第35章:宮下恭吾
教師である「私」は、教え子である少女への禁断の恋心に理性と倫理を揺さぶられていた。かつて冴えなかった少年時代、サックスの生演奏と厳格な師匠・小泉直樹との出会いが人生を変えた。
教員という仮面を被って生きてきて、これほどまでに理性を狂わせる感情など知らなかった。頭の片隅には常に、自分は教師であり、あの子は生徒なのだという戒めが冷たく張り付いていた。
だが、なぜだろう。彼女の前に立つと、そんな理屈も職業倫理も、まるで意味をなさなくなってしまうのだ。
どこか物悲しげで、あまりにも儚くて。両手ですくい上げようものなら、その指の隙間からさらりと崩れて消えてしまいそうな危うさ――それこそが、あの子のどうしようもない魅力だった。
秋の夜風はすでに肌寒く、火照った頬を心地よくかすめていく。
さっき、私が買い与えたばかりの細いシルバーのブレスレット。それを嬉しそうに右手首で輝かせながら、彼女は名残惜しそうに、けれど確かな足取りで玄関の扉の向こうへと消えていった。
小学校五年生までの私は、これといった取り柄もなければ、勉強が特別できるわけでもない、どこにでもいる冴えない子どもだった。
すべてが変わったのは、小学六年の夏だった。ふらりと立ち寄った小さなカフェで、偶然耳にしたサックスの生演奏。それが、私とサックスの最初の出会いだ。
幼かった私のメトロノームの針のように単調だった日常に、そのひんやりと輝く湾曲した楽器はあまりにも美しく突き刺さった。世界中の音をまるごと包み込んでしまうような深い音色に、私は文字通り魂を奪われたのだった。
居ても立ってもいられなくなった私は、隣にいた母の袖を引っ張り、あの人にサックスを教えてほしいと泣きつくように懇願した。
それが、私の師匠――小泉直樹という人との出会いだった。
師匠は本来、情熱的なテナーサックスの奏者だった。けれど、当時の私の小さな体格を気遣い、わざわざアルトサックスを手に取り、一から手取り足取りレッスンをしてくれるようになったのだった。
師匠は、容赦のない人だった。
できないとなれば何度でも、時間さえ許せば何時間でも、同じフレーズを執拗に叩き込まれた。厳しく叱りつけられることはあっても、褒められた記憶なんて片手で数えるほどしかなかった。けれど、その生み出す音色はどこまでも深く、胸の奥を抉られるようだった。憤りや諦め、拭えない悲しみがドロドロと煮えたぎっているような、すさまじいエネルギーを宿した奏者だと、出会った頃から肌で感じていた。
「失礼します」
「はい、いらっしゃい」
「早速、この前の課題をやってみなさい」
「はい!よろしくお願いします!」
師匠は電子サウンドのメトロノームをカチカチと乾いた音を鳴らす指定のテンポに合わせ、スイッチを入れた。
「いくよぉー、ワン、ツー、スリッ、ワン、ツッ!」
刻まれるテンポに飛び乗るようにして、私は必死に息を吹き込んだ。
課題の曲が終わると、師匠はすべてを見透かしたような目を向けた。
「宮下くんさ、国語の授業でここからここまで読んでって、発表する事あるじゃん?あれ得意?」
「いえ、あまり得意じゃないです」
「なんで?」
「緊張するし、、途中で突っ掛かると恥ずかしいし、漢字読めないとバカにされるし」
「だよね。でもさ、あれすげぇ練習してさ、めっちゃ上手く読めたらどうなる?」
「たぶん、、、すごーいってなります」
「あーん、だよね。宮下くん音楽も一緒。めっちゃ練習すれば一曲吹かなくてもみんなすげーってなって、かっけぇーってなってくれんの」
「宮下くんはさ、この練習してきたとこで俺に何を伝えようと思ったわけ?」
「えーっと、、、」
「そこよ。メッセージが乗ってないと何も伝わらないわけ。ただ吹けりゃいいんじゃないんだわ」
「はい、、、」
「このメロディで宮下くんのどんな思いを俺に届けたかったかが大事なわけ。それが音楽さ。な?」
「次は俺にメッセージばっちりよろしくね。おけ?」 「はい!ありがとうございます!」
「あぃ、おつかれさーん」




