おれの小説が一千万部売れることは絶対ない
そもそも出版社と編集の眼に止まって出版の運びにすらならないのだから、そのステージに立ってすらいない。だからこれは素面で吐く、白昼の寝言である。
「小説家になろう」を始めて半年にもみたないが、小説家になりたいと思って二十年以上が過ぎてしまった。「小説家になろう」を始めるまえとあとでは、世界が一変した。アナクロニズムの愚を冒して表現するなら、洋上に大型帆船を見つけた新大陸の先住民である。「ああ、クリストフ・コロンボだ。われわれは発見された」
作品を公開し、アクセスがつく。評価をもらう。ブックマークをもらう。感想をもらう。レヴューをもらう。お気に入り登録してもらう。それがあしたへのモチベーションへ繋がる。そして新作を公開、感想をもらえたりする。よい連鎖である。
とてもうれしい。こんなにうれしいことはない、と最終話のアムロ・レイのように言う。ひとりひとりからもらえるものの、ひとつひとつがうれしい。何度も何度も噛みしめる。数の多さではない。
もちろん、より多くのひとに読んでもらいたいという想いはある。感想100件とか200件とか300件とかを、もらったことはない。ポイントも1000とか2000とか3000とかを、もらったことはない。書籍化の話とかも、もらったことはない。とてもうらやましく想う。
同時に、うらやましくない。そういった300件の感想をもらっている感想欄を覗いてみると、大半はもらった感想を黙殺している。感想をもらえるのが当然と思っている節がある。要するに、自分を天才だと思いこんで天狗になっているのだ。初心を完全に忘れている。
私が文章の天才だったら、とっくのとうにデビューしているはずだ。だから天才ではない。二十年以上、孤独に文体を磨いてきた。もしも稚拙な時期に認められたりしていたら、どうだったか? そんな仮定は無意味であるが、私の文体はここまで磨かれなかったはずである。社会経験という遠まわりも、貴重な文章修養であった。いまだ遠まわりの途上で、ゴールは見えていないが。私はいまだ、発展途上である。
なぜ、すべての感想に「ありがとう」を言えないのか? 多忙? 多くのひとが仕事や学業や家庭をかかえて、余暇をつかってやっているのだ。多忙は言い訳にすらならない。天狗になった芸能人は、だいたい干されているだろう。スタッフや視聴者に嫌われるからだ。
AKB48を見るがいい。ファンを大事にするあまりとうとう、頭のおかしいファンの凶刃に傷つけられた。そこまで体を張っている。もらった300件の感想すべてに「ありがとうございます」と返すくらい、なんの労苦もない。仮に私が300件の感想をもらったとしたら、そのすべてに返すだろう。変な売りこみだとかは削除するだろうが。人間、ああはなりたくはない。感謝の気持ちを忘れたらおしまいだ。彼らはビジネスマンとして稚拙だし、人間としては失格だ。だからぜんぜん、うらやましくはない。末路は見えている。
もらった感想にたいして感想返しすることを、「なかよしごっこ」と揶揄するひともいる。なかよしごっこ? おおいにけっこう。だって気になるだろう? 自分が吐きだした表現について貴重な時間を割いて感想を書いてくれたひとが、どんなひとであるのか。どんなバックグラウンドがあって、どんな作品を書いているのか。その作品が自分好みでおもしろいものであったら、感想を書くのはあたりまえのことだ。プロの作家だって、なかよしごっこでやっているだろうに。なかよしごっこの、いったいなにがわるいのか?
こういう作品を書くことで、アクセスが集まりやすいことはわかっている。だから書く。だがこれは、曲学阿世ではない。書きたいものを書く。スタンスとスタイルはいっさい曲げない。これまでも、これからも。