大神宮の神様は楠木の上から微笑む
放課後、夕暮れ色の風が弓道場の幕を揺らす。弦音が「パーン」と高く澄んだ音を立てて空気に溶けると、弓を引ききっていた手から矢が放たれ、まっすぐに 的 の中心を射抜いた。
「よし、今日の練習はここまで!」
部長の号令にほっと胸を撫でおろしたのは、高校二年生の一ノ瀬 (いちのせ) 莉花 (りか)
弓道部に所属する莉花は、感情を表に出すのが少し苦手だ。MBTIで言えば典型的なISFP(冒険家タイプ)。自分の世界を大切にしていて、心の中には豊かな感受性と、大好きなアニメや漫画の推しキャラに対する熱い情熱をひそかに秘めている。けれど、クラスではどうしても人見知りが勝ってしまい、放課後の弓道場か、自室のベッドで推し活に勤しんでいる時が一番落ち着くのだった。
弓を片付け、自転車の鍵を解錠する。家までの帰り道には、昔から大きな杉の木々に囲まれた「大神宮」という古い神社があった。
莉花は毎朝毎夕、この神社の前を自転車で通りかかる。そしていつも、鳥居の前で一度だけ自転車のスピードを緩め、ペダルをこぎながら頭をちょこんと下げるのが日課だった。
「今日も無事に部活が終わりました。ありがとうございます……」
声には出さず、心の中でそう呟く。
神社に宿る神——「天音」が、その姿を莉花に見せるようになったのは、莉花が高校に入学してすぐのことだった。
普通の人間には見えないはずの神様。しかし、繊細で清らかな感性を持つ莉花にだけは、鳥居の脇にある大きな楠の枝の上に腰掛け、優しく微笑む青年の姿が見えていた。淡い羽衣のような衣を纏い、透き通るような美しい目をした神様だ。
「やあ、莉花。今日も見事なツルネだったね」
最初は見間違いかと思ってパニックになりかけた莉花だったが、天音の纏う空気はどこまでも暖かく、穏やかだった。
「……あ、天音さま。聞こえてたんですか……?」
「ああ。この境内に届く音はすべて聞こえるよ。莉花の放つ矢の音は、いつもとても素直で心地がいい」
天音の存在は、莉花にとって「すべてを包み込んでくれる優しい父親」のようだった。
人見知りで学校ではあまり自分を出せない莉花の葛藤も、弓道でうまくいかない日の悔しさも、天音はただ温かく頷きながら聞いてくれた。
「焦らなくていいんだよ。莉花は自分のペースで、自分の心の声を聞いて進めばいい」
そう言って頭を撫でてくれる大きな手は、実の父親よりもずっと暖かく、安心感に満ちていた。幼い頃から少し引っ込み思案だった莉花にとって、天音は全世界で唯一、自分の素のままでいられる絶対的な安全地帯だった。
◇
季節が巡り、莉花が二年生の秋を迎えた頃。
二人の関係性に、小さな変化が訪れる。
部活動で後輩ができ、クラスでも行事の実行委員に選ばれるなど、莉花の周りの環境が急激に動き始めたのだ。人見知りの莉花にとって、それは毎日が小さなストレスの連続だった。
そんなある日、落ち込んで境内のベンチに座り込む莉花の隣に、天音がそっと腰かけた。
「……天音さま、私、やっぱり人に合わせるのが苦手で。もっと上手く話せたらいいのに」
しょんぼりと肩を落とす莉花の頭に、ぽんと手が置かれる。だが、その手つきは以前のような「子どもをあやす親の撫で方」ではなかった。どこか少しだけ力強く、背中を押し出すような温もり。
「莉花、下を向かないで」
天音は莉花の顔を覗き込み、いたずらっぽく微笑んだ。
「君は今のままで十分魅力的だよ。無理に誰かになろうとしなくていい。困ったことがあったら、いつでも僕を頼りなさい。僕が君の味方になって、守ってあげるから」
その言葉と笑顔に、莉花の胸がどきりと跳ねた。
親のような絶対的な包容力から、少し距離が縮まった「頼れる頼もしいお兄ちゃん」のような存在へ。
学校で嫌なことがあっても、「帰り道には天音兄様が待っている」と思うだけで、莉花の心はすっと軽くなった。天音もまた、莉花をただ見守る対象としてではなく、一人の成長していく少女として、軽口を叩き合ったり、時には優しくからかったりしながら寄り添うようになっていった。
しかし、その「お兄ちゃん」としての安心感も、永くは続かなかった。
◇
冬の気配が近づく夕暮れ。
弓道部の同級生の男子から、境内の近くで「好きだ」と告白された。
人見知りの莉花は慌ててしまい、「ごめんなさい、今は部活に集中したくて」と断りを入れて、逃げるように自転車をこいで大神宮へと向かった。
鳥居の前で自転車を止め、境内に駆け込む。楠の下には、いつものように天音が立っていた。
しかし、天音の表情は、今まで見たこともないほど冷ややかで、どこか切なげだった。
「……莉花」
「天音さま……あの、私……」
「聞いていたよ。風が教えてくれた」
天音はゆっくりと莉花に近づくと、その細い肩を両手で引き寄せた。
いつもなら、優しく頭を撫でて「断れてえらかったね」と笑ってくれるはずだった。けれど、今日の天音の瞳には、深く揺れるような情熱が宿っていた。
「……嫉妬したんだ」
低い声が、莉花の耳元で響く。
「え……?」
「君が他の誰かのものになるかもしれないと思ったら、胸が裂けそうになった。神である私が、一人の人間の少女にこんな感情を抱くなんて……どうかしているね」
天音の指先が、莉花の頬にそっと触れる。その手は少し震えていた。
「見守る親のようでありたいと思っていた。君の成長を支える兄のような存在でいようともした。……でも、もう誤魔化せない。莉花、私は君を、一人の女性として愛している」
莉花の呼吸が止まる。
胸の奥が、熱いものでいっぱいになった。
今まで感じていた安心感や親愛の情とは全く違う、甘くて切ない鼓動。自分の好きなアニメのどんな恋愛シーンよりも、目の前にいる神様の真摯な瞳が、莉花の心を強く揺さぶっていた。
「天音さま……私、私も……」
人見知りで、いつもうつむいてばかりいた莉花が、しっかりと天音の目を見つめ返した。
「私も、天音さまのことが好きです。神様としてじゃなくて……私だけの特別な人として」
夕闇が二人を包み込む中、大神宮の大きな杉の木々が、祝福するようにさやさやと葉を揺らした。
自転車で通う毎日の帰り道。幼かった少女と古き神様の物語は、静かに、そして確かな恋として動き始めたのだった。




