表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/11

理由


それからしばらくして、彼は彼女を食事に誘った。


「よかったら、今度ご飯でもどうですか」


そう言ったとき、彼女は少しだけ驚いたような顔をした。驚きというより、迷いに近い表情だった。


「……まだ誘うんですね」


「だめですか?」


彼女はすぐには答えなかった。視線が少しだけ外れる。何かを測るように、静かに考えている様子だった。


「……一度だけなら」


「本当ですか」


「はい」


それが、二人の最初の約束だった。


 


店は特別な場所ではなかった。駅の近くの、小さなレストランだった。静かな店で、人の声も控えめだった。彼女は店に入ると少しだけ周囲を見回し、それから席に座った。


「こういうところ、よく来るんですか」


彼が聞くと、彼女は首を横に振った。


「……あまり」


「じゃあ、嫌でした?」


「いいえ」


彼女は水の入ったグラスを指先で触れながら言った。



それから少しの沈黙があった。彼女は会話を急がない人だった。沈黙を埋めようともしない。けれど不思議と気まずくはなかった。


料理が運ばれてきて、二人はしばらく静かに食べた。フォークが皿に触れる小さな音だけが聞こえる。


彼はふと、前から気になっていたことを思い出した。


「前に言ってましたよね」


彼女が顔を上げる。


「昔の話って」


彼女は少しだけ視線を落とした。


「……覚えてるんですね」


「はい」


彼は言葉を選びながら続けた。


「無理に聞くつもりはないですけど……もし話せるなら」


彼女はしばらく黙っていた。考えているというより、言葉を探しているようだった。


やがて彼女は、ゆっくりと口を開いた。


「……父は、母を殺しました」


彼はその言葉を静かに聞いた。


「母は、病気でした」


「病気?」


「記憶がなくなったり、人格が変わったり」


彼女はグラスを指で回しながら続けた。


「だんだん、母じゃなくなっていきました」


彼は黙っていた。


「思い出も、言葉も、表情も……少しずつ消えていくんです」


彼女は淡々と話していた。感情を強く出すわけでもなく、ただ事実を並べるような話し方だった。


「父は、ずっとそばにいました」


彼女の声は静かだった。


「最後まで」


彼は少しだけ息を吸った。


「それで……」


彼女は頷いた。


「父は言いました」


彼女は一瞬だけ彼を見た。


「……愛していたから」


その言葉は、静かに落ちた。


彼はすぐには返事をしなかった。考えていた。


「……それは」


彼は言葉を探した。


「愛なんでしょうか」


彼女は小さく首を傾けた。


「違いますか?」


彼は少し困ったように笑った。


「僕は……違うと思います」


彼女は興味を持ったように彼を見る。


「どうして?」


「愛しているなら」


彼はゆっくり言った。


「一緒に生きようとするんじゃないでしょうか」


彼女は黙った。


「苦しくても、最後まで」


彼は言った。


「それが、僕の知っている愛です」


彼女は少しだけ視線を落とした。

フォークの先で皿の端を軽くなぞる。


「……そうかもしれません」


それから、ほんの少し笑った。


「でも」


彼女は顔を上げた。


「父は、母を愛していました」


声は静かだった。


「私は、それを見ていました」


彼は黙っていた。


「母が母じゃなくなっていくのを、父はずっと見ていました」


彼女は言った。


「それでも父は離れなかった」


店の照明が、テーブルの上に柔らかく落ちている。


「だから、父は終わらせたんです」


彼女は続けた。


「母が母であるうちに」


彼は彼女を見た。


彼女は微かに笑った。


「愛していたから」


その言葉を、彼は静かに聞いていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ