好奇心
「……私の父は、母を殺しました」
彼はすぐには言葉を返せなかった。理解するまで、ほんの少し時間がかかった。意味ははっきりしているはずなのに、頭の中でうまく形にならない。彼女はそれ以上説明を続けようとはしなかった。ただ彼を見ている。あの、観察するような視線だった。
彼は小さく息を吐いた。
「……そう、なんですか」
それしか言えなかった。どう返せばいいのか分からなかった。軽く受け流していい話でもないし、深く踏み込むには重すぎる言葉だった。彼女は少しだけ頷いた。
「はい」
沈黙が落ちる。人の行き交う歩道なのに、その場所だけ少し静かになったように感じた。彼女はその沈黙を気にする様子もなく、ただ立っている。
「……だから」
彼女が言った。
「やめておいた方がいいです」
彼はその言葉の意味を理解した。彼女は、最初から線を引いている。これ以上近づかないように。関わらないように。
彼はゆっくり頷いた。
「……分かりました」
それ以上言うことはできなかった。彼女はほんのわずかに頭を下げると、そのまま歩き出した。背中はすぐに人混みに紛れた。振り返ることはなかった。
彼はその場に少しだけ立っていたが、やがて歩き出した。胸の奥に、うまく言葉にできない感覚が残っていた。重さというより、引っかかりに近い感覚だった。
その夜、彼は思い出した。
彼女の声。小さくて静かな声。
そしてあの言葉。
——私の父は、母を殺しました。
彼はしばらく考えたあと、スマートフォンを手に取った。検索画面を開き、少しだけ迷ってから、いくつかの言葉を打ち込んだ。地名と、殺人事件という単語。それだけでいくつかの記事が出てきた。
そのうちの一つを開く。
短い記事だった。事実だけが並んでいる。感情の説明はない。
病気の妻を、夫が自宅で殺害。
現場には娘がいた。
夫は自ら通報。逮捕された。
それだけだった。
画面を見ながら、彼はしばらく動かなかった。記事は古いものだった。何年も前の出来事らしい。詳しい事情は書かれていない。けれど、場所と状況が一致している。彼女の言葉と。
事実だった。
彼はスマートフォンを置いた。部屋の中は静かだった。普段と変わらない夜のはずなのに、少しだけ世界の輪郭が変わったように感じた。
彼は今まで、ああいう話を身近で聞いたことがなかった。ニュースで読むことはある。けれどそれは画面の向こうの出来事だった。遠い場所の、知らない誰かの人生。
彼女は違った。
普通の服を着て、普通の街を歩いて、静かな声で話す人だった。けれどその人の人生には、あの記事に書かれている出来事がある。
彼は思った。
——あの人は、どうやって生きてきたんだろう。
不思議と怖さはなかった。むしろ、少しだけ気になった。知りたいと思った。どういう時間を過ごしてきたのか。あの視線の奥に、何があるのか。
彼は自分の気持ちを善意だと思った。もしまた会うことがあったら、普通に話せばいい。特別なことを聞く必要はない。ただ、あの人が一人にならないように。
そう思った。
自分の人生の中では、今まで出会ったことのない人だった。
それでも、たぶん大丈夫だろうと彼は思った。




