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一寸先すら見えぬ猛吹雪の夜。
冬季はほぼ雪に覆われるこの村は、この様な吹雪は決して珍しくはない。
ただ、出歩くものが皆無であるはずのこの時間に、シズは戻ってくるであろう寒がりの主の為に、暖炉に火をくべ、湯を沸かし、家の主の好物である肉料理を準備する。
程良く煮込み肉が軟らかく煮えた頃、家の扉が大きな音を立てて開いた。
シズはパタパタと足音をさせて玄関まで駆けていく。
「おかえりなさい、師匠!」
「あぁ」
低い声で返事をした長身の相手は、自身に纏わりついた雪を掃う。頭からすっぽりとかぶった灰色の熊の毛皮と雪にまみれたせいで、さながらこの地帯に生息する雪原の巨大な怪物イエティの縮小版ようだった。
「あれ…毛皮、行きと違いませんか?」
「隣にあるだろ」
指さす彼の隣には、同じような身丈の男が気配を殺して立っており、主が行きに着用していた純白の毛皮を纏っている。そこでようやく、シズは主が客人を伴っていたことに気付く。
「あ、お客様ですか?申し訳ありません」
「こんばんは」
そう言ってフードを外せば、シズも見知った漆黒の梟顔が現れる。頭の先から首元まで包む薄茶色の羽根には、雪がびっしりと付いて、白梟になってしまっているのは御愛嬌だ。
「アンドラス様!お久しぶりです」
懐かしい顔に、シズは破顔して挨拶する。
ネスト=アンドラス。梟の顔に人の身体、背中に大きな翼をもつ彼と最初に会ったのは、三年程前。シズがまだ十二の頃だ。それ以降、定期的に主の元を訪れて来る、主の唯一の客人でもある。
「おや、僕の事、覚えていてくれてくれたのかい」
「もちろん、覚えていますよ。師匠の大事なお友達ですから!」
「君はまた背が伸びたかい?大きくなるのが早いね。もう、立派なお嬢さんだ」
目を細めて嬉しそうに梟顔がそう言葉を紡ぐと、シズは恥ずかしそうに小さく笑った。
小柄で幼い容姿の自分をそのように言われると、彼女は嬉しいけれど照れくさく感じてしまう。
「そう言って下さるのはアンドラス様だけです。師匠なんて、ちびっこ鶏ガラって言うんですよ」
「おやおや。こんなに可愛らしい娘にそんな気の利かない事をいうのかい?相変わらず、無粋だねこいつは」
隣に居たシズの主であり師である男は、脱いだ毛皮の衣をシズに投げる。
「わぷっ、おもっ、くっさっ!」
非常に新しい生臭さと獣臭さを醸したそれは、おそらく、帰りに狩って仕留めたものだろう。でなければこれほど強い匂いを残さない。中身の肉は、ここに来る間の食料として彼らのお腹の中に消えたことは、想像に難くなかった。
勢い良く投げ渡されたコートを頭から被ったシズは、ごそごそとコートを下ろして腕にまとめる。
「もう、乱暴に渡さないで下さいよ」
相手を見やれば、金色の毛に黒の斑点模様の豹の顔が、しかめっ面をしてシズを見ている。
こちらも白い斑点のように、雪が顔の毛にくっついてる。
豹顔の主は背中に背負っていた大きな袋を、たった一つしかない腕を滑らせて下ろすと、シズの方へ軽く足で押してよこす。
「地下の食糧庫にしまっておけ。お前に頼まれた調味料と、その毛皮の中身の残り肉だ」
「はい、師匠。ありがとうございます。わーい、熊肉だ~」
熊肉は栄養が豊富で重要な栄養源だが、狩るのが大変なのでなかなか食べられない貴重品だ。
食べ盛り、成長盛りのシズにはとてもうれしいお土産なので、ニコニコとしながら料理を考える。
「串焼きも香ばしくて良いし、今の時期ならスープや煮込みも温まるなぁ。師匠は何で食べたいですか?」
「生以外」
「…食べ飽きたんですね、生」
「此処に来るまで、本当に酷い食生活だったよ。雪だから肉も傷みにくいし、調理するのも前後の片付けも面倒だからって、バリバリ生で食べたの。ワイルド過ぎるよね、ヴァンってば」
「調理も出来ねえ、調理済みの料理しか食べられない坊ちゃんのお前よりましだ」
梟頭の友人へ悪態を吐く彼、ヴァン=オセは、シズの主だ。頭以外は人間の様な身体の作りをしているけれど、皮膚は人のそれではない。防寒用の衣服の上に軽装の鎧を纏ってはいるが、その絞り込まれた筋肉質な全身を黄金に黒の斑点模様の毛が覆っているのを、シズは知っている。
毛皮を脱いでも毛皮……とは、シズも分かっていても言わない。学習した。
過去に、自前の毛皮の上に毛皮を何故着るのかと尋ねて、彼から拳骨を食らった。自前の毛皮を着ていようが、寒いものは寒い。お前だって、服の上にコート着るだろうが。と、ヴァンは至極もっともな事を言ってぷりぷり怒った。
そもそも、ヴァン自身が極度の寒がりで普段は雪の日は絶対に出歩かない。獣の形になって、暖炉前の床に敷かれた保温性の高い氷熊の毛皮の上に寝そべって暖を取るのが大好きなのだ。
その癖、比較的過ごしやすい夏季ではなく、極寒の冬季にしか仕事に出掛けない。
わざわざ、深い雪にまみれて寒い中を移動する変わりものだ。そして、討伐の仕事から戻ってくるときは、嵐だろうが大寒波だろうが平気で外を歩く。
遭難の危険があるので、穏やかな天候の時に活動すればよいのだが、シズがそう進言すると、ヴァンは余計不機嫌になって、拳骨で頭をグリグリされる。
見た目はとても優美な獣人の姿なのに、ヴァンの性格はとても粗雑で気が短いのだ。
「ところで、御土産って調味料だったの?君は、本当に色気がないなぁ」
そう言いながら、ネストは懐から小さな花のガラス細工を施した髪留め取り出す。
「シズちゃん。僕から御土産ね。ヴァンが戻るまで、ちゃんと一人で御留守番出来たご褒美」
ネストはシズに近付いて、前髪をそっと撫でてから髪飾りで髪を留めた。
とても紳士的で、女性の扱いにとても慣れた動きは、シズがアクションを起こす前にあっという間に終わってしまう。
「うん。とっても似合う。可愛いよ」
働きやすさ重視の地味な色目のワンピースに、後ろで一つに髪をまとめただけのシズは、洒落っ気のないものしか選んでくれない主を不満には思わないけれど、年頃の女の子らしく、可愛いものを貰えたり褒めてもらえればやっぱり嬉しくなる。
「あ、ありがとうございます。嬉しいです。大事にします」
嬉しさに頬を上気させてニコニコと笑ったシズに、ネストは満足そうに頷く。
「ごめんね、ヴァンの気が利かなくて」
「そ、そんなことありません。とても良くして頂いています」
シズは慌てて、首を大きく横に振る。あまりの慌て様に、シズの細い首がもげてしまいそうだと、ネストは思った。
「今度来るときは、可愛いワンピースにしようかな?せっかくだから、靴と帽子も揃えでほしいね。何着か用意しておくよ」
「い、いえ。そんな…私には勿体ないです。アンドラス様の良い人に贈って差し上げて下さい」
「おや。僕じゃ駄目なのかな?僕が見繕った洋服を着た可愛い君と、街へお出掛けしたいと思ったのだけど」
それを面白くなさそうに見ていたヴァンが、ネストの足に軽く蹴りを入れる。
「お前、何時からペドフィリアになったんだ、変態が。それからチビ、無駄口動かすなら、早く食事の用意をしろ。腹減った。それと酒だ」
「駄目です」
「あぁ?」
即答で拒否をした少女を、長身の男が見下ろしながら睨む。大の男も竦み上がるヴァンの一睨みであっても、長く暮らすシズには効かない。
「その前に、お風呂です。今度は何日、お風呂入らなかったんですか?臭いますよ」
「お前の抱えてる毛皮のせいだろ」
「それだけじゃありません。師匠の体臭くらい、ちゃんと嗅ぎ分けられます」
真新しい毛皮の匂いになどシズは誤魔化されない。豹の御仁も手入れをしている普段に比べて、格段に獣臭が強くなっている。
ヴァンはうっと、言葉に詰まった。
「たしか、討伐終わって直ぐ入って以降だから……一週間ぶりかな、ヴァン?」
ネストのシズの為の援護射撃に、ヴァンとシズの眉尻がほぼ同時にピクリと動く。お互い別の意味で。
「バラすなお前はっ。仕事だったんだから仕方ないだろ。というか、飯」
子供の様に言い訳をする主を、シズはじっとりと見、無言で浴室の方向を示す。
「……分かったよ。先に入れば良いんだろ、入れば」
綺麗好きなシズの無言の抗議に、ヴァンが諦めて浴室へ向かう。尻尾を不機嫌そうにブンブンと早く大きく振って、時々床にぶつける様に歩いて行く後ろ姿に、ネストがくすりと笑う。
「おやおや、閃光のヴァンも君の前だと御行儀が良いね」
傭兵の中ではトップクラスの強さを誇る気難しい親友が、養い子の前ではまるで親に叱られる子供の様で、ネストは面白いなと思った。
「師匠、やっぱり猫科だからお風呂嫌いなのかな……」
「猫発言は、本人に言っちゃ駄目だよ?」
過去、友が猫と揶揄した相手を一閃の元に切り捨てて殺した所を見た事があるネストは、そう忠告すると、シズはそれに小さく頷く。
シズも出会った当初に、猫かと聞いて怒られたから。とりあえず、相手を殺したくなるくらいには嫌いな発言だと言うことを理解している。
「アンドラス様も、御風邪を召さない様に、お早く湯浴みで御体を温めてください。着替えをご用意します」
「そうさせてもらうよ。風呂どころか泊まるのも惜しんで、強行軍でこっちに来たからね」
「……やっぱり。一人でも夜盗ぐらいなら撃退できるから、ゆっくり戻ってくればいいのに。遭難したらどうするんだろう」
そもそも、この大雪の時期に外をうろつく様な盗賊などいない。命を落とすリスクの方が断然高いから、皆この地域の者たちは冬籠りをしている。
ヴァン達に比べ酷く小柄で身体も華奢なシズだが、家の留守を預かるためにヴァンから剣を習い、その辺の下手な盗賊などよりずっと腕も良いのだ。
それに、ヴァンに拾われた右も左も分からなかった一〇の頃とも違うし、一人で出歩いて迷子になることもない。まして、ヴァンに何も告げずに勝手に居なくなることなどありもしないのだから、少しは自分の事を信用してほしいと、ヴァン本人にシズから訴えたこともある。
ヴァンからの答えは、ただ鼻で笑うのみで行動を改めることはない。
「よほど君が心配なんだね、ヴァンは」
楽しそうに目を細めるネストに、シズは小さく首を横に振る。
確かに心配はされていると思うが、ネストが言う様な心配はしていないだろうともシズは思う。自分の置かれている立場を、シズは良く理解しているつもりだ。
「ご迷惑をおかけしました」
シズは申し訳なさそうにネストに頭を下げて謝罪する。ネストは声を殺して笑った。
「いや、僕も早く君に会いたいと急かしたからね、気にしないで。僕も、お風呂を頂くよ」
幸いにも、風呂嫌いなヴァンの家ではあるが、浴室はとても広い。傭兵を生業としている屈強な男が五、六人入っても余裕があることも、ここを何度か訪れた事があるネストは知っている。
「その間に、御食事とお酒の準備も整えておきます」
「よろしく頼むよ」
そう言って、ネストは浴室へ向かって行った。