おっそいわよ、このバカ!
ものすごく傾斜があるわけでは無いけれど、まあまあな傾斜の坂道を下る。
タッタッタッという軽快なリズムを刻む足跡とは正反対に、椿はどんどんと重々しい気分になっていく。
この坂を下りきったところに、一際大きい屋敷がある。外観も内装もモダンな感じでとてもお洒落な建物だ。如何にもお金持ちが住んでいます!という雰囲気が全開のその屋敷こそが浮島 椿の家だ。
つまり、この坂を下るに従って必然的に私は自宅へと近付いているということになる。
それが、椿の今の心情の理由だった。
詰まる所、私は家に帰りたく無いのだ。出来ることなら一生近づきたく無いレベルで。
あぁ、帰りたくない。いっそ今日は帰らずに何処かに泊まろうか。
いや、だめだ。帰らなくっちゃ。でないとまた…
また、酷いことになるもの……。
葛藤しながらも坂道を下っていると、とうとう家に着いてしまった。意を決して椿は門と玄関の鍵を開けると、家の中へと入っていく。
「…ただいま。」
「チッ!おっそいわよ、このバカ!!!」
帰ってくるなり、おかえりも言わずに舌打ちを繰り出したこの人こそが私の実の母親だ。
母親は私が靴を脱いだのを見るとすぐに、私の腕を引っ掴んでドスドスと足音を大きな足音を立てながらリビングへと移動した。
乱暴に掴まれた自身の腕をぼんやりと、まるで他人事のように見つめながら椿は思った。
ーーあぁ、また始まった、と。
案の定母親はリビングに着くなり、椿に一枚の紙を突き出した。
「ねぇ、これは何、椿?」
それは、大学から毎学期送られてくる成績報告通知。
椿はもう、分かっている。母親が一体何に対して怒っているのかを。
「私、あんたに何回も言ったわよねぇ!何としてでも学年主席を、って!それなのに何なのよこれは!!!!ふざけんじゃないわよ、あんた!!」
そう。この母親は私が学年で首席の成績でないといつもこうなのだ。大学の中だけでの話ではなく、小学校でも、中学校でも、高校でも、そして予備校でもそうだった。
ーー何で主席じゃないのよ!
幼い頃から聞き慣れた、椿の大嫌いな言葉だ。
弁解にはなるが、浮島 椿は決して馬鹿ではない。寧ろかなり頭は良い。
予備校の模試での成績だって、大抵全国で100位以内だった。言わばエリートである。
でも、椿の母親はそれを褒めるなんてことは一切しなかった。
椿が受験に合格しようと、テストで良い成績を取ろうと、何かで表彰されようと、何より本当に母親の望み通り主席を取ろうと、母親はいつもこう言った。
「あんたはねぇ、お医者様になるのよ。お父様みたいなりっぱなお医者様にね。その為にはまず、自分を捨てなさい!!友達も何もかも、一切の情も捨てなさい!!!そんなものは捨てて、全て勉強に費やしなさい!」
こんな事を未だ物心もつかぬうちから言われ続けていて、よく自分は病まなかったなと我ながら感心してしまう。
椿の父親は、総合病院の院長で、医者だ。
普通そういう人は尊敬するに値するような人柄であることが多いのだが…椿は彼のことが大嫌いだった。
彼は確かに学生時代はとても優秀で皆んなから慕われていたらしい。だが、どうだろう。
今や彼は院長という権力を振りかざして、仕事は放り出すわ部下に自分の失敗を押し付けるやら仕事を押し付けるわ…やりたい放題だ。
そんな奴をどうやって尊敬しろと言うのか。
それだけではない。
椿の父親と母親は俗に言う、出来ちゃった婚だ。医者と言う安定した職についていた父親と例え予想外だったとは言え結婚出来た母親は、ラッキー!これで生涯安定ね!くらいにしか思っていなかったらしい。
しかし父親の方はそうはいかなかった。
まず、母親は元より父親にとってお遊びの相手でしかなかった。しかも母親は父親とは違いエリートでも何でもない、寧ろ知能的には馬鹿な方だ。たまったもんじゃなかっただろう。
愛のない、そして父親にとっては利益のない、結婚。
そこに生まれた私は父親にとっては只の邪魔者。
そして母親にとっては、父親をつなぎとめるための良い道具。
母親は何としてでも離婚は避けようと必死になった。
父親は子育てなんて出来ない。詰まり離婚すれば椿は必然的に母親に引き取られる。
ーーだったら、この子椿この子を父親にとって価値ある人材に育てよう。
そうして、母親の“英才教育”は始まった。
主席を取りなさい。いつでも品行方正であれ。放課後に寄り道なんてもってのほか。休み時間の友達との雑談も禁止。友達は作るな。信頼できる先生を作れ。とにかく、勉強。勉強、勉強勉強。
口で言われるだけならまだ良かった。しかし、母親は毎日のように椿に手を出した。それは、自分の思い通りにいかない娘に対する怒りと、父親にすてられるかもしれないという焦りからくる八つ当たり。
当然、椿の体には毎日何処かしらに痣やカサブタがある。
この事については、父親も既知の事実だ。いくらクズでも流石に家庭内暴力は止めてくれると父親に期待していた椿は、彼の放った言葉に絶望した。
「顔はやめろよ。外にバレたら大変だ。」
ああ、こんなだから私は嘘をつかないといけないんだ。高校生の時に出会った友達の中でも特に大切な、あの二人に。
出会った当初からずっと、嘘をついている。
放課後に一緒に遊べないのは、家族との時間を過ごすため。
腕に薄っすらと残っていた痣は椿が本棚にぶつけて出来たもの。
毎日、朝早くに家を出るのは、家族に会いなくないからじゃなくて、忙しい家族に迷惑をかけたくないから。
この私の嘘を、二人…御上 空と鈴堂 圭は少しも疑う事なく信じてくれるのだ。
それが本当に嬉しくて、申し訳なくて、切なくて。
そんな事を胸に留めながら、いつも私は嘘をついた。
本当は何度か真実を話そうと思ったことがある。でも、出来なかった。
言ってしまったらきっと二人は我が事のように考えてくれるだろう。でも、二人にはそんな事をして欲しくなかった。
私の、温度のない、色のない、殺風景だった人生を色鮮やかに染めてくれた二人には。
ただ真っ直ぐに美しい世界を見ていて欲しかったから。ずっと笑顔であって欲しかったから。
椿は大学の成績について未だ怒り狂い、殴ったり蹴ったりをしてくる母親を冷めた目で見つめていた。
……あれ?そう言えば…鈴くんにノート返してもらうの忘れてたなぁ。
何かの暗示だろうか。
ふと、椿はそんな場違いな事を思い出した。