告白
彼はその夜、彼女を呼んだ。
特別な場所ではなかった。いつもと同じ店だった。小さくて、静かな店。窓の外には夜の街の灯りがあった。
彼女は少し遅れて来た。椅子に座ると、いつものように小さく息をついた。
「待ちました?」
「いえ」
彼は首を振った。
少しの沈黙が落ちる。店内には控えめな音楽が流れていた。彼女は水のグラスを指先で触れている。
彼は、ゆっくりと言った。
「……病気になりました」
彼女の手が止まった。
視線が上がる。
その目は、いつもの観察する視線ではなかった。
「……病気?」
彼は頷いた。
「記憶とか、思考とか……そういうところに影響が出るらしいです」
彼女は何も言わない。
ただ彼を見ている。
彼は穏やかな声で続けた。
「だんだん、自分じゃなくなる可能性があるって」
その言葉のあと、沈黙が落ちた。
彼女の視線がわずかに揺れる。
初めて見る表情だった。
動揺だった。
彼はその顔を見て、少しだけ笑った。
「そんな顔します?」
彼女はすぐに答えなかった。
目を伏せる。
「……します」
声はいつもより少し小さかった。
彼は静かに頷いた。
「そうですよね」
また沈黙が落ちる。
彼はテーブルの上の指先を軽く組み、少しだけ息を吐いた。
「でも」
彼女が顔を上げる。
「分かった気がするんです」
彼は言った。
彼女は黙っている。
「あなたの…」
彼は続けた。
「あなたのお父さんの話」
彼女の表情がわずかに動く。
「愛していたから」
彼はその言葉をゆっくり言った。
「前は、違うと思ってました」
彼女は彼を見ている。
「でも」
彼は微かに笑った。
「今なら、少し分かる気がする」
彼女の呼吸がわずかに乱れた。
「……どうして」
彼は彼女を見た。
穏やかな目だった。
「怖いんです」
彼は言った。
「自分が、自分じゃなくなるの」
店の中の音楽が静かに流れている。
「もし、そうなったら」
彼は言葉を選びながら言った。
「あなたを苦しめるかもしれない」
彼女は黙っている。
「それなら」
彼は言った。
「終わらせる愛も、あるのかもしれない」
彼女の指先が、わずかに動いた。
彼は静かに彼女を見つめた。
「だから」
少し間を置く。
「あなたは、僕を愛してますか」
彼女の目が少し大きくなった。
沈黙。
店の外を車が通り過ぎる音がした。
彼女はゆっくり息を吸った。
それから言った。
「……はい」
声は静かだった。
「愛しています」
彼はその言葉を聞き、ほんの少しだけ笑った。
「僕も愛しています」
彼女は彼を見ている。
その視線の奥に、いつもの静けさはなかった。
彼は静かに言った。
「じゃあ」
少し間を置く。
「証明できますか」
店の空気が、わずかに変わった。
彼女はしばらく動かなかった。
それから、ほんの少しだけ笑った。
あの、小さく零れる笑みだった。
「……できます」
彼女は言った。
「私は」
ほんのわずかに息を吐く。
「父の娘ですから」




