※静寂
部屋は静かだった。
音は、ほとんどなかった。外の車の音も遠く、窓の外の世界は別の場所のように感じられる。彼女の耳に届くのは、自分の鼓動だけだった。
どくん。
どくん。
胸の奥で強く響く。
彼女の手は、彼の首にかかったままだった。
指先に伝わる感触が少しずつ変わっていく。最初は温かかった体温が、ゆっくりと変わる。彼の呼吸は、もう聞こえなかった。
彼の顔の色も、変わっていた。
さっきまでの穏やかな表情のまま、ただ色だけが違う。彼女を見ていた目は、もう動かない。
部屋は、まだ静かだった。
彼女の手は離れない。
力を抜こうとしても、指が動かなかった。指先がこわばり、首から離れない。まるでそこに固定されてしまったようだった。
彼女は彼を見ていた。
視線は合っていない。彼の顔は視界に入っているのに、焦点は少しずれている。どこを見ているのか、自分でも分からなかった。
そのとき、記憶が浮かぶ。
あの部屋。
昔の家のリビング。夕方だった。カーテンの隙間から光が入っていて、部屋の空気は重かった。
父がいた。
母の首に手をかけている。
父の顔は、苦しそうだった。
怒っているわけでも、狂っているわけでもない。ただ、何かを必死に耐えているような顔だった。
母は逃げなかった。
抵抗もしなかった。
ただ、父の手に自分の手を重ねた。
静かな動きだった。
その手は、父の手を止めるものではなかった。力を込めるわけでもない。ただ触れているだけだった。
父の手の上に、母の手が重なっている。
そして母は——
彼女を見た。
まっすぐな視線だった。
悲しい顔。
けれど泣いてはいない。
ただ、娘を見ている。
——怖がっていないだろうか。
そう確かめるような視線だった。
そのとき彼女は、まだ意味を理解していなかった。何が起きているのかも、父が何をしているのかも。
ただ、母が自分を見ていることだけは分かっていた。
彼女の手は、まだ彼の首にあった。
指先に残る圧の感触が、消えない。
どくん。
どくん。
彼女の鼓動だけ、続いていた。




