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私の大好きな悪魔様   作者: 響かほり
冷たくて温かい世界
7/8




「なぁ、いい加減泣きやめよ」


 リビングの暖炉前に胡坐を掻いたヴァンは、自分の首に縋りついたまま泣き続ける人間に、ほとほと困り果てた。

 泣いている子供のあやし方など知らない悪魔は、とりあえず座り込んで唯一の腕を自由にして、彼女の頭を撫でてやるくらいしか出来ない。

 声をかけようにも、話しかけると余計に泣かれてしまったからだ。

 さんざん泣いて、ようやくすんすんと鼻を鳴らしながら静かになってはきたものの、自分にしがみつくのを止めようとはしないシズに、ヴァンは自分の尻尾を絡める。

 ぱちっと、暖炉の中の薪が時折弾ける音と、シズのすすり泣く声しか聞こえない空間が、ヴァンとても居心地が悪く感じた。


「ししょ…」


 ようやく、小さな声でそう話しかけてきた相手は、首に絡めていた腕の力を緩め抱擁を解いた。

 そして、泣きはらした真っ赤な眼と、涙でぐちゃぐちゃな顔でヴァンを見上げた。


「…お前、不細工になってるぞ」


 せっかく元が良いのに台無しだと思いつつ、仕方ないとばかりに、ヴァンはべろりと自分の舌でシズの顔を舐める。

 ざらざらした舌に顔を拭われたシズの方は、驚いた様に眼を大きく丸くした。


「シズ」


 滅多に呼ばれることのない名前で、静かに呼ばれ、シズは表情をこわばらせる。


「し、師匠は、私のこと、もう、要りませんかっ…嫌い、ですか」

「あのな。そんな訳ないだろ」


 やはりこの小さな生き物が誤解をしているのだとわかり、ヴァンは溜め息を漏らす。


「だって師匠……私の事を食べるために、太らせて大きくするために傍に置いているのに、私、子豚みたいに丸々太れないし、背も少ししか伸びないし、食べ応えがなさそうだから」

「そうだな、その体は食いでがない」

「でも、アンドラス様が、魂は食べ頃だって…人の肉より魂食べるって…なのに師匠、食べないって…」

「全く余計なこと吹き込みやがて、あいつは」


 喉の奥で唸ったヴァンは、不安げに自分を見る焦げ茶色の瞳に気付いて、そっと彼女の後ろ頭を撫でてやる。

 シズの身体に移ったネストの残り香りが、ヴァンの心に忌々しさを与え、必要以上に触れて自分の香りを沁み込ませていく。


「確かに、魂は食べ頃だ」

「おいしそうになってますか?」

「あぁ、傍にいるだけでも魔力を回復するくらいには極上品だ」


 良かったと破顔したシズの安堵の表情に、ヴァンの顔が渋くなる。


「だからって食わないぞ」


 途端にシズの眉が下がり、泣きそうな顔になる。


「どうしてですか?食べ頃ですよ?美味しくなってるんですよね?」


 本来ならば喜ぶべき所を、必死にそう尋ねて来る相手に、ヴァンの眉間のしわが更に深くなる。


「お前は、そんなに俺に食べられたいのか?」

「…だって師匠は、私のお願いを叶えてくれました。その上、ご飯も食べさせてくれるし、家にも住まわせてもらえるし、ふかふかの温かい寝床もくれました。だけど私は、師匠に何も返せるものがありません。だから、食べてもらうことでしかお礼出来ません」


 本当に、この娘は面白いなとヴァンは思う。

 この五年間、一度としてシズの心はぶれない。自分に食べられたい。その一心だ。


『師匠。私まだ食べごろになりませんか?』

『犬でもあるまいし、俺に骨をしゃぶる趣味はない。もっと、成長して肉を付けて食い応えがある様になれ』


 事あるごとに、シズから同じ問いをされては、同じ答えを返してきた。

 そもそも、非常食程度にはなるだろうと、身動き取れる程度に元気になったシズを、身の回りの事をさせながら養ってきた。だから、直ぐ食ってやろうと言う意志は、元からヴァンにはなかった。

 シズと暮らすようになって、傭兵の仕事で留守にする間、家が荒れることを心配する必要もないし、家の一切を任せる召使いがわりにもちょうど良かった。人の世界でも下働きをしていたシズは、ヴァンの身の回りの世話をすることにも直ぐ慣れたから、無駄に教える手間がほとんどなかったのが更に良い。

 寒さの苦手なヴァンを慮り、常に暖かな部屋と、体を冷やさない料理を準備している。

 彼女の作る料理は自分好みで、毎回、出て来る食事が楽しみになっていた。

 小さな体で文句も言わずに家事をこなす彼女のちょこまかとした動きを、仕事のない時に寛ぎながら目で追って観察するのは意外と面白い。背が低過ぎて高い所のものに手が届かず、台の上に乗って一生懸命に背伸びをしてとるとする光景は、落ちはしないかとハラハラさせられるが。

 そしてシズは良く喋る。他愛もない日常の事がほとんどだが、コロコロと良く変わる表情は、見ていて飽きない。成長するにつれ、どんどんしっかり者になって行くシズが頼もしいとさえ感じるが、小言も増えた。お風呂が最たる小言だ。

 ヴァンは風呂が嫌いだが、消臭の薬草を練った石鹸の香りが好きなシズが、入浴後に獣の形で寛ぐ自分の毛並みに身を委ねてぎゅっと抱きついてくるのは温かくて好きだ。

 そんな彼女とのやり取りは、時々、煩く煩わしくなるほど賑やかで、仕事で傍を離れると静かすぎて物足りないと思うほどには楽しんでいる。

 従僕であるにも拘らず、ご主人様と呼ばれるのが気に入らなくなり、剣術を教えることを口実に師匠と呼ばせるくらいには。

 シズに自分の名を呼ばせようとも下が、彼女がヴァンの名前を呼ぶことは、この世界では非礼になる。基本が家名と役職付けの呼び方が主流だからだ。上位が下位の者を呼ぶ時か、余程親密な関係…家族や盟友の様な関係になければさせられない。従僕が主の名を呼ぶのはもっての他だ。

 シズは気付いていないが、師匠呼びは、ヴァンなりの精一杯の情の示し方だ。


「お前、律義だな。これまでの下働きで、チャラとか言っても良いんだぞ?」

「全然、チャラになってません!私の命と身体だけじゃ、ちっとも足りません…足りなくて、どう返したら良いのか困ってます」


 悪魔垂涎の魂の持主は、困った顔で俯く。

 今でさえ、「さあ、食べて」と言わんばかりの、食欲をそそる豊潤な果物のような甘美な臭いを、シズは放っているというのに。

 困っているのはヴァンの方だ。

 思いのほか、シズとの生活が気に入ってしまったヴァンは、これを手放したくない。

 シズも美味しそうに育って、シズを食べればヴァンの魔力も増幅するだろうが、彼女を殺してしまえば、この生活はなくなってしまう。

 彼女を失ってしまうより、食べない苦労の方がましだと思うほど重度にシズが気に入っている。


「だから…食べてくれないと困ります。途中で、要らないって捨てられたら、この恩を返せなくなっちゃいます」

「何度も言うが、俺はお前を食うつもりはないし、お前を手放すつもりもないぞ」

「うぅ」

「だから、どうして泣く」


 途端にポロポロと涙を零したシズの顔を、ヴァンがまた舐める。

 涙に混じった魂から零れる生命のかけらは、ヴァンが想像したよりも濃厚で甘く、それでいて若葉の香りのように爽やかで、さらりとした後味だけをのこす。


「俺は物理的に、お前を食わないと言っただけだ」


 憂う心が、シズの魂の芳香を一層強くする。

 抗いがたい強烈な食欲をそそる香りに、ヴァンは理性を総動員して堪える。

シズの魂を狙う悪魔たちを退け大事に守っているのに、こうして傍に居ればシズを喰らいたい衝動を抱いてしまう。

 拮抗する思いは、いつか本能が勝る。

 それでもヴァンは、シズを殺さないと随分前から決めていたのだ。


「よく、わからない、です」

「お前の顔を舐めるのと一緒だ」


 零れる涙を舌で掬いとりながら、ヴァンはそう告げた。


「お前の魂から過剰に溢れてくる残滓を含んだものを、時々、こうして舐めるように少し摂取すれば十分だ。お前の魂は極上品だからな。涙程度でも十分満たされる」

「…涙、美味しいんですか」

「あぁ」

「じゃあ、師匠の為に、いっぱい泣きます」

「馬鹿、泣くな。お前の泣き顔は見るに堪えん」


 シズが泣いていると、ヴァンの心はざわざわするのだ。どうして良いかも分からないし、シズの泣き顔は見たくない。

 笑った顔の方が良い。その方がずっと可愛らしく、シズには似合う。

 そうは思っても、何故だかヴァンはそう言葉で表現できない。言葉にしようとすると、羞恥心が台風の雲のように渦を巻いて心が荒れるのだ。


「ごめんなさい…不細工で」

「お前は泣くより笑え。その方がましだ」

「でも、涙がないと…」

「つまみ食いする方法は、いくらでもある」

「つまみ食い?」

「魂そのものを喰らう訳じゃない。だから、つまみ食いだろう」

「他には、どうやって食べるんですか?痛いですか?」

「痛くはない。やり方は、追々教える」

「じゃあ私、役に立てますか?いらなくない?」


 期待を込めてそう問うシズの目は必死で、ヴァンはたまらないと思う。

 ヴァンは片手をシズの頬に伸ばした。まだ弾力性には乏しい頬を指先で優しく触れてから、彼女のうっすら濡れた頬を大事に包み込む。

 こんなに小さく華奢な人間を大切に想うなど、己が悪魔として異端過ぎることはヴァンとて十分承知している。

 けれど、この離れがたく愛おしい思いは、理屈や常識で覆ることなどない。


「お前が死んだら、誰が俺の世話をするんだ?俺は、すすんで風呂入らないぞ?調理も面倒だから、毎日生肉しか食わないぞ?掃除も嫌いだ。きっと家中が埃まみれになるぞ、いいのか?」

「!それは駄目です。死んでも死にきれません」

「なら、ちゃんと寿命全うするまで、俺の傍にいて俺の世話をして腹を満たせ」

「はい」

「それから、お前は嫁にはやれん。諦めろ」

「はい、どこにも行きません!師匠の傍が良いです!」


 満面の笑みで力強くそう宣言したシズに、ヴァンは慈しみの眼差しを向けて小さく笑う。

 滅多に見ることのない主の微笑みを見て、シズは胸がドキドキして、照れくさそうに頬を染める。

 ヴァンはそんなシズの額に口づけてから、シズを抱きしめる。


「それから、丸々太らなくて良い。片腕でお前を抱き上げられる範囲で大きくなれ」


 頑丈なたくましい腕に抱きあげられ、ヴァンと同じ目の高さになれるそれが大好きなシズは、二つ返事で了解し、シズもヴァンの大きな身体にぎゅっと抱きつく。


「師匠、大好きです!いっぱいいっぱい長生きします!だから、ずっとずっと、傍に置いてください!」


 その一言にシズの魂がまた一層強く、甘く美味しそうな香りを放って、彼女が幸せだとヴァンに伝えた。

 優しく抱きしめているヴァンが、実は苦々しい顔をして、香りに刺激され湧き上がる食欲を、頑強な理性を総動員して抑えつけていたことを、幸せそうな顔で撫でられているシズは知らない。






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