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「わぁ、これは美味そうだ」
入浴を終えて戻って来たヴァンとネストを迎えたのは、温かい食事だった。
シズ手製の暴れ牛と根菜の煮込みスープに、雷鳥の肉で作ったハムのサラダに、ホロホロ山羊のチーズ、香草を練ったふかふかパンと、この地域特産のアルコールの強い蒸留酒。
どれもヴァンの好物だったが、それを見て声を上げたのはネストの方だった。
当の家の主は、むすっとしたまま無言で席に座る。が、尻尾は心なしか嬉しそうに揺れているので、準備した料理はお気に召している様だった。
「アンドラス様のお口にあえば良いのですが」
「合わなければ食わなければ良いだけだ」
「…師匠、またそんな事を」
お風呂がよほど気に入らなかったのか、戻ったヴァンは更に不機嫌で、苛々を隠そうともしない。
ネストが腰をかけたのを確認して、さっさと一人、食事をはじめる。
「いいよ、いいよ。ヴァンは単に、君と二人っきりの時間を邪魔した僕が気に入らないだけだから」
「ふざけたことを言うと、その顔の羽根むしり取るぞ」
「野蛮だねぇ。そんな事言うと、シズちゃんに嫌われるよ?ほら、笑ってごらん」
「うるせぇ。お前みたいにヘラヘラ笑えるか」
「ご機嫌斜めにしちゃってごめんね、シズちゃん」
フォローを入れるネストに、シズは曖昧に笑んだ。
「いえ。いつも討伐帰りのお風呂後はこんな感じですから」
「そうなの?こんな至れり尽くせりで、健気に待っている君に酷いやつだねー」
片腕しかないヴァンの為に、食事は一応、スプーンやフォークだけで食べられる様に工夫はされている。それゆえに、ヴァンも食事マナーなど気にせず、豪快な食べ方をする。豪快だけど、綺麗という不思議な所作は、彼の元の育ちが良いのが見てとれる。
対して、ニコニコしながらネストはナイフとフォークを使い、食事をはじめる。その様はとても上品で、ふと、ネストが侯爵家の人間であることをシズは思い出す。シズの生きた世界で言う、公家に近くとても偉い人だと教えられていたシズは、彼の口に食事が合うか、いつも気が気ではない。
「うん。すごく美味しいよ。この煮込み肉、口の中でほどけて溶けていくね。これ、何の肉?」
「えっと…渡り暴れ牛です」
シズの声は思わず小さくなる。
それは、食材が巷では屑肉といわれる種に属すものだからだ。
「本当に?渡り暴れ牛って、独特の強い臭みがあって、筋張った硬い肉だから生でも焼いても食料にならないって代物だろう?」
「はい。でも、何種類かの香草とぶどう酒にお肉を鍋につけこみながら、暖炉の炎で数日煮込むととろとろになって、肉のうまみも出てきます」
「そうなの?これだけ美味くなるなら、今度、うちの邸の者に作らせてみよう。後で、レシピ教えてね」
「はい」
とりあえず、相手のお気に召した様で、シズは安堵の笑みを浮かべる。
「こっちのハムもジューシーだし、チーズも濃厚でもっちりしてる。このふかふかのパンは初めて食べたよ。食材買って運ぶのも、この辺鄙な家だと大変でしょう?」
「買うのは穀物と調味料くらいで、肉は師匠が狩りで取って来てくれます。去年から家畜を飼って、卵や乳もとれるようになったので、保存食用に加工しているんです」
「ってことは、手作り?」
「はい。去年から師匠と一緒に作っています。この地域は雪のせいで穀物は殆どれませんし、物流が乏しいので、以前から食材は私と師匠で分担して狩っていたんです。でも、冬場は獲物が少ないので、保存食を出来るだけ作ろうと言うことに。そうすれば、師匠の買い出しの負担も少なくなりますから。魚や野菜や果物も保存用に乾燥させたり、燻製とか、シロップ漬けとか、オイル漬けにしたりして貯蔵庫に置いてます」
「へぇ……この面倒くさがりが、良くそんなマメな事を」
身の回りの事も必要最低限しかしない、討伐(仕事)の時の携帯食も買うばかりの男が、よもや、自家製の食料を作るとはどんな代わり様だと、マジマジと親友を見る。
以前なら、金で事足りる物は全て買って済ませていた友が、今回は帰る前に防寒具と旅の間の食料の確保を兼ねて狩りをしていたことを、ネストは思い出す。
別に既製品を買った所で、得た報酬も大して減りはしないし、狩って捌く面倒もないにも関わらずだ。
ヴァンらしくない行動だと思っていたが、どうやらそれがシズと一緒に暮らしている影響だと分かり、ネストの視線が意味ありげな物に変わる。
その好奇の眼差しに、家の主は一瞥もくれず知らぬ顔をした。
「おかわり」
空いた皿をシズに差し出し、ヴァンは煮込みスープを催促する。
シズはそれを受け取り、新しいスープを注いで主の前に差し出す。
二人の時は一緒に食べるが、客人が居る時、シズはヴァンとは一緒には食べない。
身分の違うものが同じ席に座る事がいけない事だと、オセ家の邸にいた頃にシズにつけられた家庭教師が彼女にこの世界の理と共に教えた。シズがいた世界でもそうだった。
ただ、二人でいるときは周囲の目がないことと、準備や片付けの手間を省くために共に食べろと言うのが、ヴァンの命令だった。
一応、ヴァンは貴族階級、それもかなり上位の支配階級に位置する一族の出で、シズはヴァンの従僕という形で魂に契約をしている。
ヴァンは傭兵という職を得ているからか、普段は貴族社会の細かい仕来りや慣習を気にもせず庶民的な行動が多いが、人目がある時はそれなりの行動をとる。
出奔した身とはいえ、ヴァンの絡む行動でオセ家の名に傷がつくと色々と本家やその周囲が煩くなるのが面倒であるのと、非常識な行動への攻撃の矛先がシズに剥くと始末が面倒だからだ。
ヴァンは、面倒事が好きではない。
主が従僕と同じ仕事をするなど言語道断であるにも拘らず、シズが漏らしてしまったので、台無しだが。
「どういう心境の変化だい?ヴァン」
「ここじゃ、このチビと俺が協力なければ生活できない。必要にかられてだ」
「ふーん。でも、これだけできれば、シズちゃんもいつでもお嫁にいけるね」
ネストの言葉に、ヴァンが口に含んだ酒を盛大に噴き出した。
「よ、嫁だと!?このオチビが?冗談だろ」
「師匠、行儀が悪いですよ」
シズがタオルを差し出すと、ヴァンがそれをひったくり、口元を拭う。
「だってシズちゃん、僕達とは違って人間だろ?」
そう。シズはヴァンやネストとは違い、獣性をもたないただの人間だ。
全身を保護する体毛も少なく、牙も嘴も、鋭い爪もない。つるっとした肌を持つ生き物だ。
ヴァンやネストは、人の世界では悪魔などと呼ばれる存在で、シズは悪魔への生贄として捧げられた結果、この世界に迷い込んだ異端なのだ。
その生贄を、育てているイカレ頭の悪魔がヴァンだ。
「人の年なら、そろそろ、お嫁にいけるんじゃないのか?」
御世辞にも発育が良いとは言えないシズを、ヴァンが訝しげに見る。
こればかりは、シズが生贄となる前に生きてきた生活環境が劣悪過ぎて、ヴァンと出会った当時、一〇歳であったにもかかわらず、シズは七歳ほどの発育しかしていなかった。
その為か、シズが五年をかけて成長を遂げたと言っても、今も見た目が一〇才程度でしかない。
「…お前、幾つになる」
「年が明けたら一六です」
「はぁ!?マジでか」
「マジです。というか、忘れていたんですか」
「そんなものは、お前が覚えていれば良いだろ」
面倒くさそうに頭を掻いたヴァンを、シズは胡乱な眼で見る。
忘れると言うより、細かいことを覚えるのが面倒くさくて覚えないのが正しいのだが、この師匠にして主である男は、自分の事さえ覚えていない事が多々ある。
「自分の年は覚えているんですか?」
「あのなぁ、俺だってそのくらい覚えてるに……ん?あ、あれ、俺幾つだったっけな?四〇〇くらいまでは覚えてんだけどなぁ」
「四五四歳。君、僕より二十年若いだろ」
「あぁ、そうだったな」
「……おじいちゃん」
「おいこら、誰がおじいちゃんだ、このクソ餓鬼。俺らは四〇〇で成人だぞ」
弟子の棘のある一言に、左側に居るシズに向き直ったヴァンは、右腕を伸ばしてシズの頭を鷲掴みにする。
「お兄さんだ、コラ」
「地味に痛いですっ、師匠」
「だいたいな、お前みたいなちんちくりんの鶏ガラ、嫁どころか出汁にもならねえ。もうちょっと背を伸ばして、肉付けて、尻と胸つけてからじゃねえと、食い応えがない。どれだけ経費かかってると思ってんだ、さっさと背を伸ばして太れ」
そう。ヴァンは別に慈善事業でシズを養っているのではない。
シズはヴァンと出会った時、あまりにもガリガリに痩せこけて傷だらけだったので、食い応えがないから太らせてから食うと、ヴァンが今まで殺さずに養ってくれているのだ。
「そんな事言ったって、たくさん食べても、全然大きくなれないんですっ!」
例え食べられてしまうとしても、シズは実年齢相応の姿に成長したいと思っていた。
食べ応えのある身体になってヴァンに食べてもらう事が、虐げられる事しか知らなかったシズにとって、普通の生活を与えてくれたヴァンへの恩返しだとずっと考えているのに、モリモリと食事を食べても身体は思う様に成長しないのだ。
シズは頭を軽く掴むヴァンの手を振り払い、エプロンを握る。
「私だって……早く食べ応えのある身体になりたいです。でも、師匠の言う、おいしそうなムチムチになれないんだから、仕方ないじゃないですかっ」
「へー。ヴァンは、シズちゃんがムチムチボディーになったら頂くつもりだったんだー。あーやーらしぃ」
「ネス、何かその言い方は語弊があるぞ」
「どの辺が?討伐の後、いつも血の昂りを抑えるために肉感的なお嬢さん達を一度に何匹も食い漁るヴァン君、教えてください」
「おま、確信犯でシズの教育に悪いこと言ってんじゃねえ!」
にやにやと梟面で笑いながら自分を口撃するネストに、ヴァンはうろたえる。
「お姉さん…たくさん食べちゃったの?私が太らないから、他の人食べちゃったの?」
「ばっ、仕方ないだろ!生理現象だっ!」
色事方面に疎いシズはネストの言葉を鵜呑みにして、食事的な意味で他の女性を食べているのだと勘違いしたシズは、真っ青な顔でヴァンを見つめる。
その澄んだ鳶色の瞳が、心なしか涙でうるんでいる事に、ヴァンが更に動揺する。
何故だかシズの表情に、ありもしない罪悪感がヴァンの胸をグサグサと突きさす。
「な、なんで泣きそうな顔してんだよ、お前は」
「私を食べるまで、他の生きた肉は踊り食いしないって言ったのにぃーっ!師匠の浮気者っ!」
「なっ!誤解だ、シズ!しかもその言葉の使い方、間違ってるぞ!」
ヴァンが慌てて腰を浮かせて否定をするも、シズはそのまま駆けだして、自分の部屋に逃げて行ってしまった。