた衛兵が、すでに命令を待っていたかのように動く。
「“選抜”から外せ。資格を失った」
「ま、待ってください……!私は……私はファーレン家の娘です!
この帝国に、皇族の血を継ぐ者としてふさわしい妃は私しか――!」
必死に口を開いたリズの声は震えていた。
「皇帝陛下の正妃が、無名の辺境令嬢などであっていいはずがありません……!」
視線の先で、誰も彼女を見ていない。
血統を誇って育った少女の声は、今やただの遠吠えだった。
「これは誤解ですわ。少しでも、陛下のお気に召すようにと……ほんの……ほんの気遣いを……!」
声がかすれた。
その場にいた誰もが――それが、“自滅”であることを理解していた。
「陛下、お願いです。ファーレン家の名に、泥を塗らないでください……!」
「泥を塗ったのはお前自身だ」
アシュレイはその一言で、リズの名も、家格も、存在も断ち切った。
「連れていけ」
騎士の手がリズの腕を掴む。彼女は一度だけ振り返った。
だが、その視線の先の皇帝の瞳には――もはや自分の姿など映っていなかった。
静かに、リズ・ファーレンは“王妃の資格”から脱落した。
何ひとつ手に入れられぬままに。




