30.父の手
「こんにちは、レナード様! 今日もルナお嬢様に会いに来られたんですね」
すっかり顔見知りになった門番に挨拶をすると、すぐに門が開かれる。俺は足取りも迷わずに、アーク公爵家の屋敷へと進んでいった。
使用人に案内され、庭を抜けると、中央にテーブルの置かれた温室にたどり着いた。その席に、フォルテと母親が座っている。足元には黒い狼―――ナイトも伏せていた。
「今日もいらしてくださったのね。いつもありがとうございます。……ほら、ルナ、レナード様がいらっしゃったわ」
母親の呼びかけに対しても、フォルテがこちらを向くことは無い。俺はフォルテの前にしゃがみ込み、そっと手を取った。手のひらは冷たく、力もない。それでも俺の手を拒むことはなかった。それだけで、胸の奥が少しだけ軽くなる。
「フォルテ、調子はどうだ? 今日は少し顔色が良いか? ……これはお前へのお土産だ。気に入ってくれるといいんだが」
手の上にガラス細工の猫がついたキーホルダーを乗せる。これは、先日任務で訪れた地方の伝統工芸品だ。その仕草や表情がなんとなくフォルテを思い起こさせ、つい買ってしまった。
手の平の感触に気づいたのか、フォルテの視線がゆっくりと手元へ落とされる。
「まあ、可愛らしい猫。ルナ、良かったわね」
じっとキーホルダーを見たまま、動くことは無い。
そのとき、足元で伏せていたナイトが身体をぶるぶると振って立ち上がる。金色の瞳が一度こちらを見て、それからフォルテの手の上にあるキーホルダーへと向けられる。
鼻先を寄せ、くん、と小さく匂いを嗅いだ。
「……ナイト?」
母親がどうかしたのかと尋ねるように名を呼ぶ。ナイトはフォルテの顔を見上げると、まるで様子を確かめるように再度鼻先を動かす。そして満足したのか、小さく尻尾を揺らして再び足元に伏せた。
「ナイトの審査は合格かしら」
ほっと温かい空気が流れる。心なしか、フォルテの表情も微笑んでいるように見えた。
「レナード様」
俺が顔を上げると、母親は穏やかな声で続けた。
「お茶を用意してきますわ。ここは暖かいけれど、外からいらしたばかりでしょう?」
「いえ、お構いなく―――」
言いかけたところで、母親は小さく首を振った。
「いいえ。私も少し席を外した方が、ルナも落ち着くかもしれませんから」
その言葉に、思わず口を閉じる。母親は立ち上がると、フォルテの肩にそっと手を置いた。
「すぐ戻るわ。ルナ、レナード様のお相手をお願いね」
返事はない。それでも母親は気にした様子もなく微笑み、ゆっくりと温室を出ていった。
温室の中が、静寂に満ちる。けれど、嫌な空気ではない。
風に揺れた葉が、さらりと音を立てた。
俺はフォルテの手を包み込むように握ったまま、小さく息をつく。
「お前、こういうの好きだったよな」
少しだけ、懐かしい声になってしまう。
「任務先で可愛い猫の小物を見つけるたびに買っていただろう? アイリーンから聞いたぞ。部屋の中は猫だらけだって」
ナイトがふん、と鼻息を漏らす。その顔は不機嫌寄りだ。
「そうだな、これからはナイトに似た狼の小物も増えるのか?」
それでいい、というようにナイトの尻尾が一振り揺れた。俺はそれ以上何も言わず、手の温もりを感じる。間違いなくここにフォルテがいることが、嬉しかった。
やがて、ナイトがふっと顔を上げた。耳をぴくりと動かし、温室の入口の方を見る。
俺もつられて視線を向けると、ガラス越しの向こう、庭の小道に一人の男の姿があった。
アーク公爵―――フォルテの父だ。
こちらに気づいているのかどうか分からない距離で、足を止めていた。温室の中を、静かに見つめている。
その視線の先は、フォルテ。声をかけることもなく、ただその場に立っている。
そして、一瞬だけ俺と視線が交差した。何も言わないまま、ゆっくりと踵を返す。
足音は、温室までは届かない。
ただ、去っていくその背中は、どこか重く見えた。
* * *
深夜。月明かりが淡く差し込む室内を訪れる、1人の人影があった。
部屋の奥にあるベッドへ目を向けて、片眉を上げる。
「眠れないのか、ルナ」
彼の愛娘は上半身を起こして何もない空虚をただじっと見つめていた。その手には、昼間、娘の上司が持ってきたというガラス細工が弱く握られている。
ふ、と一息吐くと、彼は娘のベッドへと腰かける。少しためらった後、その手をこわごわと娘の頭へ置いた。
ぽん、ぽん―――
少しぎこちない手つきで、一定のリズムを刻みながら時折撫でる。その手は大きく、そして温かさを含んでいた。
「頑張ったんだな。アーク公爵家として……父親として、お前は私の誇りだよ。……戻ってきてくれて、ありがとう」
気恥ずかし気に窓の外を見ていた視線を娘に向けた彼は、そこで大きく目を見開いた。
何も映さないその目から、つ、と一筋の涙がこぼれる。
涙はやがて両の目から、止まることなく零れ続けた。
「っ……」
口を開きかけた彼は、しかし何も言うことなく口を閉じ、頭にのせていた手で娘を引き寄せた。
胸に寄り掛かった娘は、静かに涙を流し続けていた。
それが、彼女が見せた初めての感情だった。




