手紙
リリーは引き出しから紙とペンを取り出した。そして募る想いをインクに乗せて、口では言えない言葉を文字に起こしていく。
そして生真面目な活版印刷のような字をビッシリと書き上げたその紙は再び彼女の引き出しへと仕舞われていく。
もうこれで何枚目になるだろうか。
書き手であるリリーすらももうその数を把握してはいない。
分かるのはたった1つだけーー何枚書き上げたところで想い人にこの手紙を渡すことは出来ないということだけだ。
パンパンになりつつある引き出しを見下ろしては重苦しいため息を吐く日々。そんな日常にリリーは嫌気がさしていた。
リリーの想い人は彼女の婚約者、シャルル=ニコラスである。彼女はもう後2年も経てば、彼と正式に婚姻を結ぶこととなる。もちろん政略結婚である。とはいえ両家とも大きな思惑はなく、何代も前から交流があった家同士、歳の近い子どもを結婚させましょうということだった。
……というのはあくまで表向きの理由。
本来ならばいくら交流があったとしても、公爵家が伯爵家と縁を結ぶことはない。それにシャルルは由緒正しきニコラス公爵家の後継である。それも姫様をお迎えになるのでは? と噂が立つほどの地位にある男だ。そうでなくとも通常ならば同じ公爵家からご令嬢を迎えるところである。
だがそうしなかったのには理由がある。
リリーがデビュタントを果たした日に彼女の姿を見たシャルルが一目惚れをしたのである。そしてそれが運命の恋であると確信した彼は親に連日頼み込み、はたまた伯爵家であるリリーの両親にまで頭を下げてこの婚約を獲得したのである。
あまりの勢いにニコラス夫妻は根負け、リリーの両親に至っては恐れ多くて断ることができなかった、というのが事の真相である。
こうして無事にリリーの婚約者の座を獲得したシャルルだが、その溢れんばかりの愛情を日々リリーに注ぐことを欠かさなかった。
遠駆けやピクニック、はたまたリリーの好きそうな小物やアクセサリー、彼女の気を引くためにはなんだってした。そして社交の場ではその幸せオーラを隠す事なく、振りまき続けるのである。
そんなシャルルは社交界で異質な存在であった。そのため、彼の陰口を叩く者も多い。けれど心の中では誰もがシャルルと、彼の隣に立つリリーを羨ましがった。
シャルルはそのことを知っていたし、誰に陰口を叩かれようとも自分は幸せだった。
後は隣にいるリリーと、今後生まれて来てくれるだろう自らの子供たちが笑ってくれればそれ以上を望むことはないだろうと考えていた。
まだ結婚もしていないのに気が早すぎるのではないかと思うが、シャルルにとってはそれが当然の未来なのだ。
けれどリリーは違った。
彼女はなんとしても正式に婚姻を結ぶまでにシャルルとの婚約を解消してしまいたいと考えていた。
彼のことが嫌いなのではない。その逆である。
シャルルが好きだからこそ、身分の釣り合わない自分は身を引こうと考えているのだ。
シャルルに付いて方々の夜会やお茶会に顔を出すリリーはいつだって身分の違いを感じていた。
特に王族主催のパーティーは彼女の劣等感を刺激するには十分だった。
シャルルに用意してもらったドレスで、彼のエスコートを受けて参加したパーティーだったが、周りは公爵家ばかり。溢れ出る品というものが違った。それでもシャルルは絶え間なくリリーに褒めて、自信を付けさせてくれた。
けれど、ダメだった。
リリーはシャルルとお姫様がダンスを踊る姿に目を奪われてしまったのだ。
ああ、やはり彼は自分よりもずっと格上の人間なのだと、気づいてしまったのだ。
その日からリリーは毎日婚約の解消を願う手紙を書き続けるようになった。
綴るのはいかに自分がシャルルに相応しくないかである。
けれどペンを走らせるたびにシャルルへの思いが募っていくのだ。
いつだって笑いかけてくれるシャルルを愛しているのだという気持ちがーー。
そして一枚の手紙が完成すると、いつだってリリーの瞳からは涙がこぼれ落ちてしまう。そうすれば自ずと手元の手紙は涙で濡れる。
泣いた跡のついた手紙なんて渡せるはずがない。そんな理由があるからこそ、彼女は今日も引き出しに手紙をまた一枚、しまい込むことができる。
余った紙と使い終わったペン、そして届かぬ想いを引き出しにしまいこんで、リリーは今日も眠りにつくのだった。
だが手紙、引き出しにしまうことなくシャルルの手に渡れば、彼がたちまちリリーの劣等感など軽く吹き飛ばしてしまうことは間違いない。実際、近い将来この手紙は彼の目に触れることとなる。
だからこれはリリーがシャルルと本当に結ばれるまでの僅かな時間に行っていた習慣である。
そしてそれは後に2人の間でこう呼ばれることとなる。
『幸せへの手紙』ーーと。
リリーはまだ、それを見つけたシャルルが一枚一枚に返事を書くことなど知らずにいる。そしてその手紙には今までよりもずっと大きな愛情が乗せられていることも。
これはまだ彼らが真の幸せを掴む前の物語。
そして後にニコラス家では結婚記念日の新しい習慣が加わることとなった。
文通のための大量の紙と、それを書くためのペン、そしてお互いへの愛を余すところなく詰め込んで贈り合う習慣である。
毎日手紙を交わし合う夫婦にすれ違いが起きることは二度とない。