第11話『帝印が沈黙した理由』
帝国の黒曜城。
回廊の一角で、エディスは膝をついていた。
長い石廊は冷たく静まり返り、誰もいないはずの空間に、彼女の呼吸だけが震えていた。
胸の奥が、焼けつくように痛む。
まるで心臓に火の粉を抱えているかのような感覚。
喉が熱く、酸素が喉奥を素通りしていく。
吸っても、吸っても、足りない。
世界の色がかすみ、縁取りが崩れていく。
それでも、彼女は声を上げなかった。
誰かを呼ぶことも、助けを乞うことも、しなかった。
彼女に疼く痛みも、血も、嘆きも――すべてが回帰した“代償”だった。
ハンカチを取り出し、震える指で口元を押さえる。
真っ白な布に、にじむ赤。
それを見ても、エディスの瞳は揺れなかった。
むしろ、そこに確かな“終わり”の足音を聞いて、ほのかに微笑すら浮かべた。
(──あと、どれだけ時間が残されているのだろうか)
その問いは、恐れではなく、計算だった。
“呪い”に蝕まれたこの身体。
前世から持ち越したその宿命が、確実に彼女を削っている。
だが。
「……まだ、始まったばかりよ」
声にならない呟きが、闇に消える。
この命は、自らが選び取った地獄への道――あの男の隣に立つため。太公家と、この帝国すべてに復讐するため。
だから、倒れるわけにはいかない。
血を吐いても、歩く。
息が止まりそうでも、微笑む。
そう決めた女の目が、静かに炎を灯した。
*
その後、エディスはひとり、書庫にいた。
バランに頼み、特別に開放してもらった。
灯火の揺らめきに照らされる背中。
棚から引き出された魔術書、政務報告、帝国の法令書が机上に山と積まれていた。
彼女はただ、静かに、黙々とページをめくっていく。
己の知識と論理、冷静な判断力と政策眼――それらを積み上げ、“この帝国に必要な女”としての輪郭を構築していく。
それが、彼女にとって唯一の“生命線”。
「誰かに愛されたい」「妻として選ばれたい」――そんな感情は、とっくに消し去った。
それよりも、ただ“使われること”。
駒として、道具として、“必要”とされること。
それが、この選抜で選ばれる唯一の糸だった。
不意に、気配が変わった。
背筋を走る冷たい空気。
微かな衣擦れの音とともに、彼女はゆるりと振り返る。
そこにいたのは――皇帝、アシュレイ・ヴェル・レゼルナ。
静かにエディスの横にたつと書類のひとつを手に取り、ざっと目を通す。
「……法令文の修正案か?」
「ええ。第三条に、先例との重複と語尾の曖昧表現がございます。運用上、混乱を招くかと」
事務的に、だが穏やかに返す声。
アシュレイは、無言で彼女を見た。
その双眸に浮かぶのは、疑問でも怒りでもない。
ただ、“なぜお前はそれをする?”という静かな眼差しだった。
「……自分のやっていることが、無意味だとは思わないのか?」
問いかけは唐突だった。
だが、エディスは微笑んだ。疲れの混じった、どこか諦めたような微笑。
「それを測るための期間なのでは?」
「答えになっていない」
「質問になっていないので」
短い、だが的確な応酬に、ふたりの間にわずかな沈黙が落ちる。
アシュレイはふと、机上の魔術理論書を閉じながら呟いた。
「……おまえ、面白いな。ここで殺されたいのか?」
言葉は冗談のように軽く、それでいて底知れぬ真意を孕んでいた。
エディスは瞬きもせず、答えた。
「皇帝に殺されるのであれば、光栄です」
そして、わずかに視線を上げ、静かに重ねる。
「ですが――“使えるうちに”お使いください。壊れた後は、煮るなり焼くなり、お好きにどうぞ」
(壊れた後?)
その声には恐怖も媚びもなかった。
ただ、“消耗品としての覚悟”だけがあった。
アシュレイは考えていた。
やがてエディスから視線を逸らし、手袋を外した。そして彼女に触れようとした…が、やはり手を引っ込めて、机の書類の束を指でトントンと揃えた。
(……俺は何をしているんだ)
我にかえったアシュレイは、書類を揃える手を一止めた。
机に残された、黒革の手袋。
だが彼は、それを取らずに踵を返す。
寸前で触れたくなくなったのだ。
さきほど、バランに触れた瞬間に走った激痛――あの焼き裂かれるような衝撃が、まだ皮膚の奥に残っていた。
エディスには触れられた。
だがそれが偶然かもしれないと、恐れてしまった。
「……やはり、まだ……」
低く呟きながら、アシュレイは静かに書庫を出ていく。
その背に、エディスはしばし黙って視線を落としていた。
けれど、やがてゆっくりと立ち上がる。
彼が置いていった手袋を手に取り、足音を忍ばせて廊下へと続く。
闇に沈んだ石廊。冷たい風がカーテンを揺らしていた。
「陛下」
エディスの声が、静かに響いた。
足を止めたアシュレイが、わずかに振り返る。
「……忘れ物です」
そう言って、彼女は一歩近づく。
アシュレイの右手。帝印の刻まれた手。
彼は、ほんのわずかに身を引いた。
だが――彼女の手が、その指に触れた瞬間。
あの痛みは、来なかった。
まるで熱を吸い取るような、柔らかな指先。
エディスは、静かに黒革の手袋を彼の手に、はめていった。
「……」
アシュレイの喉がかすかに動いた。
言葉が出ない。
これほど近くで、これほど静かに“触れられた”ことなど、かつてなかった。
彼の掌を覆った手袋の中――
その帝印は、ただ静かに、眠っていた。
はめ終えたエディスは、軽く一礼して微笑んだ。
「おやすみなさいませ、陛下」
それだけを言い、彼女は背を向けた。
風が扇子の飾りを揺らし、やがて彼女の姿は廊下の闇に溶けていった。
アシュレイは、言葉を失ったまま手を見下ろす。
はめられた手袋が、どこか“温かい”気がした。




