※鼓動
夜は静かだった。
彼の部屋の灯りは落としてあり、窓の外の光だけがぼんやりと床を照らしている。遠くで車の走る音が聞こえた。部屋の中はそれ以外ほとんど音がない。
彼女は彼の隣にいた。
ベッドの上で、互いの体温を分け合うように寄り添っている。彼の体は少し熱く、呼吸はゆっくりだった。彼女の腕に触れる彼の手は、思っていたよりも温かい。
彼は彼女の髪に指を通し、静かに言った。
「ごめん」
彼女は少しだけ首を振った。
「……どうして」
「疲れさせてる」
彼は小さく笑った。
「最近、僕」
言葉を探すように少し黙る。
「進んできてるでしょう?」
彼女は何も言わなかった。ただ彼の胸に頬を寄せたまま、彼の鼓動を聞いていた。
「……いいんです」
彼女は小さく言った。
彼は少しだけ彼女を見た。
「優しいですね」
彼女は答えない。
しばらく沈黙が続く。
やがて彼は静かに言った。
「…方法なんですけど」
彼女の肩がわずかに動く。
「刃物とかは」
彼は首を横に振った。
「嫌なんです」
彼女はゆっくり顔を上げた。
彼は穏やかな表情をしている。
「あなたの手がいい」
その言葉を聞いたとき、彼女の呼吸が一瞬止まった。
「……手?」
「はい」
彼は言った。
「その方が」
少し笑う。
「あなたを感じる」
彼女は彼を見つめた。
胸の奥がわずかにざわつく。今まで何度も話してきたことのはずなのに、急に現実の形を持ったようだった。
彼を失う。
その事実が、急に近くなる。
彼女は一瞬、目を逸らした。
「……怖いですか」
彼が聞いた。
彼女はすぐに答えなかった。
やがて、小さく言った。
「……少し」
彼は優しく頷いた。
「大丈夫です」
彼の手が彼女の手を取る。
「あなたなら」
彼は穏やかな声で言った。
「ちゃんとできます」
彼女の手が、ゆっくり彼の首に触れた。
最初は、ただ触れるだけだった。
彼の体温が手のひらに伝わる。温かい。生きている温度だった。
彼女の指が少しずつ動く。
首の後ろに回る。
喉の下に触れる。
力を入れる。
その瞬間、部屋は静かだった。
外の音は遠い。
彼女の耳に聞こえるのは、自分の鼓動だけだった。
どくん。
どくん。
胸の奥で強く鳴る。
手のひらに、圧がかかる。
彼は抵抗しなかった。
腕は下ろされたまま、ただ彼女を見ている。
穏やかな目だった。
その視線が、彼女を見つめている。
逃げ道はなかった。
そのとき、記憶がよぎる。
——母。
父の手が、母の首にかかっている。
母は逃げなかった。
ただ父の手に、自分の手を重ねていた。
そして——
私を見ていた。
まっすぐな視線。
あのとき、母は何を思っていたのだろう。
——生きようとしていたのだろうか。
彼女の指に、力が入る。
どくん。
どくん。
鼓動が響く。
彼はまだ、穏やかな顔で彼女を見ていた。
その視線が、手を止めさせない気がした。




