第二章 名前の帰還
美紀が、自分の息子に「拓己」と名付けた。
その事実は、貴大の胸の奥で、抜き差しならない棘となって止まっている。
自分たちが失った、あるいは捨て去ったはずの名前が、見知らぬ誰かの肉体を得て、新しい時間を刻み始めている。
それは、貴大にとっての「拓己」が、ようやく死から解放された瞬間のように思えた。
「……ねえ、結衣」
貴大は、声を出す代わりに、視線だけで妹に問いかける。
もちろん、声は届かない。
人工呼吸器の駆動音が、彼のすべての言葉を飲み込んでしまうからだ。
結衣は、すり下ろしたリンゴを小さなスプーンで掬い、貴大の唇の端に、儀式のようにそっと触れさせた。
「拓己くん、きっと、たかくんのこと忘れてないよ」
結衣が、兄の思考を見透かしたように呟く。
「だからこそ、その名前をつけたんだと思う」
貴大は、もう一度目を閉じる。
――夢の中の風景が、ゆっくりと形を変えていく。
いつもの実家の庭ではない。
そこは、あの日の「哲学の道」だった。
ただし、疎水の水は枯れ果て、桜の木々はすべて白骨のように白く乾いている。
道の向こうから、小さな子供が走ってくるのが見えた。
三歳か、四歳か。
おぼつかない足取りで、それでいて確かな意志を持って、子供はこちらに向かってくる。
「兄ちゃん」
子供が呼ぶ。
その声は、弟の拓己のものでもあり、まだ見ぬ彼女の息子の声のようでもあった。
子供の手には、あの甘味処で見た、琥珀色の心太が握られている。
「これ、返してあげる」
子供が差し出したのは、心太ではなく、一つの「鍵」だった。
それは、個室へと続く扉の鍵なのか、それとも、この動かない肉体という檻から抜け出すための鍵なのか。
貴大がその鍵を受け取ろうと手を伸ばした瞬間、背後から誰かの気配がした。
「……お父さん?」
貴大は、夢の中で初めてその呼び名を口にした。
その日の夕方、病室の空気は唐突に、刺すような冷たさを帯びた。
バイタルモニターのアラームが、電子的な悲鳴を上げる。
駆け寄る看護師たちの足音と、交わされる専門用語の礫。
貴大の意識は、激しい濁流に呑み込まれるように、現実の輪郭を失っていった。
「……貴大さん、少し個室の方で休みましょうね」
耳元で、誰かがそう囁いた。
それは以前、隣のベッドの住人が消えたときに聞いた、あの「片道切符」の合図だった。
ストレッチャーが廊下を滑る振動が、脊髄を通して伝わってくる。
四人部屋という、かろうじて社会に繋がっていた場所から、彼は切り離された。
北棟の突き当たり。
重い扉が閉まると、世界から一切の雑音が消えた。
聞こえるのは、かつてないほど巨大に響く、人工呼吸器の駆動音だけだ。
「……たかくん、聞こえる? ここにいるからね」
結衣の声が、遠い海の底から聞こえてくる。
彼女の指が、貴大の冷え切った掌を包み込む。
その温もりを錨にして、貴大は、さらに深い意識の階層へと潜っていった。
――そこは、夕暮れ時の実家の土間だった。
西日が長く差し込み、埃の粒が黄金色に舞っている。
奥の部屋から、低く、落ち着いた咳払いが聞こえた。
父だった。
父は、生前と変わらぬ古びたシャツを着て、縁側に腰を下ろしていた。
「貴大、こっちへ来い」
その声は、呼吸器に遮られることもなく、真っ直ぐに貴大の胸に届いた。
貴大は、自分がいつの間にか、自分の足で畳を踏みしめて歩いていることに気づく。
膝の痛みも、肺の重苦しさもない。
「父さん。美紀が……彼女が、子供に拓己の名前をつけたんだって」
貴大は、縋るような思いで言葉を紡いだ。
父は、静かに頷き、庭の隅にある枯れかけた紫陽花を見つめた。
「名前というのはな、器なんだよ」
父は、ゆっくりとこちらを振り向いた。
「拓己は、お前の中にずっといた。だが、これからは、その新しい子供の中にもいる」
父の瞳は、穏やかな光を湛えていた。
「お前が美紀を光の中に返したから、その子が生まれたんだ」
貴大の視界が、熱い涙で歪む。
「……俺は、もういいのかな」
個室へ移された意味を、貴大は父に問いかけた。
「ああ、いいんだよ。お前は、もう十分に重いものを背負ってきた」
父は、貴大の肩に大きな、温かい手を置いた。
「あっちの部屋には、拓己も母さんも待っている。少し、景色のいい場所だぞ」
父の言葉が、貴大の全身に染み渡っていく。
それは諦念ではなく、長い旅を終えようとする者だけに許された、絶対的な肯定だった。
ふと、遠くで結衣の泣き声が聞こえた気がした。
貴大は父の隣に腰を下ろし、ゆっくりと、最後の夕日を見つめ始めた。
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