B【偶像天国】
いつの時代でも偶像崇拝はありますが…
深夜に突然、携帯の着信音が鳴り響いた。
俺はそれが昔ながらのベル音であることを半分眠っている頭で確
認しながら手にとり、階下にある応接間に急いだ。
勿論、隣で眠ってる妻には気づかれないよう、細心の注意を払っ
てでのことだが。まあ、こいつは一度眠ってしまえば何があっても
起きるというタマじゃないが、注意し過ぎるということは無いのだ。
専用着信音と着信番号を改めて確認し、急いででると田中の声が
真夜中の応接間に響いた。ちらりと時計に目をやると、午前二時だ
った。
「我らがABCの上に栄光あれ!」
「そして我ら会員の上にも栄光あれ!」
いつものように合言葉を言うと、田中は安心したかのように話し
始めた。
「もしもし? ABC西町支部の田中です。すみません、定時連絡
でもないこんな真夜中に。でも、内田さん、緊急の連絡があったん
です。例の件でちょっと」
「えっ? 例の件というとあの件か?」
俺は自分でも声が震えるのを意識しながら、田中に確認を求めた。
「そうですよ、あの件です。で、ついにあの男に我らの鉄拳を与え
ることで話がまとまったんです。たった今、本部の会長から連絡が
あったんです。それでですね…」
「ちょっと待ってくれないか? ほんのちょっとだから」
俺はテーブルの上に置いてあるケースからタバコを一本取り出す
と火をつけ、煙を深く吸い込んだ。久しぶりのタバコで少しクラク
ラしたが、気分はぐっと落ち着いてゆくようだった。
「ああ、すまん。それで何だって?」
俺は自分自身に落ち着け、落ち着けと言い聞かせながら、わざと
ゆっくりこう切り出した。
「もしもし? それでですね、内田さん、あなたの要求通りに、あ
なたが指名されたんですよ。ええ、あなたが実行することに本部の
方で決まったんです。聞いてますか? 内田さん?」
ああ、俺の要求が通ったのか。あの男に鉄拳を与えるならばこの
俺がと、ずっと本部にメールを出し続けたのは無駄じゃなかったか。
ああ…
「おお、すまん、聞いてるよ。思い掛けないって言うか、何だか夢
のようでね」
「そうでしょうとも。この私も志願はしていたんですがね。やっぱ
り会員暦十年の内田さんには敵いませんでしたよ。それでですね、
決行の場所と時間なんですが…」
俺は田中からの細かい打ち合わせを受けると、念の為に手帳に細
かくメモしてから電話を切った。
その後も俺は興奮していた。このままじゃ眠れない。
そうだ! こんな時にはABCの歌を聴きながらお酒を飲むのが一
番だ。
俺はウイスキーを取り出すとグラスに注ぎ、携帯にイヤホンを刺
し、ABCの世界を楽しみ始めた。1曲目は記念すべきABCのデビ
ュー曲である【天使のひめごと】だ。
この曲が出たのは十年前になるのだが、新鮮さは今聞いてもちっ
とも変わらない。この歌を歌って踊るABCのメンバーを、俺の勤
め先でもある大東京放送で見た時、俺は本当の天使をそこに見たの
だ。その場でABCファンクラブの会員になる手続きをしたのも、
ものぐさな俺にしてみたら本当に珍しいことだったのだ。
あの時から俺たちのABCは順調に芸能界で成功を収めてきた。
歌のみならず、映画に、舞台にと、その勢いはとどまるところを知
らないかのようだ。
そんな俺たちのABC主要メンバーの一人に、あの男がちょっか
いを出している、そんな噂を聞いたのは昨年の秋の事だった。
あの男とは豊田アキラ。こいつはロックシンガーを気取ってる歌
い手で、つまらない小説なども若者向けの月刊誌に書いている。俺
に言わせれば、自分の傷をチラチラみせて、それで皆の気を引くと
いうなんとも卑劣な男だ。二十四歳で妻子あり。こともあろうに、
こんな男が俺たちのABCメンバーにちょっかいを…
俺は酒の量がつい多くなってしまったとこと気づき、作りかけた
水割りをキッチンに流し、タバコをもう一本取り出し火をつけた。
このところずっと禁煙していたというのに今日は二本も吸ってし
まった。でもまあ、いいか。今夜は記念すべき夜なのだ。いや、正
確には朝方と言た方がいいかもしれないが。
とにかく、我らがABCのメンバーにちょっかいを出していると
いう男に、この俺が直接鉄拳を与えることが出来るのだ。
曲が四曲目の【翼の重み】に変わったところで俺は田中の説明し
てくれた計画を、改めて頭の中で繰り返した。
決行は二日後。この日、大東京放送に豊田が現われるというのだ。
豊田の奴め、普段はテレビに出ない事をステイタスにしているとい
うのに、よりによって俺の職場である大東京放送に現われるなんて
何とも運のない男だ。ま、きっと女の問題かなにかで金が入り用に
なったんだろう。
で、現われたところで、後ろからガツン! と一発天誅を与える。
この一発は我らがABCファンクラブの、みんなの一発なのだ。ま
あ、俺たちファンクラブにしてみても、殺すところまでは考えてい
ない。全治三ヶ月あたりの怪我で、ということに決まっているのだ
が、俺の加減が上手く出来るだろうか?
この十年間を振り返ってみると、心の支えはいつも我らがABC
だった。仕事で部長のへまを俺が代わりに被った時も、いわれのな
い中傷を部下から受けた時も、そうだ、妻からいつも聞かされる小
言にうんざりしてる時だって、この俺を救ってくれるのは汚れのな
いABCの天使の歌声だったのだ。
それを思うとあの豊田に対して力の加減が出来るか自信がない。
まあ、失敗したところで、すべて本部の方で上手くやってくれる事
になっているのだから何も心配する事は無いのだが。
ABCの歌声と酒の力で次第に眠くなってきた俺は、テーブルの
上を片付けると寝室に戻った。妻は相変わらず夢の世界の住人だ。
こいつは一度寝ると本当に何があっても起きやしない。それにこの
女は俺と違って音楽や芸術に何一つ興味が無いんだからな。関心が
あるのは、毎日の生活に関係があることだけ。あっちのスーパーの
方が卵が三円安いだの、電話料金はあの会社の方がお得だの、まあ、
そんな事ばっかりだ。
ま、この女にはABCの崇高さを理解しろといっても無駄なこと
だから、今のまま秘密にしておいた方がお互いの為にも良いのだ。
ああ、こいつ、今よだれが…こうまで間抜けだと少しばかり気が
抜けるというものだ。
それでも音をさせないようにして、俺はベッドに潜り込んだ。フ
フフ、二日後が楽しみだ。豊田め、それまでは交通事故には気をつ
けるんだな。
そうこうしているうちに俺は眠りに落ちそうになった。その途中
で携帯の着信音を聞いた気がしたが、それは聞き覚えの無いものだ
った。俺のじゃないし妻のものとも違う。もう朝方近いし、きっと
幻聴に違いないんだ。
それより二日後の事もあるし、しっかり睡眠をとって体調を整え
ておかなくては。
いつしか俺の意識は遠のいていった。
***
「はい! もしもし? 我らがアキラ様の上に栄光あれ! ああ、
アキラ会中村支部の山田さんですか? ええ、構いません。定時連
絡意外でもアキラ様の事に関してならいつだって良いんです。え?
何ですって? そんな計画があるんですか? はい、二日後に大東
京放送ですね。はい、その男を私がやればいいんですね。ええ、光
栄です。私がそんな大役に選ばれるなんて。ええ、私が会員暦が十
年とはいえ、我らがアキラ会には私よりももっと熱心な会員の方が
大勢居られるのに。はい、何だってやりますわ。我らがアキラ様の
為ならたとえこの手を汚してもいいんですの。ええ、では詳しくは
またのちほど」
私は電話を切るとひとつため息をついた。
それにしても我らがアキラ様に天誅を与えようとしている組織が
あるなんてとんでもないことだ。私の生き甲斐でもあるアキラ様に
危害を与えるような奴は、誰であっても許しておく事は出来ない。
興奮した私は携帯の中に入れてあるアキラ様の歌を聴くことにし
た。
ああ、やっぱりアキラ様の歌声は天使の歌声だ。この歌声で何度
私は救われたことだろう。
やっと気分の落ち着いた私はベッドに戻った。隣には間抜け顔し
た亭主がいびきをかいて眠ってる。この人は私がアキラ様に夢中な
ことも、アキラ会の熱心な会員であることも何にも知らないのだ。
いくら勤め先が大東京放送だとはいっても、しょせん芸能界の事
には何一つ関心が無い人なのだから。でもまあ、この人が大東京放
送に勤めているのは今回の計画には丁度いいわ。
それにしてもアキラ様に直接手を下そうとしている奴はどんな奴
なんだろう?たぶんABCのファンの一人には違いないんだろうけ
ど、きっととんでもない熱狂的ファンなんだろうな。
隣で寝ている亭主が寝返りを打ちながら笑ったように見えた。こ
の人の為にも今回の計画は秘密裏に処理してもらわなくっちゃ。ま
あ、やった後の処理は我らがアキラ会が総て上手くやってくれるん
だろうけど。
ああ、私も早く寝なくっちゃ。この隣で眠ってる亭主みたいに。
それにしてもこの亭主ときたら、一度眠ってしまうと何があっても
起きないんだから…
アイドルの意味は偶像。偶像崇拝も度を越すと…傍目に見ている分には面白いのですが。