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独り


気づくと、彼女は椅子に座っていた。


いつそこに座ったのかは分からない。部屋はまだ夜のままだった。彼の部屋の空気は静かで、時間の流れが止まっているように感じられる。


彼女の膝の上には、手があった。


指は強く絡まり、固く握りしめられている。力を抜こうとしても、指先がうまく動かない。ずっとそうしていたのだろう。


彼の体は、少し離れたところにあった。


触れようと思えば届く距離。けれど彼女は動かなかった。視界には入っている。けれど焦点は合っていない。ただそこにあると知っているだけのように、ぼんやりと見えている。


部屋の中は静かだった。


彼の呼吸は、もう聞こえない。


彼女はゆっくり息を吸った。胸の奥が少し痛んだ。痛みというより、空洞のような感覚だった。



——いなくなった。



その事実だけが、静かにそこにある。


彼はもういない。


あの穏やかな目も、優しく笑う表情も、もう二度と自分を見ない。胸の奥に残るものは、言葉にできない形だった。


彼女は、ふと昔のことを思い出した。



母の手紙。



父の事件のあと、家の中を片付けているときに見つけたものだった。自分の名前が書かれた封筒だった。


紙は少し黄ばんでいた。母の字だった。



——もしこれを読んでいるなら。


そう書いてあった。


——きっと、もう私はあなたと話せないのでしょう。


文章は長くなかった。母は昔から長い手紙を書く人ではなかった。


——お父さんを恨まないでください。


その一文を、彼女は今でも覚えている。


——あの人は、私を愛してくれていただけです。


それから少しだけ続いていた。


——病気が進んでいくたびに、私は自分じゃなくなっていきました。

——あなたと話したことも、思い出も、少しずつ消えていく。

——それを見るお父さんは、とても苦しそうでした。


紙の上の文字は、静かだった。


——だから、あの人を責めないでください。


そして最後に、


——あなたは、あなたの人生を生きてください。


それだけだった。


彼女はその手紙を何度も読んだ。何度も読み返した。母が言っていることは、理解できた気がした。



愛していたから。



父の言葉も、母の手紙も、同じことを言っているように思えた。


彼女はそれを信じて生きてきた。


彼女の膝の上で、指がわずかに動く。


まだ固い。


窓の外が少し明るくなり始めていた。


夜が薄れていく。


カーテン越しの光が、ゆっくりと部屋に入ってくる。背中に冷たい空気を感じた。


朝が近い。


外から生活音が聞こえ始める。遠くの車の音、誰かの足音、街の気配。


世界は動き出している。


彼女はまだ椅子に座ったままだった。


彼のいない部屋。


彼のいない人生。


これからも続く時間。


彼女は、ゆっくりと自分の手を見た。


指はまだ固まり絡まっている。夜のあいだ、ずっと握りしめていた手。


この手が、彼の首にかかっていた。


彼女はしばらく黙っていた。


そして、小さな声で言った。






「……私は、父と同じように言っていいのだろうか」





END

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