第一章 琥珀の記憶
目を閉じると、空気の密度が変わる。
消毒液の匂いは薄れ、代わりに湿った苔と、古い木造建築の匂いが鼻腔をくすぐる。
初夏の京都は、眩しいほどの緑に包まれていた。
彼女を両親に紹介した翌日、二人は「哲学の道」を歩いた。
疎水に沿って続く小道は、時折吹き抜ける風が、彼女の薄いワンピースの裾を揺らしていた。
「貴大くん、次はあそこに入ろう」
彼女が指差したのは、道沿いにある古びた甘味処だった。
冷房のきいた店内には、客もまばらで、奥の座敷からは小さな坪庭が見えた。
二人は並んで座り、心太を注文した。
運ばれてきたガラスの器の中で、心太は初夏の光を透過して、透き通った琥珀色に輝いていた。
「……たかくん、どうしたの?」
彼女が首を傾げて覗き込んできた。
貴大は、割り箸を握った自分の右手が、わずかに震えていることに気づいた。
ただの疲れだと思いたかった。
昨日、両親に彼女を紹介したとき、父は「いい人を見つけたな」と相好を崩していた。
母も、彼女の手を握って、何度も「ありがとう」と繰り返していた。
その幸福の重みが、今の自分にはあまりに眩しすぎた。
「なんでもないよ」
そう言って、貴大は無理に微笑んでみせた。
酢醤油のツンとした匂いが、記憶の蓋を無理やりこじ開ける。
同じ病で逝った弟の拓己も、末期にはこの「食べること」すら叶わなくなった。
心太の冷たさが喉を通り過ぎるたびに、自分の肉体が少しずつ、砂のように崩れていく予感がした。
もしも、自分も弟と同じ道を辿るのだとしたら。
彼女のこの輝くような笑顔を、絶望という名の病室に閉じ込めてしまっていいのか。
「美味しいね」
彼女が幸せそうに目を細めた。
その瞬間、貴大は決意した。
この味を、この光を、彼女の中に「純粋な思い出」としてだけ残さなければならない。
それが、自分の愛し方のすべてだった。
――YouTubeの画面が暗転し、記憶の糸がふつりと切れる。
目を開ければ、そこにはまた、無機質な白い天井が広がっている。
「……貴大さん、痰を吸いましょうね」
看護師の無機質な声が、かつての彼女の声に重なって消えた。
甘味処を出ると、午後の陽光はさらにその輝きを増していた。
疎水沿いの桜の葉が、風に吹かれてさらさらと乾いた音を立てる。
貴大は、先ほどまで握っていた割り箸の、あの微かな震えを掌の中に感じ続けていた。
「どうしたの、たかくん。さっきからずっと黙って」
彼女が立ち止まり、不安げに貴大の顔を覗き込む。
貴大はその視線を受け止めることができず、遠くの山並みに目を向けた。
「なあ、もし俺が、拓己と同じようになったら」
言葉にした瞬間、喉の奥が砂を噛んだように渇いた。
「そんなこと、あるわけないよ。たかくんなら大丈夫だよ」
彼女は、自分に言い聞かせるように、精一杯の明るい声を出した。
「……もしそうなったら、俺のことは忘れてほしいんだ」
彼女の笑顔が、凍りついたように動かなくなった。
風が止まり、世界から音が消えたような錯覚に陥る。
「なんで、そんなこと言うの」
彼女の声が、震えていた。
「君には、光の中にいてほしいんだよ」
貴大は、それ以上何も言えなかった。
愛しているからこそ、彼女の未来を自分の濁った血で汚したくなかった。
それが、哲学の道を歩き終える頃に交わした、二人の実質的な最後の一言になった。
――不意に、病室の静寂が戻ってくる。
「……ねえ、貴大さん」
椅子に座り、リンゴの皮を剥いていた結衣が、ふと手を止めた。
彼女の視線は、手元のナイフに向けられたままだ。
「この前ね、街で美紀さんに会ったよ」
美紀。
その名前を耳にした瞬間、貴大の心電図の波形が、目に見えて鋭く跳ねた。
人工呼吸器が「シュ、コー」と、動揺を鎮めるように深く空気を送り込む。
「結婚したんだって。一昨年に。旦那さんは、すごく優しい人みたい」
結衣は、兄の顔を見ようとはしなかった。
「子供もいるんだって。男の子。……名前、なんて言ったかな」
結衣の声が、少しだけ掠れた。
「拓己くんっていうんだって。漢字も、あの子と同じ」
貴大は、何も言わずに目を閉じた。
まぶたの裏に、琥珀色の心太と、哲学の道の眩しい緑が、鮮烈に蘇る。
彼女は、自分が望んだ通り、光の中にいてくれた。
そして、自分が捨てたはずの「拓己」という名前を、彼女の幸福な未来の中に繋ぎ止めていた。
頬を伝う熱いものが、人工呼吸器のマスクの縁を濡らしていく。
それは、失ったものへの絶望なのか、それとも、彼女が選んだ「赦し」への救いなのか。
「……ごめんね、変なこと言って。リンゴ、食べる? あ、無理だね。すり下ろしてあげようか」
結衣の明るすぎる声が、静かな病室に、虚しく響き渡っていた。
この作品はAI40%、筆者60%で書きました。
原案100%筆者。
指摘や感想とか頂ければ励みになります。




