39.歩き出すために
庭の草木が青々と茂り、少し汗ばむような季節になってきた。あの初めてのデートから、私達は何度も街へ出かけた。
流行りの映画を観に行ったり、乗馬をしたり、美味しいものを食べ比べたり……
一人では味わうことのなかった世界が、少しずつ広がっていく。そして、その楽しさを好きな人と共有できることが――とても嬉しかった。
つらつらと思い出しながら物思いにふけっていると、屋敷の方から見慣れた背の高い姿が歩いてくるのが見えた。今日も、相変わらずきっちりとした格好をしている。
「待たせたか?」
「いいえ、来てもらってありがとうございます」
隊長は、私の横に座ると少しだけ胸元を寛げた。
「ふふっ、毎回、フォーマルな格好をしてこなくて良いのですよ? もう、何度も来ているでしょう?」
私がこの家に戻ってきてから、隊長はかなりの頻度で見舞いに来てくれていた。そのおかげで、もうすっかり家族とも顔見知りになっている。それでも、ここに来るときは隊服かスーツだった。
「お前な……付き合っている相手の親に会うかもしれないのに、流石に適当な服は不味いんじゃないか? それに、公爵邸だぞ? お前だって綺麗な服を着ているだろうが」
「これは普段着ですよ? でも……せっかく隊長に会うのに、変な格好は見せたくないですし」
「っ、そうか」
何となく視線を合わせにくくて、横に置いていたバスケットを手に取る。蓋を開けて、中からサンドイッチや飲み物を出し始めると、隊長も手伝ってくれた。
そのまま、二人で手を合わせて食べ始める。シャキリと口の中で新鮮なレタスが音を立てた。
「美味いな。特にこのマスタードが効いているのが良い」
「気に入っていただけたなら良かったです」
何度も試作をしたかいがあった。隊長が辛いものも好きだと気づいてから、家の料理人に色々相談しながら作ったのだ。
嬉しくなって、あれもこれもとバスケットから様々な具材のサンドイッチやデザートの焼き菓子を出していく。隊長はそれらをぺろりと平らげた。
保温瓶に入れていた温かい紅茶を飲んで一息つく。
庭を抜ける風が心地よく、木々の葉がさらりと音を立てている。
「そういえば」
隊長が私と同じように紅茶を一口飲んでから、こちらを見た。
「デルタの復帰の話は、どうなっている」
思わず、手にしていたカップを見つめた。
「……来ています。復帰の打診は」
「そうか」
短く返事が返ってくる。その声はいつも通り落ち着いていた。
けれど。
私は少しだけ視線を落とした。
「でも……少し、不安なんです」
隊長の視線がこちらに向くのが分かる。
「魔晶石のことか?」
驚いて顔を上げる。隊長は何てことのない表情をしていた。
「分かりますか」
「顔に書いてある」
そう言われて、思わず小さく笑ってしまう。けれど、その笑みはすぐに消えた。
「私、覚えているんです。隊長たちと別れたあの後、自分が何をしたのか」
カップを持つ指先にぎゅっと力が入る。
「私が帝都を襲ったあの魔晶石に取り込まれていた、というのは、シルヴァ様から聞いていますよね。私、自分から行ってしまったんです。魔晶石のもとに」
言葉が少しだけ詰まる。
「守るために、選んだはずなのに……結局、皆を危険にさらして、傷つけてしまいました」
今でも頭から離れることは無い。あの時、魔晶石を通して見た光景。聞こえた、市民の声。
「ずっと考えているんです。私が行動を起こすことで、もしも魔晶石が暴走したら。また、同じように選択を誤ってしまったら、って」
「……そうか」
隊長が短く息を吐きだす。風に揺れた草木が緩くたわむ。
「だが」と、隊長の声が小さく聞こえた。
「守るために、魔晶石のもとへ向かったんだろう」
「……はい」
小さく頷くと、隊長は明るく言い放った。
「なら、それでいい」
「え……?」
思わず顔を上げる。視線の先で、隊長は静かに言った。
「結果はどうあれ、その時のお前は“守る”ことを選んだ」
責めるでも、慰めるでもない。ただ事実を述べるような声音。胸の奥が少しだけ軽くなる。
けれど、まだ不安は残っていた。
「でも……もし、また」
言いかけた言葉を、隊長が静かに遮る。
「次は違う」
紅い瞳が、まっすぐこちらを捉える。
「お前一人で判断する必要はない。デルタには仲間がいる。俺もだ」
だから、と隊長は続けた。
「一人で抱え込むな」
何も言えずに固まる私に、ふ、と笑みを漏らす。その顔は少しだけ呆れたような表情だった。
「……まったく。お前は、そういうところがある。悪い癖だぞ」
「すみません」
「謝るな」
即座に返ってきた言葉に、また謝りそうになって、慌てて口をつぐむ。お互いに顔を見合わせて、思わず笑い声が漏れた。
「ああ、それと、もう一つ」
急に真剣な表情に逆戻りした隊長に、背筋が伸びる。
「いい加減、隊長はやめろ」
なかなか言えていない自覚はあって、肩身が狭くなる。隊長が、呼ばれたがっていることにも気づいてはいた。
「イ…………隊長」
「直ってないぞ」
やり直し、と言われて彼の正面を向かされる。余計に恥ずかしさが増して、いたたまれない。
「……イヴァン」
「ん。やればできるじゃないか」
「な、慣れないんです……」
羞恥で視界が潤んでくる。でも、彼はやめてくれなかった。
「そのうち慣れる。ほら、もう一回」
「イ、イヴァン」
よくできましたとばかりに目を細めて頭を撫でてくる。大きな手の平は温かくて、安心する。さっきまで胸を締め付けていた不安が、少しだけ遠くなっている。
きっと、まだ怖い。それでも、一人じゃないのなら。
「デルタの件、もう一度ちゃんと考えてみます」
そう言うと、イヴァンは静かに頷いた。
「急がなくていい。だが――」
そっと、イヴァンが額を寄せてくる。目を閉じたまま、静かに呟いた。
「お前が戻るなら歓迎する」
待っていると言ってくれている。そんな気がして、胸の奥がふっと軽くなった。
庭を抜ける風が、やわらかく頬を撫でる。
建国祭の季節が、もうすぐそこまで来ていた。




