理由
それからしばらくして、彼は彼女を食事に誘った。
「よかったら、今度ご飯でもどうですか」
そう言ったとき、彼女は少しだけ驚いたような顔をした。驚きというより、迷いに近い表情だった。
「……まだ誘うんですね」
「だめですか?」
彼女はすぐには答えなかった。視線が少しだけ外れる。何かを測るように、静かに考えている様子だった。
「……一度だけなら」
「本当ですか」
「はい」
それが、二人の最初の約束だった。
店は特別な場所ではなかった。駅の近くの、小さなレストランだった。静かな店で、人の声も控えめだった。彼女は店に入ると少しだけ周囲を見回し、それから席に座った。
「こういうところ、よく来るんですか」
彼が聞くと、彼女は首を横に振った。
「……あまり」
「じゃあ、嫌でした?」
「いいえ」
彼女は水の入ったグラスを指先で触れながら言った。
それから少しの沈黙があった。彼女は会話を急がない人だった。沈黙を埋めようともしない。けれど不思議と気まずくはなかった。
料理が運ばれてきて、二人はしばらく静かに食べた。フォークが皿に触れる小さな音だけが聞こえる。
彼はふと、前から気になっていたことを思い出した。
「前に言ってましたよね」
彼女が顔を上げる。
「昔の話って」
彼女は少しだけ視線を落とした。
「……覚えてるんですね」
「はい」
彼は言葉を選びながら続けた。
「無理に聞くつもりはないですけど……もし話せるなら」
彼女はしばらく黙っていた。考えているというより、言葉を探しているようだった。
やがて彼女は、ゆっくりと口を開いた。
「……父は、母を殺しました」
彼はその言葉を静かに聞いた。
「母は、病気でした」
「病気?」
「記憶がなくなったり、人格が変わったり」
彼女はグラスを指で回しながら続けた。
「だんだん、母じゃなくなっていきました」
彼は黙っていた。
「思い出も、言葉も、表情も……少しずつ消えていくんです」
彼女は淡々と話していた。感情を強く出すわけでもなく、ただ事実を並べるような話し方だった。
「父は、ずっとそばにいました」
彼女の声は静かだった。
「最後まで」
彼は少しだけ息を吸った。
「それで……」
彼女は頷いた。
「父は言いました」
彼女は一瞬だけ彼を見た。
「……愛していたから」
その言葉は、静かに落ちた。
彼はすぐには返事をしなかった。考えていた。
「……それは」
彼は言葉を探した。
「愛なんでしょうか」
彼女は小さく首を傾けた。
「違いますか?」
彼は少し困ったように笑った。
「僕は……違うと思います」
彼女は興味を持ったように彼を見る。
「どうして?」
「愛しているなら」
彼はゆっくり言った。
「一緒に生きようとするんじゃないでしょうか」
彼女は黙った。
「苦しくても、最後まで」
彼は言った。
「それが、僕の知っている愛です」
彼女は少しだけ視線を落とした。
フォークの先で皿の端を軽くなぞる。
「……そうかもしれません」
それから、ほんの少し笑った。
「でも」
彼女は顔を上げた。
「父は、母を愛していました」
声は静かだった。
「私は、それを見ていました」
彼は黙っていた。
「母が母じゃなくなっていくのを、父はずっと見ていました」
彼女は言った。
「それでも父は離れなかった」
店の照明が、テーブルの上に柔らかく落ちている。
「だから、父は終わらせたんです」
彼女は続けた。
「母が母であるうちに」
彼は彼女を見た。
彼女は微かに笑った。
「愛していたから」
その言葉を、彼は静かに聞いていた。




