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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

ファンシーチルドレン〜スラムの最強少女が政治家息子のボディーガードになる話〜

作者: 夜空千咲
掲載日:2026/03/18

カリスヴァル王国。首都ペルソナ。


ここは世界屈指の大都市。国内有数の大企業が密集する、繁栄の象徴ともいえる街だ。


煌びやかな装いのマダム達が高級デパートで買い物を楽しみ、道路には高級車が何台も並んでいる。


そんな光景を、影から眺める少女――ナコがいた。


「あ〜あ。本当、カモだねぇ」


ナコは埃と垢にまみれた身体を、路地裏の影に潜ませている。


その視線の先。

デパートの入口から、一人の女性が現れた。

派手なドレスに身を包み、高級車へと歩いていく。


「狙うわ、あの女……のカバン!!」


ナコはそう決めると、一目散に駆け出した。


その動きは素早い。

小さな身体で路地から飛び出し、人混みを縫うように駆け抜ける様子は、まるで野生動物のようだった。


「ん? ……あ、きゃぁぁ!!」


女が気づいた時には、すでに遅い。


ナコは両脇のボディーガードを翻弄するように周囲を駆け回り、宙を舞うように跳び上がると、女のカバンへと手を伸ばした。


「きゃぁ! ひったくり!! 泥棒〜〜!!」


女の叫び声が響く。


だが、その時にはすでに、ナコは遠くの通りを駆け抜けていた。


通行人たちは一瞬の出来事に呆然とし、首を傾げるばかり。

当然、ナコの後を追う人影に気づく者はいない。


「よし、ここまで来たら大丈夫か。金は……」


ナコは人気のない路地に入り、周囲を確認すると、盗んだカバンを開けた。


中を覗き込む。


「……げっ」


思わずため息が漏れる。


「カードかよ」


財布の中に入っていたのは、ブラックカード。

ナコはそれを見て、露骨に顔をしかめた。


その時だった。


「……おい」


背後から声がした。


ナコが振り返る。


そこには、綺麗な制服を着た青年と、屈強そうな2人のボディーガードが立っていた。


「……」


ナコは黙ったまま、様子をうかがう。


すると青年は、ふっと笑い、ナコを指差した。


「お前のその才能、俺が使ってやろう」


「……は?」


突然の言葉に、ナコは固まる。


「……言っている意味が分からない」


「簡単だ。お前を勧誘している。俺の家に来い」


青年は有無を言わせぬ様子で言った。


そしてボディーガードに目配せする。


2人の男が動き、ナコを強引に連れて行こうとする。


ナコは男たちを睨みつけ、その手を振りほどこうと、もがいた。

しかし、力の差は歴然だ。


そこでナコは、男の逞しい腕に思いきり噛みついた。


「いっ……!」


さすがはボディーガード。

一瞬だけ力が緩むが、手は離さない。


ナコは舌打ちすると、最終手段に出た。


すっと息を吸い込み――


次の瞬間、男の顔面へ自分の額を叩きつけた。

「なっ……!?」


もう一人の男が驚いた、その一瞬。


ナコは迷わず拳を振り抜いた。


「ていっ!」


拳は男の顔面に綺麗にヒットする。

さらにその勢いのまま、ナコは男の腕の間をするりとすり抜けた。


まるで猫のような身のこなしだ。


着地すると、ナコは振り返りもせず手をひらひら振った。


「……ほんじゃっ」


そのまま立ち去ろうとする。


だが――


青年は驚くどころか、面白そうに笑っていた。


その様子に、ナコは一瞬だけ眉をひそめる。


(なんだ、コイツ……)


だが、自分には関係ない。

そう思い直し、ナコは向きを変えた。


その時だった。


「食事付きだ」


ぽつりと、青年が言った。


食事。


その言葉に――ナコの身体がピタリと止まる。


次の瞬間。


ナコは猛ダッシュで青年の前まで戻ってきた。


そして至近距離まで顔を寄せると、大声で叫んだ。


「食わせろ!!!」


✳︎ ✳︎ ✳︎


ナコは、青年の家へと高級車で向かった。


初めて乗る車だ。

ナコは内心ワクワクしていたが、表には出さない。 油断しないよう、周囲に気を配っている。


その横で、青年はじっとナコを見つめていた。


やがて、口を開く。


「俺はこの国の政治家の息子。リン・アルフォードだ」


ナコは少しだけ間を置いて答えた。


「……ナコ」


「そうか。ナコというんだな」


リンは小さく頷く。

そして、ふっと息を吐いた。


「お前達は、この国の汚点だ」


「は……?」


突然の言葉に、ナコの表情が険しくなる。


「ストリートチルドレン。お前のように路上で窃盗や物乞いをして生きる子供達を、そう呼ぶ」


リンの声は淡々としていた。


「そして、そんな子供が存在する国は、いつまでも先進国に勝てない」


冷たい言葉だった。


ナコの拳がぎゅっと握られる。


「……そんな侮辱を言うために、私を連れてきたのか?」


ナコはリンを睨みつけた。


「それなら今からでも帰るぞ」


吐き捨てるように言うと、ナコは車のドアに手をかける。

窓から飛び降りようとした。


その時。


リンがぶっきらぼうに言った。


「やめておけ」


ナコの動きが止まる。


「人間相手ならまだしも、鉄の塊は敵にするな」


リンは窓の外を顎で示した。


「簡単に死ぬぞ」


「……っ」


ナコは歯を食いしばった。

「それと、俺の話は終わっていない」


「は?」


リンは鋭い視線をナコに向けた。


「俺の目的は、ストリートチルドレンの溜まり場――『ブラックネスト』の現状を明らかにすること」


リンの声は静かだった。


「そして、この国からストリートチルドレンを撲滅することだ」


「……っ!! やっぱり最低じゃ――」


ナコが言い終える前に、リンが遮る。


「最低?」


リンの目が細くなる。


「お前のその最低な脳では、俺の言葉の意味が理解できなかったか」


冷たい言葉だった。

だがその声には、わずかな感情が混じっていた。


苛立ちだ。


「……俺はこの国の貧富の差を無くす」


リンは真っ直ぐ前を見たまま言う。


「そして、ストリートチルドレンが生まれない環境を整えるんだ」


ナコは少し黙り込む。


そして慎重に口を開いた。


「……それと、私に何の関係がある?」


リンは迷わず答えた。


「お前がブラックネストを案内しろ」


ナコの目が見開かれる。


「そして――俺のボディーガードになれ」


「は?」


ナコは固まった。言葉も発せずに。


「野蛮な連中共が俺のような金持ちを見たら、襲いかかるだろう。――お前みたいに」

「ぐっ……」


ニヤリと笑うリンから、ナコは気まずそうに目を背ける。


「ストリートの知識があり、かつ、戦闘能力の高い人間。 そんな奴を俺は探していた」


そう言うと、リンの瞳がナコを捉えた。


「――完璧だ」


ナコの背筋に形容し難い冷たいものが走った。


(こんな奴、絶対悪い奴なのに。絶対そうなのに……)


――食事付き、食事付き、食事付き!!!


(くっそぉぉぉぉぉ!!!)


「お前なんか嫌いだぁぁぁぁ!!!」


ナコはそう叫びながら、リンの家まで運ばれたのであった。


✳︎ ✳︎ ✳︎

こうしてナコは、リンの家へと到着した。


巨大な門を車でくぐると、その先には広大な敷地が広がっていた。

屋敷に辿り着くまで、車はしばらく敷地内を走り続ける。


やがて、ようやく屋敷の前に到着した。


車が止まる。


「坊ちゃん、お帰りなさいませ」


リンが車から降りると、屋敷の前には大勢の召使い達が並んでいた。

まるで儀式のような光景だった。


ナコは目を丸くする。


(なんだよ、これ……)


圧倒されながらも、ナコはリンの後ろについて歩いた。


召使い達は皆、綺麗に整えられた服を着ている。

そんな中で、埃と垢にまみれたナコの姿は明らかに浮いていた。


召使い達はナコを一目見るなり、露骨に顔をしかめた。


(けっ)


ナコは不貞腐れたように顔を背け、リンの後を追う。


リンは振り返りもせず、召使い達に言った。


「父上には、このことを決して言うな」


その声には、有無を言わせぬ威圧があった。


召使い達は静かに頭を下げる。


リンはそのまま屋敷の中へと入っていった。


ナコも慌ててその後を追う。


✳︎ ✳︎ ✳︎


リンは足を止めることなく、ツカツカと廊下を歩き続ける。


ナコは慌ててその後を追った。


「ちょっと速いんだけどっ!」


文句を言うが、リンは振り返りもしない。


屋敷の内装は、外観に劣らず豪華だった。

長い廊下には高価そうな絵画が並び、天井には大きなシャンデリアが吊るされている。


部屋の数も、とても数え切れそうにない。


(こんなに部屋、要らないでしょ……)


ナコは心の中でツッコミを入れた。


その時だった。


リンが突然、足を止めた。


ナコも慌てて立ち止まる。


目の前には、大きな扉が一つ、堂々とそびえ立っていた。


「入れ」


リンがぶっきらぼうに言う。


ナコは少し警戒しながらも、言われた通りに中へ入った。


リンはその後ろに立ち、慎重に扉を閉める。

ボディーガードたちは外で静かに待機していた。


部屋の中は広々としていた。


寝具、机、棚――必要最低限の家具は揃っている。


もっとも、ナコにとってはその「最低限」ですら、すべてが贅沢品だった。


「……で?」


ナコは振り返る。


「リンって言ったよね、お前。ここ、何?」


リンは澄ました顔で答えた。


「ここはお前の部屋だ」


一瞬、沈黙。


そして――


「本当!? よっしゃぁ!!」


ナコが飛び上がるように喜ぶ。


「黙れ」


リンは容赦なく言った。


ナコの笑い声がピタリと止まる。


「このことは父上には話していない」


リンは淡々と続けた。


「話せば、おそらく反対される」


ナコは腕を組む。


「……つまり、大人しくしとけって?」


「そうだ」


リンは短く答えた。


ナコは大きくため息を吐く。


「なんと迷惑な話!」


そしてリンを指差した。


「お前の事情なんか、私には関係ないんだけど!!」


ナコの反抗的な態度にも、リンは特に気にした様子もなく続けた。


「父上はここには滅多に帰らない。仕事が忙しいからな。だから、しばらくは大丈夫だ」


「ほぉん」


ナコは腕を組む。


「それにしてもさ、お前大胆なことするね。親の反対とか気にしないタイプ?」


ナコの問いかけに、リンは一瞬だけ視線を落とした。


そして、どこか寂しげに答える。


「こうでもしないと、この国は終わる」


「はい?」


ナコは訳が分からず首を傾げる。


リンは俯いたまま、静かに言った。


「父上を含め、この国の政治家は上ばかり見ている。下など見向きもしない」


リンの顔が悔しそうに歪む。


「だが、それでは駄目だ。いつか必ず足元を掬われる」


少し声を強めたリンに、ナコは思わず息を呑んだ。


リンはハッとしたように口をつぐむ。そして唇を噛み、小さく言った。


「……すまない。こんなみっともない姿」


「……」


ナコは少しの間、黙ってリンを見ていた。

だがやがて、ふっと口角を上げる。


「面白いじゃん、お前」


リンは驚いたように顔を上げた。


「私は政治なんて分かんないし、多分一生関係ない世界だけどさ」


ナコはニッと歯を見せて笑う。


「でも、お前。ただのボンボンじゃないんだね」


「……」


その瞬間だった。


グルグル……グルるるる。


突然、奇妙な音が部屋の中に響き渡った。


リンは目を丸くする。


そして目の前のナコが、悪びれもせず満面の笑みで言った。


「ところで、ご飯まだ?」

✳︎ ✳︎ ✳︎


「うっわぁぁぁ♡」


ナコは思わず歓声を上げた。

それも無理はない。


目の前のテーブルには、キラキラと輝く美味しそうな料理達が並んでいたのだ。


こんがり焼かれたローストチキン。

湯気を立てるシチュー。

色とりどりのサラダ。

そして焼きたてのパン。


ナコが今まで見たこともない料理ばかりだった。


「これ、食べていいの!? ぜ、全部!?」


興奮を抑えきれず、声が裏返る。


その様子を、壁際に立つ召使達が静かに見守っていた。

中にはナコの埃と垢にまみれた姿を見て、露骨に顔をしかめる者もいる。


一方、リンと二人のボディーガードはテーブルに座り、ナコの様子を眺めていた。


「ああ、食え」


リンがぶっきらぼうに言う。


「俺のボディーガードには、たくさん食べて力をつけてもらわないとな」


その言葉を聞いた瞬間、ナコは椅子の上で飛び跳ねた。


「すごい嬉しい!! あざっす!」


そう言うや否や、ナコは料理に飛びついた。


フォークを手に取るが、慣れていないため持ち方がめちゃくちゃだ。

それでも構わず、目の前の料理を次々と口へ運ぶ。


「うまっ! なにこれ! すげぇ!!」


ナコにとって、すべてが初めて食べるものだった。


リンはそんな様子を頬杖をつきながら眺め、ぼそりと呟く。


「お前、ラッキーだな。俺に拾われて」


「おう、超ラッキー!」


ナコは口いっぱいに食べ物を詰め込みながら、フォークを持った手でピースサインを作った。


あまりにも無作法な振る舞いだったが、リンは何も言わない。

――今日は見逃すことにしたらしい。


やがて、ナコの食べる勢いも落ち着いてきた。


リンは椅子から立ち上がる。


「そろそろ食べ終わったか」


そしてナコを見下ろして言った。


「だったら、さっさと風呂に行け。お前、臭いぞ」


「お?」


あまりにもストレートな言い方に、ナコは一瞬ぽかんとする。


だがすぐに肩をすくめた。


「ま、確かに」


ナコはそう言うと、召使に案内されて風呂へ向かった。


――だが。


風呂場でナコは、見たことのないレバーやボタンを見つけると、興味本位で片っ端から押しまくった。


結果。


「ちょっと!! これ押しちゃ駄目でしょ!!」


召使の怒鳴り声が浴室に響く。


「文字読めないの!?」


湯気の中で、召使の一人が腰に手を当てて怒っていた。


その目の前には――


全裸のナコ。


「文字なんか読めないよ! 分かんないもん!!」


ナコはまったく悪びれる様子もなく言い返す。


召使達は顔を見合わせ、深いため息をついた。


「あのねぇ……」


一人の召使が頭を抱える。


「あなた、拾われた身だって自覚しなさい」


そして指を突きつけた。


「いつまでここに居るのかは知りませんけど、ここに居る限りは――私達が教育しますからね!!」


「きょ……!?」


ナコの顔が引きつった。


✳︎ ✳︎ ✳︎


それからナコは、召使達から風呂の入り方を教わった。


体の洗い方、髪の乾かし方。

さらに風呂上がりには、身だしなみの整え方まで、あれこれと指導される。


その結果――


ナコは、見違えるほど可愛らしい姿へと変身していた。


鏡の前に座るナコの後ろで、召使達が満足そうに胸を張る。


「こんなに髪の毛で遊んだのは久しぶりだわ」


「ええ、本当に。昔は奥様とこうして遊んでいましたね」


その言葉に、ナコは首を傾げた。


「奥様?」


召使達は、はっとして顔を見合わせた。


どうやら、つい口を滑らせてしまったらしい。


だが、今さら隠すことでもないと判断したのか、一人がナコへ向き直る。


「ええ。リン様のお母様よ」


少しだけ表情を和らげながら続けた。


「病気で亡くなられたのだけれど……とても素晴らしい方でした」


「へぇ」


召使達は、どこか懐かしむような、少しだけ寂しそうな表情を浮かべる。


昔を思い出しているのだろう。


「リンに、お母さんがいたんだね」


ナコがぽつりと呟く。


「ええ。それはもちろん」


「ふぅん……」


ナコは鏡の中の見慣れぬ自分をじっと見つめた。


ナコには母も父もいない。

兄弟もいない。


だけど――


ストリートチルドレンの仲間達が、ナコにとっては家族のような存在だった。


すると突然、ナコの頭の中に懐かしい声が響いた。


――「ナコ!!」


その瞬間、ナコの体がぴたりと固まる。


(……思い出しちゃ、ダメ)


ナコは小さく息を吐き、自分に言い聞かせた。

背後では召使たちが、楽しそうに昔話に花を咲かせている。


ナコはゆっくりと深呼吸をした。


(超絶ラッキーガールが、変な顔しちゃダメ!!)


そう心の中で気合いを入れ、ナコは鏡の中の自分へ満面の笑みを向けた。


――その笑顔があまりにも全力すぎて、後ろで見ていた召使たちが少し引いたことは、ここだけの話である。


✳︎ ✳︎ ✳︎


翌朝。


ふかふかのベッドと、ふかふかの布団。

それらがどうにも落ち着かなかったナコは、結局ほとんど眠れなかった。


そして目を覚ましたとき、彼女は――床で寝ていた。


「おい、起きろ。飯を食って、とっとと行くぞ」


勢いよくドアが開く。


そこには、きっちり身支度を整えたリンが立っていた。


一方のナコは、パジャマ姿。髪はぼさぼさ。

さらに床に転がり、まるで芋虫のような姿でぐったりしている。


その光景を見たリンは、ぎょっとして眉をひそめた。


「……お前、何してる?」


「見たら分かるだろ……ぐぅ」


「寝るなっ!!」


✳︎ ✳︎ ✳︎


ナコはリンに急かされながら朝食を口いっぱいに頬張り、何とか身支度を整えた。


「よし、行けるな。早速だが、ボディーガード。初任務だ」


「おうっ!!」


ナコは元気よく返事をすると、リンの後ろについて歩き出した。

両脇には、昨日のボディーガードの男二人が並んでいる。


ナコは興味本位で、そのうちの一人に顔を向けた。


「ねぇねぇ、お前達も来るのか?」


すると男は、優しく笑って答える。


「そりゃあ勿論。私達はリン様がどこへ行くにもお供するのさ」


「そうなのか。じゃあ仲間だな!」


ナコはニッと笑い、拳を差し出した。


突然の行動に男は一瞬きょとんとしたが、すぐに笑みを浮かべ――

ナコの拳に、自分の拳を軽くぶつけた。


「お、いいじゃん!」


ナコは嬉しそうに声を上げる。


もう一人のボディーガードにも同じように拳を差し出し、同様の“儀式”を済ませた。


その会話を前を歩きながら聞いていたリンは、ほんのわずかに口角を上げていた。


――もっとも、それに気づく者はいなかったが。


✳︎ ✳︎ ✳︎


リンとナコ、そして二人のボディーガードは車に乗り、ブラックネストへ向かっていた。


「おい。ブラックネストに行く前に、どんな場所なのか教えろ」


リンが言うと、ナコは「うーん」と少し考えるように天井を見上げた。


「別に……ただの道路だよ。子供がたくさん生活してるだけ」


「それで、どうやって生活しているんだ?」


リンの問いに、ナコは一瞬言葉に詰まる。


「……今は、どうなのか知らない」


「……は?」


思いがけない返答に、リンは眉をひそめた。


「知らないってどういうことだ。お前はブラックネストの子供じゃないのか」


リンの声が少し早くなる。


だがナコはリンから目を逸らし、窓の外をぼんやりと眺めた。


「昔はね。でも……最近は戻ってないかな」


「どういうことだ」


リンの問いに、ナコは小さくため息をつく。


そして、何でもないことのように笑った。


「皆ね、おかしくなっちゃったの」


「……?」


車内にはナコの声だけが響く。


「……ある日、私が街から帰ってきたら、」


ナコは少しだけ言葉を区切る。


「皆、殺し合ってた」


車の中に、重たい沈黙が落ちた。


✳︎ ✳︎ ✳︎


その沈黙を破ったのは、リンだった。


「……それはどういうことだ」


低い声だった。


「……分かんない。どうしてそうなったのかも全く」


ナコは無理に笑顔を作るが、瞳は強く揺れていた。


リンは少しだけ俯き、考えるように黙り込んだ。


「……今もそうなのか?」


「さぁ……?」


ナコは曖昧に首を傾げる。


「私は……怖くなって逃げたから。その後のことは知らない」


リンは顔を上げる。


「逃げて正解だ」


きっぱりと言った。


「そんなところにいたら、死ぬ」


ナコは小さく頷く。


「うん……そうだね」


その声は、どこか悲しそうだった。


「……ごめん。こんなの黙ってて。言ったらブラックネストに来るのやめちゃうんじゃないかと思って」


ナコは俯きながら言う。


その言葉に、リンは迷いなく答えた。


「いや、むしろ逆だ。その現状を、この目で見ないといけない」


リンの瞳に、静かな熱が宿る。


揺らぐことのない、芯の通った光。

それは燃え上がるような激しさではなく――消えることのない意志の火だった。


「リン……お前、バカだな」


「バカ?」


ナコが真剣な表情で言う。


「お前も死ぬかもしれないんだぞ」


その言葉に、リンはふっと小さく笑った。


「俺が死なないように、お前が守れ」


あまりにも当然のように言い放つ。


一瞬、ナコは呆気に取られ――


やがて、ふっと口角を上げた。


「……偉そうに」


だがその声は、どこか楽しそうだった。


✳︎ ✳︎ ✳︎


ナコ達を乗せた車は、高層ビルやデパートが立ち並ぶ繁華街を抜けていった。


煌びやかなネオン。

行き交う人々の笑い声。

ショーウィンドウに並ぶ高級品。


そのすべてが、やがて少しずつ姿を消していく。


ナコの案内に従い、車はさらに奥へと進んだ。


――その時だった。


ナコが、不意に口を閉ざした。


「どうした」


リンが問いかける。


ナコはしばらく答えず、ただ前を見つめていたが――やがて、唇をぎゅっと噛みしめた。


「……そこの角を曲がったら、すぐだから」


絞り出すような声だった。


「そうか。じゃあ、ここで降りるぞ」


「……うん」


ナコは力なく頷いた。


車が静かに停まる。


ドアを開けた瞬間、空気が変わった。


先ほどまでの華やかさは、まるで嘘のように消え失せている。


錆びついたシャッター。

ひび割れた外壁。

人気のない通りに、乾いた風が吹き抜けた。


まるで、この場所だけ世界から切り離されているかのようだった。


「……想像以上だな」


リンが小さく呟く。


彼は眉をひそめながら、空中に舞う細かな粒子を手で払った。

それが埃なのか、砂なのか――判別もつかない。


ナコは何も言わず、歩き出す。


リンと、二人のボディーガードがその後に続いた。


足音だけが、静かな通りに響く。


――そして。


ナコは、ゆっくりと口を開いた。


「……もうすぐだよ」


その声には、これまでにない緊張が滲んでいた。


ナコが突然、足を止めた。


「……おい、どうした」


リンがそう尋ねた、その瞬間――


ナコの身体が、弾かれたように動いた。


地面を蹴り、一気に跳び上がる。


細い脚がしなやかにしなり、空中で大きく弧を描いた。


次の瞬間。


鋭く振り抜かれた回し蹴りが、空気を裂く。


――ガキィン!!


重い金属音が響いた。


ナコの蹴りは、飛来してきたそれを正確に捉え、弾き飛ばしていた。


回転の勢いのまま着地し、ナコは低く身構える。


その視線の先――地面を転がっていたのは、金属バットだった。


「……!!」


リンがはっとして振り返る。


そこに立っていたのは、不気味な笑みを浮かべた少年だった。


年は、十歳ほど。


その後ろには、同じくらいの年頃の少年達が、ぞろぞろと並んでいる。


どいつもこいつも、目がどこか虚ろだった。


「ジョンに、ハンスに、マシュー……か」


ナコが小さく呟く。


そして、ゆっくりとリン達の前へ出た。


両腕を広げ、庇うように立つ。


「ねぇ、ナコだよ。分かる?」


ナコは一歩、また一歩と、慎重に近づいていく。


その表情には、これまで見せたことのない、どこか悲しげな色が浮かんでいた。


「ねぇ……私達を襲っても、何も出てこないよ」


優しく、諭すような声。


「だから、それ……離して」


その言葉に反応するように、少年の一人が、背中に隠していたものをゆっくりと前に出した。


黒く鈍い光を放つ――拳銃。


「――っ」


リン達は、息を呑んだ。


ナコは、静かに少年を見つめた。


その視線を受け止めるように、少年は口を開く。


「ナコ……そいつ、誰だ」


低く、掠れた声だった。


そして、ゆっくりとリンへと視線を向ける。


「金、持ってるだろ」


その目は、明らかに普通ではなかった。


焦点が合っていない。

それなのに――獲物を狙うような光だけが、ぎらついている。


ナコは一瞬だけ言葉に詰まる。


だが、すぐに口を開いた。


「こいつは――私達を助けに来た」


その言葉に、少年はぴたりと動きを止めた。


「……は?」


短い、間の抜けた声。


次の瞬間。


少年達は互いに顔を見合わせ――


「……っ、は」


「はは……」


「ははははっ!!!」


甲高く、歪んだ笑い声が、廃墟の通りに響き渡る。


その笑いは、楽しさから来るものではなかった。


どこか壊れたような、狂気じみたものだった。


ナコの目が、わずかに見開かれる。


「ナコ」


少年が、笑いながら言う。


「それ、騙されてる」


「……っ」


ナコの喉が、ひくりと震えた。


だが――


「騙されて……ない!!」


思わず言い返す。


その声には、わずかな迷いが混じっていた。


一瞬だけ言葉に詰まり――


「……多分!!」


強引に、言い切った。


「多分?」


少年が、鼻で笑う。


「俺たちをどうやって助けてくれんの?」


拳銃を持ったまま、一歩、また一歩と近づいてくる。


「金、くれんのか?」


その言葉と同時に、銃口がわずかに持ち上がった。


ぴり、と空気が張り詰める。


リンの前に、二人のボディーガードが素早く立ちはだかった。

その動きに無駄はない。視線は常に周囲を警戒している。


だが――


ナコは、一歩も引かなかった。


瞬き一つせず、まっすぐに少年を見つめ返す。


「金をあげるなんて、その場しのぎだ」


低く、はっきりとした声。


「それじゃ、何も変わらない」


「はぁ?」


少年の口元が歪む。


「違うだろ。金があれば、なんでもできる」


その言葉に――


ナコは、強く地面を踏みしめた。


「違う!!」


張り裂けるような叫びが響く。


「――こいつは、リンは、もっと根本的なところを見てる!!」


少年達の視線が、一斉にナコへ向く。


ナコは拳を握りしめ、続けた。


「私達ストリートチルドレンが生まれる、この現状そのものを――変えようとしてるんだよ!!」


その瞬間。


ナコの身体が、弾けた。


踏み込みと同時に距離を詰める。


視界から消えたかと思えば――次の瞬間には、少年の懐に潜り込んでいた。


「なっ――」


驚く間もない。


ナコの手が、銃を持つ手首を正確に捉える。


捻る。


奪う。


流れるような動作だった。


「あ、ちょっ……!!」


少年が慌てて取り返そうとする。


だがナコは、軽く身体をひねるだけでその手をかわした。


そして、奪い取った拳銃をひらりと持ち上げる。


「……これ」


静かに言った。


「誰から貰った?」


その声は、先ほどまでとは違っていた。


怒りでも、勢いでもない。


――真っ直ぐな問いだった。


ナコは少年を見据える。


「こんなの渡してくる奴なんかより」


一瞬だけ、背後のリンへと視線を向ける。


「リンの方が――よっぽど信用できる」


無力化された少年は、静かにリンを見つめた。


その視線には、敵意とも、疑いともつかない色が混じっている。


「おい」


苛立ったように、少年が声を荒げた。


「なんか言えよ!!」


その言葉が、張り詰めた空気を震わせる。


――その瞬間。


リンは、一歩前へ出た。


ボディーガードが制止しようとするが、手でそれを制する。


そして、真正面から少年達を見据えた。


「……俺は、この国を変えたい」


静かな声だった。


だが、その場にいる全員に、はっきりと届く。


「そのためには、現状を知る必要がある」


一歩、さらに踏み出す。


足音がやけに大きく響いた。


「だから――」


リンは、まっすぐに少年を見つめた。


逃げることなく。


逸らすこともなく。


「お前達の暮らしを、教えてほしい」


言い切った。


その言葉に、飾りはない。


ただ、真っ直ぐな願いだけがあった。


少年達は、思わず言葉を失った。


先ほどまでの嘲りも、敵意も、わずかに揺らいでいる。


その隙を逃さず、ナコが口を開く。


「私達を見ようとしてくれる人なんて、初めてだろ?」


弾むような声だった。


だがその奥には、どこか期待するような色が滲んでいる。


少年達は、互いに顔を見合わせた。


戸惑い。

疑い。

そして――ほんのわずかな迷い。


やがて。


「……じゃあさ」


一人の少年が、ゆっくりと前に出た。


ナコとリンを、交互に見つめる。


その瞳は、先ほどまでとは違っていた。


ほんの少しだけ、現実に引き戻されたような目。


そして――


「とりあえず、飯くれ」


その一言だった。


✳︎ ✳︎ ✳︎


ナコ達は、少年達の住む道路に腰を下ろしていた。


舗装はひび割れ、ところどころにゴミが散らばっている。


そんな場所で――


子供達は、夢中になってパンをかじっていた。


「……うま……」


「久しぶりに、食いもん食った……」


かすれた声が、ぽつぽつと漏れる。


その様子を、リンは黙って見ていた。


ナコはというと――


パンを頬張りながら、満面の笑みを浮かべている。


「持ってきて良かっただろ?」


得意げに言って、ぐっと親指を立てた。


「飯は世界を救う!!」


あまりにも単純で、力強い言葉。


リンは一瞬だけ目を細め――


小さく、頷いた。


✳︎ ✳︎ ✳︎


少年達がパンを食べ終わった頃、リンの提案でブラックネストの内部を案内してもらうことになった。


細い路地を抜けながら、少年達はぽつりぽつりと説明をしてくれる。


「あの人は、ああ見えて優しいんだ」とか、

「ここは寝る場所にしてる」とか。


そのどれもが、特別なものではない。

ただ、そこに“暮らし”があるだけだった。


「……思ったより普通だな。本当に殺し合いなんかあったのか?」


リンは隣を歩くナコに、小声で問いかける。


ナコは少しだけ視線を落とし、静かに答えた。


「……確かにこの目で見た」


その言葉に、リンは何も返さなかった。


ただ前を歩く少年達の背中を、じっと見つめる。


やがて、リンは口を開いた。


「……おい。ハンス、と言ったか」


呼ばれた少年は前を向いたまま歩き続ける。


「ここで、殺し合いがあったのは本当か?」


リンが低く問いかける。


その瞬間、ナコは思わずリンの腕を引いた。


「バカ!!」


小声で叱りつける。

ようやく場の空気が和らいできたところだというのに、あまりにも踏み込みすぎている。


だがリンは意に介さず、ただハンスの背中をじっと見つめていた。


やがてハンスが足を止める。


ゆっくりと振り返り、いつもの柔らかな笑みを浮かべた。


「ナコがそう言ったの?」


その視線が、まっすぐナコに向けられる。


ナコは一瞬、言葉を失った。


「……いや。警察が言っていたのを聞いた」


リンが間を置かずに答える。


するとハンスは、ぱっと表情を明るくした。


「そうなんだぁ。いやぁ、僕は知らないなぁ」


あまりにも軽い調子だった。


その笑顔が、かえって不自然に見える。


――その時だった。


「ギャハハハハ!!!」


どこからともなく、不気味な笑い声が響いた。


乾いた、耳障りな笑い。


リンとナコは同時に顔を上げ、声のした方へと視線を向ける。


だが――


ハンスだけが、違う方向を見ていた。


まるで、何も聞こえていないかのように。


「……ねぇ、今の」


ナコが戸惑いを含んだ声で言う。


ハンスはきょとんと首を傾げた。


「どうしたの? さ、まだまだ案内するよ」


あまりにも自然な反応。


それが逆に、不気味だった。


リンとナコは顔を見合わせる。


そして――


「今の、笑い声……」


言葉を交わすよりも早く、二人は同時に駆け出していた。


笑い声のした方向へ。


その背中を見送りながら、ハンスの表情がわずかに歪む。


「……チッ」


小さく舌打ちが漏れた。


次の瞬間、ハンスはすぐに表情を消し、二人の後を追う。


その手には――


黒く鈍い光を放つ拳銃が、しっかりと握られていた。


✳︎ ✳︎ ✳︎


ナコが前を歩き、その後ろを二人のボディガードがついてくる。

リンは、その間に挟まれるように歩いていた。


――その時だった。


ナコが、不意に足を止める。


「ララ……」


かすれた声が漏れる。


次の瞬間、ナコは駆け出していた。


「おい!」


リンが呼び止める間もなく、ボディガードたちも後を追う。


ナコが駆け寄った先にいたのは、小さな少女だった。


年は十歳ほどだろうか。

ボロボロの服をまとい、錆びついたシャッターに背を預けて座り込んでいる。


だが――


その様子は、明らかに異様だった。


少女は、何か小さなものを手に握りしめたまま、絶え間なく笑い続けている。


「……ッ、ふふ、あはは……」


途切れることのない、壊れたような笑い声。


「知っているのか」


追いついたリンが低く尋ねる。


ナコは、小さく頷いた。


「ララっていうの……すっごく優しい子で……」


声が震えている。


ララは虚ろな目で宙を見つめていた。

そこにナコがいることすら、認識していないようだった。


「ララ……私だよ、ナコだよ……」


恐る恐る、ナコは手を伸ばす。


そして――


ララの手のひらに、そっと触れた。


「嫌っ!!」


甲高い叫び声が、路地に響いた。


ナコの肩がびくりと震える。


「どうして……? 何が……」


言葉を続けようとした、その瞬間。


ララの手のひらにあるものが、ちらりと見えた。


「……四角い……飴……?」


それは、小さな粒だった。


角ばった形をした、不自然な青色。


明らかに――まともな食べ物ではない。


「……これって……」


ナコの喉が、ひくりと鳴る。


――「四角い、飴は……絶対に、食べ……るな」


脳裏に、過去の声が蘇る。


「レンが言ってた……この飴は食べるなって!!」


弾かれたように顔を上げた、その時だった。


――背後。


ボディガードのすぐ後ろに、不気味なほど大袈裟な笑みを浮かべたハンスが、立っていた。


いつから、そこにいたのか。


気配すら、なかった。


その手には――拳銃。


黒く光る銃口が、ゆっくりと持ち上がる。


狙いは。


ボディガードの頭部。


「危ない!!」


ナコの叫びに反応し、ボディガードがわずかに視線を横へ動かす。


その瞬間だった。


ボディガードは迷いなく踏み込み、ハンスの手首を強く掴む。


そして――


そのまま、体ごと引き寄せた。


「ッ――!」


勢いを利用したまま、肩を軸にして一気に投げる。


ハンスの体が宙を舞い、地面へと叩きつけられた。


鈍い音が路地に響く。


一瞬、全員が言葉を失った。


「ボディガードさん!! すごい!!」


ナコが思わず声を上げる。


――だが。


次の瞬間。


倒れたままのハンスが、ゆっくりと腕を持ち上げた。


その手には、拳銃。


黒い銃口が、ぶれることなく――リンを捉えていた。


「これを引いたら、終わりだね」


ハンスは、まるで遊びの延長のような軽さで笑う。


場の空気が、凍りついた。


もう一人のボディガードが、即座にリンの前へと出ようとする。


その刹那。


シュッ――


乾いた音が走る。


「っ……!」


ボディガードの脚に弾丸が撃ち込まれた。


膝が崩れ、地面に片足をつく。


「……ハンス!! なんで、こんなことするの!?」


ナコが叫ぶ。


怒りと混乱が、声に滲んでいた。


ハンスは、楽しげに目を細める。


「だって――」


一拍、間を置く。


「見ちゃったんでしょ? その薬」


「薬……?」


ナコの声が、かすれる。


ハンスが、ゆっくりと口を開く。


「その四角い飴はね――」


わずかに笑みを浮かべる。


「みんなが幸せになれる薬なの。ほら、ララだって楽しそうでしょ?」


ナコの表情が、凍りついた。


「……それ、本気で言ってるの?」


震える声。


一歩、踏み出す。


「どこが楽しそうなの……!? あんなの、ただ壊れてるだけじゃない!」


声が、次第に強くなる。


「昔のララを返してよ……!!」


叫びが、路地に響いた。


その言葉を受けて、ハンスは一瞬だけ目を伏せる。


だが――すぐに顔を上げた。


ナコを、強く睨み返す。


「これでいいんだよ!!」


今度は、ハンスの声が震えていた。


「その薬があれば、空腹だって忘れられる!! 嫌なことだって、全部!!」


叫びは、どこか必死だった。


押し殺していたものが、溢れ出るように。


「……ナコだって分かるだろ」


低く、掠れた声になる。


「こんな場所で、普通に生きるなんて――無理なんだよ」


言い切ったあと、ハンスはふっと目を伏せた。


その瞬間。


張り詰めていた力が、わずかに緩む。


隙を逃さず、上に押さえ込んでいたボディガードが動いた。


ハンスの手から拳銃を奪い取る。


乾いた金属音が、小さく響いた。


――制圧。


それを確認したハンスは、


「……はぁ」


と深く、息を吐いた。


どこか諦めたような、力の抜けた吐息だった。


ナコはゆっくりとハンスに歩み寄った。


その足取りに、先ほどまでの怒りはない。


ただ、そっと寄り添うような静けさだけがあった。


「……ねぇ」


やわらかな声で、ナコは呼びかける。


「きっかけが、あったんでしょ?」


ハンスの肩が、ぴくりと震えた。


「その薬も……拳銃も。誰からもらったの?」


責めるような響きは、どこにもない。


ただ、包み込むような優しさだけがあった。


「……っ」


ハンスは唇を強く噛みしめる。


しばらくの沈黙のあと――


観念したように、小さく口を開いた。


「……男が、来たんだよ」


ぽつりと落ちる言葉。


「この薬を飲めば、幸せになれるってさ」


乾いた笑いが、喉の奥で滲む。


「危ないってのは、分かってた」


自嘲気味に、ハンスは続けた。


「……でもあのときさ」


一瞬、言葉が途切れる。


「レンも死んで……俺たち、もうおかしくなってたんだよ」


その声は、どこか遠くを見ているようだった。


「……絶望しか、なかったんだ」


静まり返った空気の中で――


「……レンって、誰だ?」


リンが、独り言のように呟く。


その問いに、ハンスもナコも同時に目を伏せた。


重い沈黙。


やがて、ナコが口を開く。


「……レンは」


その声には、感情が乗っていなかった。


「私たちのリーダーだった」


短く、それだけを告げる。


だが、その一言の重みは大きかった。


「レンはさ……」


ハンスが、震える声で続ける。


「俺たちに食べ物をくれたし、楽しい話もしてくれた」


拳を握りしめる。


「いつだって、俺たちを守ってくれたんだ」


言葉が、少しずつ熱を帯びていく。


「……なのに」


声が震える。


「レンが死んだら――」


堪えていたものが、決壊する。


「俺たちには、何も残らねぇんだよ!!」


叫びとともに、涙が溢れた。


大粒の雫が、ぽたぽたと地面に落ちていく。


止めようとしても、止まらない。


それはまるで――失ったものの大きさを、証明するかのようだった。


「……そうか。レンは、お前たちにとって大事な人間だったんだな」


リンは静かにそう告げた。


そして、間を置かずに続ける。


「――レンは、どうして死んだんだ?」


その一言に、ナコの身体がぴくりと反応した。


小刻みに、震え始める。


「……おい、どうした」


リンが声をかけるが、ナコは答えない。


ただ、俯いたまま動かない。


リンが一歩、近づこうとした――そのとき。


「……レンは」


かすれた声が、空気を震わせた。


「レンは……殺された」


ゆっくりと、ナコの口が開く。


その言葉に、リンはわずかに目を見開いた。


「……この目で見たの」


ナコの視線は、どこか遠くを見ていた。


「男に、銃で撃たれて……死ぬところを」


――その瞬間。


「……ナコ」


やさしい声が、脳裏に響く。


同時に、別の声が重なる。


冷たく、鋭く、突き刺すような声。


――『お前のせいでレンが死んだ!!』

――『レンを助けろよ!!』

――『なんでお前が生きてんだよ!!』


「……っ」


ナコは強く唇を噛みしめた。


呼吸が、うまくできない。


「……私は」


絞り出すような声。


「レンを守れなかった」


その一言は、あまりにも重かった。


「だから……私は、ここを離れたの」


逃げるように。


何もかもを置いて。


「……でも」


ナコの指先が、かすかに震える。


「数日後に、戻ってきたら……」


言葉が、途切れる。


その続きを、言うことができない。


沈黙が、場を支配した。


「……薬でおかしくなった子供たちが」


リンが、静かに言葉を継ぐ。


「殺し合いをしていた――というわけか」


その声音に、感情はない。


ただ事実を確認するだけの、冷静さ。


ナコは、ゆっくりと頷いた。


リンは何も言わず、腕を組んだまま思案していた。


その視線はどこか遠くを見ている。


一方で、ハンスはじっとナコを見つめていた。


「……ナコ」


「え?」


不意に呼ばれ、ナコは顔を上げる。


ハンスの視線と、まっすぐにぶつかった。


「……ごめん」


短い言葉だった。


だが、その一言には確かな重みがあった。


ハンスは目を逸らさない。


逃げることなく、ナコの瞳を捉え続ける。


「僕たち、ナコに酷いことを言った。……ずっと、謝りたかった」


その声は小さく、それでもはっきりと届いた。


ボディガードがハンスを立ち上がらせる。


だが何も言わず、ただ静かに成り行きを見守っていた。


立ち上がったハンスは、少し見上げる形でナコを見る。


そして、ぽつりと続けた。


「……それと」


一度、言葉を区切る。


「戻ってきてくれて、嬉しかった」


「え?」


思わず、ナコは聞き返した。


ハンスは気まずそうに視線を逸らし、頬をかく。


「いや……その……」


歯切れの悪い声。


「レンもナコもいなくなったらさ……僕たち、頼れるやつがいなくて」


言葉を探すように、少しだけ間が空く。


「……結構、その……寂しかったというか」


その一言を聞いた瞬間――


ナコの表情が、ぱっと明るく弾けた。


「えっ!? 寂しかったの!?」


弾むような声。


さっきまでの重苦しい空気が、一瞬で軽くなる。


ハンスは居心地悪そうに俯いた。


「……本当はさ」


ぼそりと、呟く。


「今のままじゃダメだって、分かってる」


拳を、ぎゅっと握る。


「だから……ナコが、そいつと一緒に来てくれて」


ちらりとリンの方を見る。


「……ちょっと、期待しちゃった」


照れ隠しのように、視線を逸らした。


その姿を見た瞬間――


ナコは勢いよく跳ねた。


そして、そのままハンスに飛びつく。


「んもーーっ!!」


ぎゅうっと、強く抱きしめた。


「お前、可愛いな!? そうだよ、ハンスはそうでなくっちゃ!!」


屈託のない笑顔が、そこにあった。


されるがままのハンスだったが――


その表情には、どこか安堵の色が浮かんでいた。


強張っていた肩の力が、ゆっくりと抜けていく。


その様子を見ていたリンは、ふと二人のボディガードと視線を交わした。


ボディガードたちは何も言わず、ただ穏やかに微笑んでいる。


それを見て、リンもわずかに口元を緩めた。


ほんの一瞬だけ――柔らかな表情になる。


「……あのさ、ナコ」


「ん?」


ハンスが、ぽつりと声をかける。


先ほどまでとは違う、どこか引き締まった声音だった。


ナコはハンスを抱きしめたまま、顔だけを少し離して彼を見る。


ハンスは真っ直ぐにナコを見返した。


「僕も、頑張る」


短く、だがはっきりとした言葉。


「薬も、人殺しも……人を不幸にするだけだ」


一度、言葉を区切る。


そして、静かに続けた。


「だから、全部やめる」


その決意は、もう揺らがないように見えた。


ナコの目が、ぱっと輝く。


「ハンスぅーー!!」


次の瞬間、さらに強く抱きしめた。


ぎゅう、と力がこもる。


「ぐっ……く、苦し……っ」


ハンスが息苦しそうにもがく。


だが、その声すらどこか嬉しそうで――


ナコはお構いなしに抱きしめ続けた。


その光景は、あまりにも無防備で、あまりにも温かかった。


誰の目から見ても――


それは、確かに“幸せ”と呼べるものだった。


そのため――


誰も気づかなかった。


彼らのやり取りを、遠くから静かに見つめる“人影”の存在に。


✳︎ ✳︎ ✳︎


「ナコ、いつまでソイツのボディガードするんだ?」


帰り際。


ハンスは他のストリートチルドレンたちと並び、ナコたちを見送っていた。


どこか名残惜しそうな空気が、その場に漂っている。


「んー、分かんない」


ナコは肩をすくめる。


「コイツの気が済むまで?」


そう言って、隣にいるリンを指差した。


その指を、リンが無言でそっと下ろさせる。


そして、ハンスたちに向き直った。


「……また明日も来る。今日はありがとう」


短く、だが確かな言葉。


「おう!」

「ナコを怒らせると怖いぞー!」

「そーだそーだ!」


少年少女たちの笑い声が、一斉に弾ける。


荒んでいたはずの場所に、不思議と温かい空気が満ちていた。


やがて、リンが車へと乗り込む。


ナコも続こうと、一歩踏み出した――そのとき。


「ナコ!」


ハンスの声が、背中を引き止めた。


ナコは足を止め、ゆっくりと振り返る。


ハンスはまっすぐナコを見ていた。


そして――


「お前、幸せになれよ!!」


力いっぱい、そう叫んだ。


その笑顔は、どこまでも明るくて。


まるで、曇りを知らない空のようだった。


ナコは一瞬だけ目を丸くし――


すぐに、ふっと笑った。


「お前たちもな!!」


言葉を返すその声は、どこまでもまっすぐで。


そして、どこまでも優しかった。


そのやり取りを最後に、ナコは車へと乗り込む。


扉が閉まり、ゆっくりと車は動き出した。


手を振る子どもたちの姿が、少しずつ遠ざかっていく。


ナコたちが去った後――


その場に残されたハンスたちは、まだどこか浮かれた空気のままでいた。


「なあ、明日も来るってさ」

「マジかよ、ナコ」

「相変わらずだなぁ」


小さな笑いが、夜の路地にこぼれる。


だが――


「……楽しそうだな」


不意に、低い声が響いた。


全員の動きが止まる。


振り返った先。


そこに、一人の男が立っていた。


暗がりに溶け込むような、無機質な気配。


その姿を見た瞬間――


ハンスの背筋に、冷たいものが走る。


「……あ……」


喉が、ひくりと震えた。


「お前……」


あの男だ。


薬を渡し、拳銃を与えた――すべての元凶。


「……あの、僕達」


ハンスは、震える声で言葉を紡ぐ。


「もう、やめるんだ。こんなこと……全部」


必死に、伝えようとする。


さっき決めたばかりの“これから”を。


だが。


「そうか」


男は、短く答えた。


次の瞬間。


乾いた音が、辺りに響く。


――パン。


何が起きたのか、理解する間もなかった。


一瞬だった。


本当に、一瞬で。


その場にいた子どもたちは、次々と倒れていく。


声も、悲鳴も、ほとんど上がらなかった。


ただ、静かに。


命だけが消えていった。


最後に残ったハンスが、崩れ落ちる。


視界が揺れる中で――


ふと、ナコの顔が浮かんだ。


「……っ」


何かを言おうとして。


そのまま、動かなくなった。


男は、無表情のままそれを見下ろしていた。


やがて、ポケットから何かを取り出す。


ガソリンの入った容器だった。


躊躇なく、それを撒く。


そして――


火をつけた。


炎が、一気に燃え上がる。


夜の闇を、赤く染め上げながら。


男は振り返ることもなく、その場を去った。


まるで、最初から何もなかったかのように。


✳︎ ✳︎ ✳︎


その日の夜。リンの屋敷。


ベッドに入っていたリンは、ふと目を開けた。


理由は分からない。


ただ、妙な違和感が胸に残っていた。


「……」


静かに起き上がる。


そして、何気なくテレビの電源を入れた。


画面が光る。


次の瞬間――


「……は?」


速報のテロップが流れた。


『ブラックネストにて火災発生。放火の可能性』


映し出される、炎に包まれた街の映像。


リンの目が見開かれる。


「……ナコ」


その名を、低く呟いた。


✳︎ ✳︎ ✳︎


数分後。


ナコの部屋の扉が、勢いよく開かれる。


「おい!」


「ん……夜這いか……?」


眠そうに目をこするナコに、リンは言った。


「……ブラックネストが、燃えている」


その一言で。


ナコの表情が、凍りついた。


✳︎ ✳︎ ✳︎


夜のブラックネスト。


報道陣や野次馬の騒がしい声、けたたましいサイレンの音。


ナコ達は人混みを掻き分けた。


そこで目に入ったものは――


「……え?」


昼間、ハンス達とパンを食べたその一角が、燃え盛る赤い炎に包まれていた。


消防士達が消火活動をする中で、次々と黒い塊を運んでいく。その塊から、ハラリと落ちたのは見覚えのある布切れ。


「ハンスの服……」


焦げた匂いが、空気にまとわりつく。


「……うそ、だろ……」


震える声。


一歩、踏み出す。


「……ハンス?」


返事は、ない。


「……みんな?」


何も、返ってこない。


その瞬間。


「――やだ……」


ぽつりと、零れた。


「やだ……やだ……やだやだやだやだ!!」


ナコが、崩れ落ちる。


地面に手をつき、声を張り上げる。


「嘘!? さっきまで、あんなに……!」


涙が止まらない。


叫びが、夜に響く。


「なんで!!」


その声は、誰にも届かない。


隣で。


リンは、何も言わなかった。


ただ――


強く、唇を噛み締めていた。


血の味が、口の中に広がる。


しばらくの沈黙の後。


リンが、低く呟いた。


「……ふざけるな」


怒りとも、絶望ともつかない声。


ナコは、涙で濡れた顔のまま顔を上げる。


その目には、もう別の光が宿っていた。


「……絶対に」


震える声。


だが、確かに芯がある。


「絶対に、犯人を捕まえる!!」


その言葉に。


リンは、静かに頷いた。


そして――前を見据える。


「俺達が――」


夜の焼け跡を見つめながら。


はっきりと、言い切った。


「この腐った世界を、変えてやる」

読んでいただき、ありがとうございました!

本当はハッピーエンドにしたかったのですが、物語的にまだ早いと思い、こんな形になりました。

感想などありましたら、是非教えてください!!

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