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死を覚悟した悪女は、暴君の隣で嗤う  作者: 一ノ宮ことね
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第11話『帝印が沈黙した理由』


帝国の黒曜城。


回廊の一角で、エディスは膝をついていた。


長い石廊は冷たく静まり返り、誰もいないはずの空間に、彼女の呼吸だけが震えていた。

胸の奥が、焼けつくように痛む。

まるで心臓に火の粉を抱えているかのような感覚。

喉が熱く、酸素が喉奥を素通りしていく。

吸っても、吸っても、足りない。


世界の色がかすみ、縁取りが崩れていく。

それでも、彼女は声を上げなかった。

誰かを呼ぶことも、助けを乞うことも、しなかった。

彼女に疼く痛みも、血も、嘆きも――すべてが回帰した“代償”だった。


ハンカチを取り出し、震える指で口元を押さえる。

真っ白な布に、にじむ赤。

それを見ても、エディスの瞳は揺れなかった。


むしろ、そこに確かな“終わり”の足音を聞いて、ほのかに微笑すら浮かべた。


(──あと、どれだけ時間が残されているのだろうか)


その問いは、恐れではなく、計算だった。

“呪い”に蝕まれたこの身体。

前世から持ち越したその宿命が、確実に彼女を削っている。


だが。


「……まだ、始まったばかりよ」


声にならない呟きが、闇に消える。


この命は、自らが選び取った地獄への道――あの男の隣に立つため。太公家と、この帝国すべてに復讐するため。


だから、倒れるわけにはいかない。

血を吐いても、歩く。

息が止まりそうでも、微笑む。

そう決めた女の目が、静かに炎を灯した。



その後、エディスはひとり、書庫にいた。

バランに頼み、特別に開放してもらった。


灯火の揺らめきに照らされる背中。

棚から引き出された魔術書、政務報告、帝国の法令書が机上に山と積まれていた。

彼女はただ、静かに、黙々とページをめくっていく。


己の知識と論理、冷静な判断力と政策眼――それらを積み上げ、“この帝国に必要な女”としての輪郭を構築していく。

それが、彼女にとって唯一の“生命線”。


「誰かに愛されたい」「妻として選ばれたい」――そんな感情は、とっくに消し去った。


それよりも、ただ“使われること”。

駒として、道具として、“必要”とされること。

それが、この選抜で選ばれる唯一の糸だった。

 

不意に、気配が変わった。

背筋を走る冷たい空気。

微かな衣擦れの音とともに、彼女はゆるりと振り返る。


そこにいたのは――皇帝、アシュレイ・ヴェル・レゼルナ。


静かにエディスの横にたつと書類のひとつを手に取り、ざっと目を通す。


「……法令文の修正案か?」

「ええ。第三条に、先例との重複と語尾の曖昧表現がございます。運用上、混乱を招くかと」

事務的に、だが穏やかに返す声。

アシュレイは、無言で彼女を見た。

その双眸に浮かぶのは、疑問でも怒りでもない。

ただ、“なぜお前はそれをする?”という静かな眼差しだった。

 

「……自分のやっていることが、無意味だとは思わないのか?」

問いかけは唐突だった。

だが、エディスは微笑んだ。疲れの混じった、どこか諦めたような微笑。


「それを測るための期間なのでは?」

「答えになっていない」

「質問になっていないので」


短い、だが的確な応酬に、ふたりの間にわずかな沈黙が落ちる。

アシュレイはふと、机上の魔術理論書を閉じながら呟いた。


「……おまえ、面白いな。ここで殺されたいのか?」


言葉は冗談のように軽く、それでいて底知れぬ真意を孕んでいた。

エディスは瞬きもせず、答えた。


「皇帝に殺されるのであれば、光栄です」


そして、わずかに視線を上げ、静かに重ねる。

「ですが――“使えるうちに”お使いください。壊れた後は、煮るなり焼くなり、お好きにどうぞ」


(壊れた後?)


その声には恐怖も媚びもなかった。

ただ、“消耗品としての覚悟”だけがあった。

 

アシュレイは考えていた。

やがてエディスから視線を逸らし、手袋を外した。そして彼女に触れようとした…が、やはり手を引っ込めて、机の書類の束を指でトントンと揃えた。


(……俺は何をしているんだ)


我にかえったアシュレイは、書類を揃える手を一止めた。


机に残された、黒革の手袋。

だが彼は、それを取らずに踵を返す。

 

寸前で触れたくなくなったのだ。

さきほど、バランに触れた瞬間に走った激痛――あの焼き裂かれるような衝撃が、まだ皮膚の奥に残っていた。


エディスには触れられた。

だがそれが偶然かもしれないと、恐れてしまった。


「……やはり、まだ……」

低く呟きながら、アシュレイは静かに書庫を出ていく。

 

その背に、エディスはしばし黙って視線を落としていた。

けれど、やがてゆっくりと立ち上がる。

彼が置いていった手袋を手に取り、足音を忍ばせて廊下へと続く。

 

闇に沈んだ石廊。冷たい風がカーテンを揺らしていた。


「陛下」


エディスの声が、静かに響いた。

足を止めたアシュレイが、わずかに振り返る。

 

「……忘れ物です」


そう言って、彼女は一歩近づく。

アシュレイの右手。帝印の刻まれた手。

 

彼は、ほんのわずかに身を引いた。


だが――彼女の手が、その指に触れた瞬間。


あの痛みは、来なかった。

まるで熱を吸い取るような、柔らかな指先。

エディスは、静かに黒革の手袋を彼の手に、はめていった。

 

「……」


アシュレイの喉がかすかに動いた。

言葉が出ない。

これほど近くで、これほど静かに“触れられた”ことなど、かつてなかった。

彼の掌を覆った手袋の中――

その帝印は、ただ静かに、眠っていた。

 

はめ終えたエディスは、軽く一礼して微笑んだ。

 

「おやすみなさいませ、陛下」


それだけを言い、彼女は背を向けた。

風が扇子の飾りを揺らし、やがて彼女の姿は廊下の闇に溶けていった。

 

アシュレイは、言葉を失ったまま手を見下ろす。

はめられた手袋が、どこか“温かい”気がした。





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