怪談 音が止む
キキキキキキ…
私の背後の壁の向こう、小さく、不快な金属音が響く。
会社のオフィス内。
私の部署は一階フロアの入り口すぐ横にある。
私の席のちょうど真後ろにあたる古く薄い壁の向こうには
エレベーターのスペースがある。
建物自体も古く、エレベーターも旧式のものだ。
エレベーター内部の天井には、換気扇がついている。
センサー付きで、人が乗っている時は羽が勢いよく回り、
2、3分間誰も乗らないと省エネ状態に切替わって
羽の回転数が落ちるようになっている。
だが、先週からずっとこの換気扇の調子が悪い。
勢いよく回っている時は通常のモーター音がするだけだが、
回転数が落ちた時に中から金属がこすれる音がしだすのだ。
換気扇の軸部分が変になっているのかもしれない。
キキキキキキ…
それほど大きい音でもないのだが、壁一枚挟んだ場所に
座っている私は仕事の間頻繁にその音を聞き続けなければ
ならない。
ここは一階で、エレベーターのカゴが止まったままになる
頻度も高い。その度に、この音を聞き続ける事になる。
エレベーター業者にも点検してもらったのだが、
部品交換の必要があり、修理は来週になるそうだ。
エレベーター自体には問題ないから大丈夫、との事だが、
私は大丈夫じゃないのだ。
「ねえリコ、この音なんとかなんないのかな」
横の席のジュリが話しかけてくる。
リコというのは私の名前。
ジュリは私の入社時からの同期で、同じ部署で働いている。
「私こういう金属音苦手なんだよね…リコはよく平気だね」
「えー、いやいや、私も嫌だよ。
でもどうにもならないでしょ、来週まで我慢するしか」
キキキキキキ…
「あーもう。無理!リコ、お昼行こう!」
彼女は勢いよく立ち上がると、私の腕を引っ張った。
「え、待って。あと5分でこれ終わるから」
私は急いで手持ちの作業を終わらせた。
「あのエレベーターの換気扇壊れたのってさ、
きっと幽霊の仕業だよ」
ファミレスでお昼を食べながら、ジュリが言う。
「幽霊って…なにそれ」
「私聞いちゃったんだよ。
うちのビル、変なのがいるらしいよ?」
「変なのって?」
「なんか、建った当時からずっと幽霊が出るんだって。
詳しくは知らないけど、建てたところが悪かったみたい。
人間じゃない何かが、夜中に徘徊してるんだってさ」
とんでもない話が出てきて、私は一瞬固まった。
「いつも掃除してくれるビルの清掃のおじさんいるでしょ。
あの人に聞いたんだよ」
「誰?メガネの人?」
「違う違う。もっと年齢いってる、腰曲がった白髪の人」
「ああー。うん、いるね」
このビルには、管理会社の清掃員さんが何人かいる。
その中に、ベテランの白髪混じりの清掃員さんがいるのだ。
うちのフロアも掃除してくれていて、よく挨拶するし、
雑談なんかもする。気さくな人。
「あの人もう長い間このビルで働いてるらしいんだけど、
その中で何度か見たことあるみたいよ。
最初見かけた時は、普通に誰かいると思って声かけてみた
らしいんだけど、そしたらさ…」
彼女は低い声で続ける。
「暗い、感情の無い顔で、
ニタッて笑って、ゆっくり近づいてきたんだって。
おじさんその時、ヤバいものだってすぐにわかって
慌てて逃げたんだってさ」
私は思わずつばを飲む。
「特に夜、人の気配がなくなってから出るみたい。
最初の頃はこのビルに毎週、夜間の清掃が入ってた
らしいけど、業者の中にそれ見た人が続出して、
いつからか夜間清掃自体やらなくなっちゃったんだって」
「そんなに…?」
…
週末、金曜日。
その日私は、いきなり舞い込んだ急ぎの業務を
終わらせなければならず、社内で一人残業していた。
フロアにはもうほぼ人は残っていない。
22時過ぎに上の階からエレベーターが降りてきて、
別部署の人が一人、足早に帰っていった。
それを最後に人の行き来もなくなり、
エレベーターも一階に止まったままになった。
「はあ、せっかくの金曜なのに、何なの…」
誰もいないと、独り言も言いたくなる。
こんな時間まで残業したのは初めてだった。
一度伸びをして業務を再開しようとした時…
キキキキキキ…
人が使わなくなって数分経ったのだろう。
私の精神を逆なでするように、エレベーターからあの音が
鳴り始める。
私はため息をつきながらも、業務に取りかかった。
しばらく時間が経って、終電の時間も近づく。
私はまだオフィスにいた。
集中して片付けた事もあり、大体やることは終わった。
今日はもう帰って、あとは来週の朝少し早く来てまとめれば
大丈夫そうだ。
帰り支度をして、オフィスの電気を消してドアを閉める。
もうこの時間は正面入口の自動ドアは開かないので、
エレベーターを横切って、その脇にある裏口に向かう。
その時。
エレベーターを横切りながらふと気づいた。
エレベーターは一階で止まったままだ。
最後に上の階の人が降りるのに使って、そのまま。
今エレベーターからは小さなモーター音が響いているだけ。
…あの不快な金属音がしていない。
中に誰もいなければ、あの金属音がしているはずなのだ。
先週からの不具合が急に勝手に解決するとも考えにくい。
換気扇のセンサーが反応して、羽が勢いよく回っている、
という事になる。
今、このエレベーターのドアの向こうには、
いったい誰がいるのだろうか。
行き先階のボタンも押さず、ずっとそこに。
そのまま近寄らずに帰ればいいものを、
私は気になってしまい、エレベーターのボタンを
押してみようと思った。
近づき、ボタンに手を伸ばす。
カチッ。
ボタンのランプが光る。
ドアが開く。
そこには、うつむいたままの浮浪者のような影があった。
それはゆっくりこちらに顔を向ける。
暗い、感情の無い顔。
それが、私を見て、ニタッと笑う。
全身から冷や汗がふきだした。
人ではない事はわかった。
一瞬の後、その足が、
ゆっくりと一歩こちらに近づいてきた。
「ひぃっ!」
私は喉を鳴らすような渇いた悲鳴を漏らし、
全力で駅まで走って逃げた。
…
翌週
業者が換気扇を交換した。
もうエレベーターから不快な金属音は鳴らなくなった。
その後、特に変な体験をする事も無かった。
でもあの時エレベーターの中にいた何かは、
今もこの建物にいるのだろうか。
あのエレベーターに、いるのだろうか。
私はあの後しばらくの間、エレベーターに乗れなかった。
そして、絶対に夜まで残業する事はしなくなった。
しばらく経った今ではもう落ち着いたものの、
それでも夜中に一人でエレベーターに乗るのは嫌だ。




