患う
その夜、彼は自分の部屋で一人だった。
部屋の灯りはいつもと同じで、机の上には読みかけの本が置かれている。窓の外には夜の街の光があった。特別なことは何もない、普段と変わらない夜だった。
それでも彼は、本を開く気になれなかった。
椅子に座ったまま、しばらくぼんやりと天井を見ていた。
頭の中には、さっきの会話が残っている。
——父は、母を愛していました。
彼女の声は小さかった。
あの静かな声で、ただ事実のように言った。
——愛していたから。
彼はその言葉を思い出し、少し息を吐いた。
自分の知っている愛とは違うと思った。
今もそう思っている。
愛しているなら、一緒に生きようとする。
苦しくても、逃げずにそばにいる。
それが彼の知っている愛だった。
けれど、彼女は違う。
彼女は、あの出来事を見ていた。
母が少しずつ母ではなくなっていく時間を。
父がそれをそばで見続ける時間を。
彼は想像してみた。
毎日、少しずつ変わっていく人を見ている生活。
名前を忘れられる日。
自分を認識されなくなる日。
それでも離れない時間。
彼には、まだ実感が湧かなかった。
そんな人生を、彼は知らない。
彼は恵まれていた。
両親は今も元気で、普通に会話ができて、普通に食事をしている。
家族の写真はどれも穏やかだ。
大きな事件も、取り返しのつかない出来事もなかった。
普通の人生だった。
だから彼は思った。
——あの人は、どんな時間を生きてきたんだろう。
あの静かな目。
観察するような視線。
そして、ときどき零れる小さな笑み。
彼はその笑顔を思い出した。
ほんの少しだけ口元が緩む笑い。
声もなく、短く消える笑い。
あの笑いを見るたびに、彼は少し安心した。
なぜだろうと思う。
重い話をしているのに、彼女の表情はどこか穏やかだった。
悲しみを見せないからではない。
むしろ、その奥にあるものを隠さないからだと彼は感じた。
彼女は、自分の人生を隠していない。
それが彼には、不思議だった。
怖いと思う人もいるだろう。
彼女自身も、そう言っていた。
普通の人は離れる、と。
けれど彼は、逆だった。
気になった。
知らない世界を見ているようだった。
自分の人生では出会わなかった感覚。
彼女の愛の話。
父の愛。
母の時間。
それらは、彼の知っている愛とは違う。
けれど嘘ではない気がした。
彼女はそれを、本気で信じている。
彼は椅子の背にもたれ、目を閉じた。
彼女の笑みが浮かぶ。
あの小さな笑い。
ほんの一瞬だけ、柔らかくなる表情。
思い出すと、胸の奥が少しだけ温かくなる。
彼はその感覚に気づき、ゆっくり目を開けた。
——たぶん、惹かれている。
そう思った。




