畠さん
お久しぶりです。
今回は、友人の史葉が軸のお話。
珍しく空は曇っていて、どこか湿っぽい風が吹いている。そろそろ梅雨入りだろうか。
黒岩史葉は、会社の屋上でタバコを吸っていた。
ちょうど昼休みで、一服していたのだ。
「帰るまで、雨降んねえといいけど……」
ふー、と煙を吐き、史葉はタバコを携帯灰皿に捨てる。
そしてYシャツの胸ポケットにしまって、史葉は屋上を後にした。
*
帰り。史葉が会社のロビーを歩いていると、自動ドアの向こうで雨が降っていることに気づいた。
「チッ、ついてねえな──」
生憎、今日は折り畳みの傘を持ってきていないので、濡れて帰ることになる。
とりあえず近所のコンビニまで走ってビニール傘でも買うか、と思いながら自動ドアを抜けると、思っていたよりも強い雨で、史葉はギリギリ屋根のある端に寄って考え直す。
「……ちょっと待つか──」
急ぎの用もないしな、と史葉はスーツの内ポケットからタバコを取り出し、口に咥えて火を点けた。
すー……と吸って、ふーっと一気に吐き出す。通り過ぎざまに、社員が咳をしていったので、史葉は吐く向きを少し変えた。
「……はぁ。止まねえな──」
二本目を吸おうとしてから、史葉はタバコを内ポケットにしまってやめる。
一向に止む気配がないので、待っていても仕方ないと判断したのだろう。
行くかと決心した時、横からか細い声がして、史葉はそちらに顔を向けた。
「よかったら……どうぞ……」
さらりと肩まである艶のある黒髪で、柔らかな笑みを浮かべた女性が、史葉に折り畳みの赤い傘を差し出していた。
「えっと……」
史葉が誰だったかと考えていると、その女性は自ら名乗った。
「畠です、事務的な業務をしています。たまに傘を忘れた方々に、こうやって傘を貸し出したりしてるんです……」
「戻って来ない方が多いですけど──」と畠は苦笑いして、それからまた史葉に傘を差し出す。
「どうぞ、お使いください」
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
史葉は赤い傘を受け取って、広げた。
薄暗い中に、パッと真っ赤な傘が映える。
「明日、返します」
「いつでもいいですよ──気を付けてお帰りください」
「はい。傘、ありがとうございました。畠さんも、お気をつけて」
会釈して史葉は歩き出した。
赤い傘なんて、今までさしたことなかったな、と史葉は雨粒の当たる赤い傘を見ながら思った。
*
「よ、飯食ったか?」
「え? いや、これから」
「じゃあ、俺のもよろしく──」
と史葉は友人の十川夕介の家にやってきて、傘を傘立てに置いて部屋に入っていく。
「ちょっと」
夕介は勝手に部屋に入っていく史葉の後を追った。
部屋に行くと、史葉はちゃぶだいの近くに座ってくつろいでいた。
「何も出ないよ?」
「出るまで帰らないけどな?」
「……今日はオムライスだよ」
「おう」
夕介は渋々台所に向かう。
ずっと居られても迷惑だ。ならさっさと食べて帰ってもらった方がいいと夕介は思った。
史葉はタバコを取り出して、一服する。
「はぁー、何かお返しも付けた方がいいよな……」
さしてきた傘を思い出して、史葉は呟いた。
史葉が考えていると、夕介がお盆にオムライスとコップを載せてやってくる。
「はい、お待ち」
「サンキュー」
とりあえず食べてから決めるか、と史葉はオムライスにスプーンをさした。
*
そして次の日。史葉はコンビニで飴を買って、会社に向かっていた。
一番食べやすくお手頃だったので、史葉はそれにしたのだった。
事務室に寄って、史葉は声をかける。
「あの、畠さんいらっしゃいますか? 昨日傘を借りて、返しにきたんですけど」
事務室に居た女性社員は顔を見合わせてから、一人の女性が近づいてきて言った。
「畠さんなら、この前寿退社しましたよ」
「え? でも、これ──」
おずおずと赤い傘を出すと、事務室に居た全員が「まあ」と口を開けて笑った。
「雨の日は、畠さん優しいから傘貸し出してたのよね」
「そうそう、それで旦那も心射止められたんでしょ?」
と女性たちが話す。
史葉はとりあえず、傘と飴を渡した。
話に巻き込まれかねないので、史葉は早く用事を済ませたかったのだ。
「あ、じゃあ次会ったら、渡しておきますね」
「ありがとうございます。お願いします」
と事務室を出ようとした時、ちょうど後ろから会話が聞こえた。
「畠さん優しいから、気になって来てたのかしら。生き霊になって──」
それからはもう部屋を出てしまったので聞こえなかったが、史葉は「そんなわけねえだろ」と一人呟いた。
昨日あんなにしっかり見えたのだから、本人じゃなかったら誰なんだ、と史葉は考えてから、やめやめと首を横に振ってエレベーターに向かうのだった──
畠さん「皆さん、傘持ってますか……?」