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偽鬼灯

作者: Ono
掲載日:2026/02/17

 昭和四年、九月一日。風には早くも秋の気配が混じり始め、東京の夜気がひんやりと宗介の肌を撫でた。

 あの日――関東大震災から、ちょうど六年が満ちる夜だった。

 東京府の大通りは復興が叶いつつある。しかし人々の瞳の奥に未だ拭いきれない影が落ち、日本の空には星も見えない煤けた暗がりだけが広がっていた。


 家路を急ぐ宗介の影も路地の闇に溶けている。心臓の辺りで何かが早鐘を打つ。

 新しい家の軒先に、赤い提灯が一つ揺れる。その仄かな朱色は熟れた鬼灯のように、闇の中でぼんやりと膨らんで宗介を迎えた。

「おかえりなさい、宗介さん」

 凛と涼やかな声と同時に引き戸が開き、嬉しそうな千代子の笑顔が宗介を迎えた。

 結い上げた髪の後れ毛、白い割烹着姿。変わらない、愛しい恋人。


「ああ、ただいま」

 宗介は努めて明るく彼女に応える。

 上がり框に腰を下ろす。靴は脱がなかった。もう、その必要がないからだ。

 千代子はいそいそと彼の隣、触れるか触れないかの距離に座る。宗介はすぐそばにいる彼女に手を伸ばそうとはしなかった。


「銀座に新しいカフェができていた」

「モボやモガが闊歩しているそうです。でも、この辺りは昔と変わりませんね」

「俺はここの匂いが好きだよ」

「ふふ……、宗介さんらしい」

 千代子が微笑む。彼らは他愛ない話をして過ごした。近所の田中さんの家の犬が子を産んだこと、ラジオから流れる流行歌のこと、復興局が決めた新しい区画整理のこと。

 昨日もこうして話していたかのように。あるいは、明日もまたこうして話せるかのように。


 けれど、夜は必ず明ける。

 東の空が白み始めて軒先の提灯の明かりが頼りなくなり始めた頃、宗介は意を決して口を開いた。

「千代子」

「はい」

「栄一と、一緒になってくれないか」

 千代子の細い肩が小さく跳ねた。

 栄一は彼の幼馴染であり、親友だ。この六年間、奇跡的に震災を生き延びた千代子を、決して出過ぎた真似をせずに支え続けてくれた男だった。


「……嫌。ひどい冗談よ」

「あいつなら安心だ。俺はお前を一人にしたくない」

「嫌です」

 千代子は強く首を横に振った。伏せた睫毛が震えている。

「私は、いつまででもあなたを待っています」

 その言葉が宗介の胸を打つ鐘の音だった。


 この六年間、千代子は一度たりとも宗介の法要を行っていない。位牌も作らず納骨もせず、だから宗介は今も()()にいた。

 恋人が死んだことを、彼女は頑として認めようとしなかったのだ。

 宗介はこうして毎晩のように、彼女が灯す明かりのもとに帰ってこれてしまった。彼女の執着が宗介を現世に繋ぎ止める鎖だった。


「ごめんな。千代子」

 彼は苦く笑い、自分の白く透けた手を見つめた。

「でも、俺はもう鬼籍に入っているんだ。お前を連れてはいけないよ」

 千代子が顔を上げる。

「……宗介さん」

 彼女の手が躊躇いがちに宙を彷徨う。指先が触れて、彼の存在を霧散してしまうことを恐れるかのように。


 宗介は六年ぶりに、そっと手を伸ばした。

 彼女の涙を拭ってやろうとその頬に触れた刹那、乾いた音が静寂を揺らした。

 熟しきった鬼灯の実が弾けるのに似た、小さな破裂音だった。

「あ……」

 千代子の声が遠くなる。


 軒先の提灯の明かりが落ちて、東の空から朝陽が射し込む。宗介の輪郭もまた朝霧のように溶けていった。

「幸せになれ、千代子。栄一と……」

 最期の言葉が彼女に届いたかどうかは分からなかった。

 宗介の視界が白く染まり、彼は愛しい人の泣き顔と共に、その場から掻き消えた。


 ***


 翌、昭和五年。復興局は復興事務局へと改組され、帝都はまた姿を変えてゆく。

 前年にニューヨークで始まった株価大暴落の波が、ついに日本にも押し寄せていた。不況の嵐が吹き荒れ、町には失業者が溢れかえっている。

 農村の窮乏、殺伐とした空気が漂う中、軍靴の足音が遠くから忍び寄ってくる。そんな激動の時代の入り口で迎える九月一日。


 去年と同じ玄関先に、二人の男女の姿があった。千代子と彼女の傍らに寄り添う栄一だった。

 千代子の髪型は少し変わり、その表情には拭えぬ悲しみを含んだ穏やかさがあった。

 栄一は少々不器用ながらも丁重な手つきで、玄関の柱に植物を飾っている。

 鮮やかな朱色の実をつけた、鬼灯の束。

 それは死者を導く提灯であり、もう迷い込ませないための結界のようでもあった。

「これで、いいんだな」

 栄一が低く問うと、路地の影が静かに揺れる。

 二人は並んで手を合わせた。その左手の薬指には、揃いの指輪が鈍く光っていた。


 宗介は遠い辻の影から二人の様子を見ていた。

 あの敷居を跨ぐ夜は永久に訪れない。寂しさが穿った胸の空洞を、それでも安堵が満たしていた。

 さらなる苦難の時代がやってくるのだろう。だが、二人ならば支え合って生きられる。栄一がついていてくれるなら、千代子は笑って暮らしてゆける。

 ――本当は、俺が守ってやりたかったけれど。

 宗介を繋ぎ止めていた鎖は解かれ、本当の意味で彼岸の住人になったのだ。


 一陣の風が吹く。鬼灯がかさりと揺れた。

 彼女のもとに帰るのは、生者だけでいい。

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