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第1話『毒と裏切りの、その先へ』


 

乾いた風が、広場を吹き抜けた。

石畳の隙間をなぞるように、埃が舞い上がり、冷たさだけを残して過ぎていく。

処刑台の前に立ち並ぶ貴族たちは、誰一人として口を開こうとはしなかった。

飽き飽きした目を向けながら、まるで退屈な芝居の幕開けを待つ観客のように、均等な間隔を保って静止していた。

真上からは、晴天の陽が容赦なく照りつけている。だが、その空の青さはこの場には似つかわしくなかった。

 

「……これで、すべて片がつくわね」

 

義母グレイシャの声が、静寂を切り裂くように私に落ちた。

その言葉には微かな震えがあったが、それは哀しみでも迷いでもない。

心の奥底に巣食う恐怖に、やっと終止符が打たれるという――安堵の震えだった。


優雅で、穏やかで、完璧な貴族夫人――それが、彼女の“仮面”だった。

銀糸の髪は緩やかに巻かれ、白百合を模したブローチを胸元に飾っている。

薄い桃色のドレスは、過不足なく整えられ、ふとした仕草すら計算されていた。

笑みは柔らかく、言葉遣いは丁寧で、常に他人の“立場”を重んじる。

 

だが――その目の奥には、冷たい審判者の光があった。

「家の名誉のために」「秩序のために」


私は、縛りつけられたまま、グレイシャのいる方へと視線を向けた。

その目は、燃えさしの炭のように鈍く光りながら、彼女の形だけ美しい仮面を、静かに焼こうとしていた。


エディス・エルスレイン大公妃

かつて、その女の姿を、誰もが一度で忘れられなかった。


深いワインレッドの髪は、陽の光にかざすと黒に近く、夜の色を思わせる。

それが肩から背中にかけて、波のように緩やかに流れていた。

瞳は濃い紅――けれど、ただの赤ではない。

どこか黒曜石めいていて、“火ではなく血”を連想させる静かな赤。

肌は雪のように白く、陶磁器のように滑らかで、

その白さが、彼女の“異質さ”を際立たせていた。

 

左手の甲には、銀鎖の紋と赤い痣がうっすらと浮かび、

それを隠すようにレースの手袋を身に着けていることも多かった。

動きには無駄がなく、表情は静か。

言葉を選び、視線を計算し、笑みは必要なときにしか浮かばない。

 

“悪女”と噂されたその姿に、艶やかさはあれど、甘さはない。

彼女は、見る者に恐れと畏敬を同時に抱かせる――

まさに、冷たく燃える焔のような女だった。


だが今の姿は取り調べで何度も鞭打たれ、焼きごてを押し当てられた身体は、ところどころ皮膚が裂け、血と膿にまみれていた。

だが、私は唇を噛みしめることすらしなかった。ただ、黙して睨み続けていた。

 

グレイシャの隣に立つ義妹ティリアは、顔を伏せて泣いていた。

まるで氷の彫像のような少女だった。

プラチナブロンドの髪は、陽光を浴びると銀よりも冷たく輝き、

薄紫の瞳は何も映さないように伏せられている。

白いドレスには繊細な刺繍が施されていたが、どこか“着せられている”印象を拭えない。

動きは小さく、声は静かで、誰に対しても笑顔を見せる。


細やかな白レースのハンカチで涙を拭っているが、その頬には不自然なほどの紅がさしており、伏せた睫毛の下で、唇がほんのわずかに上がっていた。

高揚しているのがよくわかった。

 

隠しきれていない、悦びの影。

なんて、愚かで、無様な芝居。

 

「お姉さま……どうして、こうなってしまったの……?」

 

その声は、哀れみを装うにはあまりに甘すぎた。

絹で包んだ刃物のように、表面だけが柔らかくて、中身は毒に塗れている。

 

処刑の理由は、“夫の殺人未遂”。

夫である太公――エルマーに毒を盛ったという、国家的にも重罪とされる告発だった。

皇帝をも殺せる禁術が使える私がわざわざ毒などを使って殺人など笑止。

くだらない。

 

私の部屋から見つかった薬瓶。

文具箱の奥に押し込まれていた、見慣れぬ調合図。

どれも、あまりに分かりやすく“仕込まれて”いた。

 

私は何度も訴えた。これは偽造だ、と。

だが、証言と証拠がそろってしまえば、貴族会議など所詮は出来レース。

誰も、その向こうにある真実を知ろうとなどしなかった。

いや、それ以上に恐怖因子である私をなんとか始末したかったのだろう。

 

その夜、私は確かに部屋にはいなかった。

なのに、証人たちは口を揃えた。「確かに、彼女だった」と。

 

そして――夫・太公エルマー。

その男の姿は、完璧そのものだった。

銀糸の髪は整えられたまま一筋の乱れもなく、

氷を閉じ込めたような淡い青の瞳は、誰も真正面から見返せないほど冷ややかだった。

彼の纏う軍服は、帝国東部直属の大公家にのみ許された濃紺の礼装。

金線の刺繍と階級章が示すのは、その若さに似合わぬ絶対的な権力と統率。

 

その所作のすべてが、“秩序”と“効率”で磨き抜かれた機能美だった。

歩き方すら、まるで軍規通りの儀礼であるかのように正確で、

無駄な瞬き一つしない。

彼は笑わない。

ただ、“誤差”を許さない。


「おまえが、まさか……そんなことをするとはな」


あの男の顔は、芝居じみた驚きに満ちていた。

毒を盛られた者の台詞とは思えない、どこまでも冷静で、計算された声色。

それこそが、何よりの証拠だった。

 

私は、すべてを理解した。

ようやく、理解したのだ。

 

――私は、初めから、ひとりだったのだと。

 

政略結婚。

望んだのは私ではなく、“落ちぶれた実家”の維持だった。

私は正妻として、屋敷の管理を一手に引き受け、財を守り、領地を整えた。

従属する者を厳しく律し、時には恐怖で跪かせた。

そしてそのために禁術にまで手を出した。

それらすべては、太公家の繁栄のため。

けれど、私の忠義も努力も、彼らにとっては“都合が悪くなれば捨てていい”便利な道具だった。

 

彼らは迷いもせず、捨てたのだ。

わたしという駒を――。

 

「さようなら、お姉さま……」

 

ティリアが、小さく呟いた。

その唇は、もはや隠そうともしない。微笑が、明確に刻まれている。

 

ああ、これが本性。

これが、わたしを殺した顔。

 

私はその場にふさわしくないほど、静かに唇を歪めた。

 

その瞬間、群衆がどよめいた。

「悪女が死んだぞ!」

広場に響くざわめきのなかで、ただ一人、私は微笑みながら、静かに死を受け入れた。

 

     *

 

それは、死の直後のことだった。

 

意識は深い闇に沈み、身体の感覚がひとつずつ消えていく。

自分が自分でなくなっていくような、恐ろしい静寂。

 

「……復讐を望むか」

 

どこかで、声がした。

 

「汝、命を賭して呪いを背負う覚悟はあるか」

 

暗闇の中に、突如として光が差し込んだ。

視界が焼かれる。胸の奥、心臓のあたりに鋭い痛みが走る。

 

だが、私は躊躇わなかった。

 

「望むわ。また命を捨てることになろうとも」

 

その瞬間、胸が焼けるように熱くなる。

何かが、私の内に入り込んでくる感覚。鋭く、そして静かに。

 

「代償として、その命は削れる。それでも?」

 

「それでも」

 

まばゆい光がさらに私の全身を包んだ。

 

     *

 

目を開けたとき、そこは見慣れた寝室だった。

天蓋付きの寝台。

開け放たれた窓からは、柔らかい陽光と春の風が流れ込んでいる。

 

揺れるカーテンの向こうで、鳥がさえずっていた。

まるで何事もなかったかのように。

 

だが、私は知っている。

これは夢ではない。

 

鏡の中の私は、まだ若い。

火傷も、裂傷も、何ひとつない肌。――処刑の三ヶ月前の姿だ。

 

すべてが壊れる前。

裏切られる前。

 

私は、戻ってきた。

 

義母はまだ、淑女の規範を説き、

ティリアは「姉さま大好き」と笑い、

太公エルマーはまだ私に接触してきていない頃だ。

 

だがすべて知っている。

結末も、裏切りも。

 

だから、もう同じ轍は踏まない。

 

私は立ち上がり、窓の外を眺めた。

 

この命は、もう“死んだ命”だ。

 

ならば、もう一度――燃やしてやる。

 

私を裏切った者たちに復讐するために。



外を眺めているとふと、庭で侍女の一人が階段から転げ落ちそうになるのを目にした。

届くはずなどないのに、とっさに思わず手を伸ばした。

その瞬間、指先から“風”が走った。

「――っ!」

何かが空間を裂くように走り、侍女の身体を支えるように空気の帯が発生した。


「……助かった……!? え……?」


誰より驚いていたのは、私自身だった。

空気の揺らぎが、私の手から生まれていた。

(今のは……魔力? でも、これは……)


これは“正規の魔術”ではない。

もっと歪で、もっと古い――

かつて皇国で禁忌とされた“呪術”の系統。

そう、公国に敵対する勢力を倒すために、生前夫エルマーに頼まれ、取得した禁術だ。


私は鏡の前でひとり、手のひらを見つめて呟く。

「……わたしは、本当に一度“死んだ”のね」


鏡に映る自分の瞳が、わずかに揺れる。

「なら……この命、使い切ってやるわ。

――この手に宿った、禁術ごと」

その瞬間、鏡の奥で――

微かに紫の紋章が揺らめいた。




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