第10話『帝印に拒まれし王』
激しい交錯の余韻が場内に残るなか、重厚な足音が鳴った。
黒の軍装に身を包んだ男――皇帝直属の監察官、バランが一歩前へ出る。
「ここで、陛下より裁定が下された」
その一言に、場が静まり返る。
「本日の課題、および第二選抜試験はここで打ち切りとする」
候補者たちがざわめく。
だが、バランは構わずに続けた。
「該当試験において、皇帝陛下のご興味にかなった者が“ひとりだけ”いたと」
沈黙が落ちた。
その“ひとり”が誰であるか、もはや明らかだった。
――エディス・カリナ。
「また、対戦候補者カーラ・ブレイドン殿は自発的に辞退を表明された」
誰かが息を呑む。
視線の先では、カーラが無言で立っていた。
汗に濡れた額。わずかに揺れる肩。そして、すっと私を見るまっすぐな眼。
「悪くない戦いだった」
そう呟いてカーラは背を向けた。
彼女が口惜しさを滲ませていたのは、敗北のせいではない。
――“認めてしまった自分”に対して、だったのかもしれない。
「……ああいう女の前では、剣は意味をなさないわね」
そう言い残し、カーラは会場を後にした。
残された空気は、まるで裁判のあとのように重かった。
バランの通達とともに会場の空気が冷えた。
異様な沈黙のあと、誰かの控えめな笑い声が広がる。
「……まあ。試験を打ち切って“お気に入り”を決めるなんて、さすがレゼルナ流ですわね」
その声の主は、ノエル・グレイスだった。
白い扇子を口元にあてながら、まるで気絶しそうなほど繊細な仕草で首を傾げる。
「正妃を選ぶはずの場で、剣と魔術を交えるだなんて。武闘大会のつもりかしら?」
隣でリズ・ファーレンが冷たく鼻を鳴らす。
「“妃”の選抜のはずよ? 気品や教養ではなく、力の誇示で勝ち残るつもり?」
紫の瞳を細め、エディスを一瞥したその表情には、露骨な侮蔑が滲んでいた。
候補者のひとりが小声で呟く。
「まるで野蛮人の選別儀式みたい……」
貴族らしい優雅な言葉の裏に、刺すような嫉妬と恐怖が渦巻いていた。
ただひとり、選抜の枠を逸脱して暴君の興味を引いた女――エディス・カリナ。
その名を呼ぶ者はいなかったが、すべての視線が彼女に突き刺さっていた。
そして彼女は、ただ静かに立っていた。
笑うでも、誇るでもなく。
すでに“次”を見据えるように――。
*
帝都の風は、夜になるとよく嘘をつく。
香に混じって毒が運ばれ、風音に紛れて刃が忍び込む。
そしてそのすべてを笑顔で跳ね返す女が、今、選抜の中心にいた。
エディス・カリナ。
辺境の公爵家の出でありながら、皇妃候補として突如現れ、すでに三名の候補を脱落させた女。
そして誰よりも目立っていた。
黒曜の王座。
皇帝アシュレイ・ヴェル・レゼルナは、背凭れにもたれたまま、手元の薄い報告書を眺めていた。
侍従が差し出した銀盆の上には、今夜の選抜経過が簡潔に記されている。
「またひとり、消えたな」
その声には、怒りも驚きもなかった。あるのは、ただ静かな興味だけ。
この国で最も“感情を持たぬ”とされる男――その表情は変わらない。
けれど、視線がわずかに止まった。
エディス・カリナ。その名が載った行に、彼は目を留めていた。
「毒を盛られ、逆に脅して屈服させた?」
指がわずかに報告書の端をなぞる。
「そして……魔術戦で軍閥派の娘を黙らせた……か」
侍従たちは息を殺す。
この男が、誰かに“関心”を示すのは異例だった。
だが皇帝はふっと、喉の奥で笑うように息をもらした。
「……本当に面白い」
そう、呟いた。
その声音を聞いたバランは、薄く目を伏せる。
バランが一歩、玉座の横に歩み寄る。
片膝をつき、低く問うた。
「……陛下。ここまでで十分では?」
その声は穏やかで、しかし言葉の奥には意味が込められていた。
――これ以上、候補者が減れば“儀式”として体をなさなくなる。
――これ以上、エディス・カリナが目立てば、諸侯の反発も強まる。
だが、皇帝は応えない。
ただ、報告書から視線を離し、王座の奥の闇をじっと見つめる。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「最後まで、見てみたい」
その声は、かすれているのに、なぜか重く響いた。
「誰が生き残るのかではない。彼女が、どこまで“行き着く”のかを」
バランは目を伏せた。
この男にとって、“皇妃”とは王位の添え物ではない。
「仰せのままに」
そう言って、バランは立ち上がる。
だがその背に、皇帝がひと言だけ、ぽつりと付け加えた。
「……毒も、剣も、魔術も通じぬ女だ。退屈はしない」
アシュレイは確かに、微かに笑った。
「妃など、俺は求めていない」
そう言いながら、アシュレイは玉座の肘掛に指を添える。
「この選抜に名を連ねた貴族たちは、娘を“差し出す”ことで、何を示した?」
「……忠誠、です」
バランの声は低く、的確だった。
「そう。娘を差し出すということは、“帝に命運を預ける”という意思表示だ」
アシュレイの瞳は、獣のように鋭く光る。
「この国には、王座を狙う者が多すぎる。血筋、財力、派閥、軍事力……それぞれが“次の皇帝”を夢見て、牙を研いでいる」
「ですが、臣従を誓った者の娘を“妃候補”として扱えば、父たちは自らの立場を今は固定せざるを得ない」
「つまり、“娘を差し出す”ことで、奴らは“味方か、敵か”を自白するのだ」
アシュレイは立ち上がり、ゆっくりと王座の階段を降りていく。
「娘を出したとて、皇帝暗殺を狙っている家門も多い」
「……監察局には、諸侯の名簿も渡っております」
「ふるいは、始まっている。選抜という名の“戦争”は、外よりも中にある」
バランは深く頭を垂れた。
帳が深く垂れ込め、灯のほとんどが落とされていた。
バランが静かにまた一歩踏み出す。
「……とはいえ陛下。御世の安定をお望みならば、いずれは“世継ぎ”もお考えいただかねばなりますまい」
それは、あまりに慎重な苦言だった。
アシュレイの白く、血の気のない指先が、額をなぞる。
「……この“呪われた体”で、どうやって子を作れと言うのだ」
その声には怒気はなかった。
だが、深く、澱のように積もった諦念があった。
バランは言葉を継がなかった。ただ、静かに立ち尽くす。
「俺は呪いと契約して、王座を得た」
かすかな吐息とともに、アシュレイの左手の甲が光を放つ。
そこに刻まれていたのは――《帝印》と呼ばれる紅黒の紋章。
「この身は、“帝印”によって護られている。いや、縛られていると言ったほうが近い」
「……陛下」
「誰も抱けぬ。誰も、生み出せぬ」
その告白に、バランの目が静かに伏せられた。
「だから妃など、不要だと思っていた。子など、望むだけで“呪いが喜ぶ”」
それは、帝としての敗北宣言であり、人としての悲哀だった。
だが、その沈黙の中で――
「……ですが、エディス・カリナは……」
バランがついその名前を口に出した。
アシュレイの視線が、虚空の一点を見据える。
静かに目を伏せたバランが問う。
「エディス・カリナ……あの女が何者なのか」
「陛下……」
「俺が“子を残せぬ皇帝”であるならば――」
それは願いではなかった。祈りだった。
玉座に立つ暴君が、生涯ただ一度だけ、誰にも語らぬまま握りしめてきた、孤独の祈り。
皇帝アシュレイは、ひとつ息を吐いた。
「バラン。……手を、出せ」
その言葉に、長年の側近は眉一つ動かさなかった。
だが、胸の奥にざわつく何かがあった。
「……陛下、それは」
「構わん。手袋はしている。それに……エディスには、触れられた」
その一言は、呪われた帝にとって奇跡に等しい。
「ならば――もしかすると、もう呪いは……」
言いかけて、アシュレイは自らの右手を差し出した。
迷いはなかった。
バランもまた、静かに手のひらを差し出す。
そして、互いの指先が――触れた瞬間だった。
ビキッ、と雷が奔るような衝撃。
帝印が蒼白に輝き、アシュレイの腕を激痛が駆け上がる。
「……っ!」
胸の奥を焼き切るような激痛が襲った。
心臓を素手で握られたかのような圧迫。
視界が白く染まり、鼓膜の内側で“裂けるような叫び声”が響いた。
皮膚が焼けたように熱く、骨が軋み、血が暴れ出す。
指先の接触だけで、帝印が“他者との交信”を拒絶する。
「陛下!」
バランが慌てふためく。
「……く、くそ……」
歯を食いしばりながら、アシュレイは呻いた。
その身を縛る“帝の呪い”は、やはり消えてなどいなかった。
唯一の例外――エディス・カリナ。
あの女だけが、“触れても発動しなかった”だけだ。
バランは、沈黙のまま目を伏せた。
「……申し訳ありません」
「……構わん。わかっていたことだ」
その声は低く震え、しかし冷たく笑っていた。
「……だが、試してみたかった。もしかしたら、と思った」
痛みは、確信へと変わった。
――この呪われた皇帝は、たった一人の“例外”の女を見つけたのだ。




