過去
——最初に会ったのは、いつだっただろう。
思い出そうとすると、輪郭のぼやけた光景が浮かぶ。特別な場所ではなかった。駅の近くの歩道だった気もするし、コンビニの前だったような気もする。ただ、彼女はそのときも同じように静かな雰囲気で立っていた。人通りの中にいるのに、少しだけ周囲から浮いて見えた。普通の服装だった。シンプルで清潔な、どこにでもありそうな服。けれど生活の匂いが薄くて、どこか輪郭が曖昧に見えた。
彼はそのとき、少しだけ彼女を見た。視線が合ったような気がしたからだ。合ったと思ったのに、彼女の焦点は自分ではないようにも見えた。向こうを見ているようで、こちらを見ているようでもある視線だった。彼はわずかに居心地の悪さを覚え、そのまま通り過ぎた。
それだけだった。
けれど数日後、また同じ場所で彼女を見かけた。今度は彼女が先に彼を見た気がした。ほんの一瞬、視線が重なったあと、彼女は小さく笑った。声は出ていない。口元だけが、少しだけ緩んだような笑いだった。その表情はすぐに消えた。
彼はなぜか足を止めた。
「また会いましたね」
彼女は少しだけ首を傾けた。
「……そうですね」
声は小さかった。高くも低くもない、静かな声。それなのに不思議と聞き取りやすかった。彼は、なぜかその声を覚えてしまった。
それから、同じような偶然が何度か続いた。特別な約束はしていない。ただ街の中で、ふとした場所で顔を合わせる。彼が挨拶をすると、彼女は短く返事をする。会話は長く続かない。彼女は多くを話さないし、彼も無理に聞こうとはしなかった。ただ、会うたびに彼は少しずつ気になっていった。
理由はよく分からなかった。彼女は特別に明るいわけでもないし、よく笑うわけでもない。ただ、ときどき零れるように小さく笑う。その瞬間だけ、空気が変わる気がした。
ある日、彼はついに踏み込もうとした。
「もしよかったら、今度どこかで——」
彼女はその言葉を最後まで聞かなかった。静かに首を横に振った。
「やめておいた方がいいです」
彼は少し驚いた。
「どうして?」
彼女は彼を見た。あの焦点の合わないような視線だった。少しの間、彼を観察するように見てから、小さく息をついた。
「私と関わると、たぶん後悔します」
彼は苦笑した。
「そんなことないと思いますけど」
彼女はしばらく黙っていた。視線が彼から少し外れる。
「……昔の話です」
彼女はそう言った。
それから、ほんの少しだけ笑った。あの零れるような、小さな笑いだった。
「たぶん、普通の人は聞いたら離れます」
彼はそのとき、なぜか「聞きたい」と思った。理由ははっきりしなかった。ただ、その言葉の先にあるものを知りたくなった。
「それでもいいです」
彼女は少しだけ眉を動かした。
「本当に?」
「はい」
彼女は彼を見た。今度ははっきりと視線が合った。数秒だけ、静かな時間が流れる。
そして彼女は言った。
「……私の父は、母を殺しました」




