二
砂は彼の前に果てしなく広がっていた。淡い空の下、砂丘は凍りついた波のように連なり、起伏と浅い谷が静かに重なり合っている。
ニコラスは真鍮製の望遠鏡を持ち上げ、稜線とその向こうの地形を丹念に探った。
彼は儀礼用の鎧を身につけてはいなかった。外套の下には鎖帷子と硬化革が重ねられ、裾は数週間に及ぶ旅で白く砂に染まっている。重い軍靴が鐙を踏みしめ、鋼鉄の籠手には磨かれぬまま残された古い傷跡が刻まれていた。首元には日差しと砂を遮るための布がゆるく巻かれていたが、顔は覆われていない。
背には布で厳重に包まれた剣が負われていた。
それは常に彼と共にあり、一度として離されることはなかった。
彼が馬上にあるこの地点は、シドラ公爵領の境界にあたる。
その先には辺境の境界地帯が続く――名目上はリションラダ聖王国の領とされながら、実際には争われ、いずれの王冠も法も及ばぬ土地。さらにその奥にはリションラダ本領が広がり、聖都はすでに陥落し、異なる信仰の旗の下で軍勢が集結しつつあった。
「砂丘の向こうに動きがある」
ニコラスは低く言った。
「迂回する」
傍らには、黒く燻された全身甲冑を纏う騎士が立っていた。鉄像のように高く、微動だにしない。兜は表情の一切を隠し、甲冑の継ぎ目には、風が水面をなぞるような微細な彫刻が施されている――黒鉄の下に、かろうじて見えるほどのものだ。
黒騎士は巨躯の軍馬に跨っていた。胸幅が広く骨太な馬で、灼熱の中にもかかわらず白い息を吐いている。砂漠には不向きな体格だが、その足取りは岩盤のように揺るがない。
言葉もなく望遠鏡を受け取ると、砂丘を一瞥し、やがて籠手に包まれた片手を静かに上げた。
背後では、二百の騎兵が沈黙のまま待機していた。岩混じりの道に沿って縦列を成し、合図とともに隊形は淀みなく変わる。砂丘を避け、砂漠の縁に沿う、より険しい石だらけの道へと進路を取った。
安全ではない――ただ、予測はしやすい。
ニコラスは馬を進め、崩れた地形を縫う行軍に加わった。蹄は砂ではなく石を打ち、乾いた音が鋭く反響する。塵は舞い上がったが、風がすぐにそれを運び去った。
やがて一騎が側方から離れ、慣れた動きで前へと出た。軽装の鎧は持久より速度を重んじた造りで、長い布が顔の上まで高く巻かれ、砂と日差しを遮っている。携行品は見当たらない。
「閣下」
その騎士はニコラスの隣に並んだ。
「シュヴァルツヴァルト王ヘンリヒが、前方の丘間に陣を敷いています。旗印の中に――グランツのペーター=フランツ卿を確認しました」
ニコラスは、旅で乾きひび割れた唇に、かすかな笑みを浮かべた。
「彼はお前に気づいたか、オラフ?」
布の上で、オラフの目が細まる。
「はい、閣下。あなたに会うのを楽しみにしている、と」
「……そうか」
ニコラスは息を吐いた。
「それが中立な言葉であった試しはないな」
隊列はなおも高度を上げていく。稜線に達したところで、ニコラスは再び馬を止め、砂丘の方角を振り返った。黒騎士とオラフは、呼ばれるまでもなく従う。
「彼らの陣までは、どれほどだ」
「この速度を保てば、主力は日没直前に到達します」
ニコラスは一度だけ頷いた。
「俺はエクリアと先行する。向こうで合流しろ」
「承知しました」
ニコラスは馬首を鋭く返し、隊列を離れて斜面を下った。
黒き甲冑の騎士――エクリアも即座に追随し、装甲がかすかに鳴って距離が詰まる。
二人の間に言葉はなかった。
太陽はなお高く、冷酷なまでに動かない。しかし前方では丘陵が狭まり、影を落とす裂け目が現れ、ようやく熱が緩み始めていた。その先には、疎らに並ぶ天幕が見える。行軍を急ぎすぎ、弱さを許さぬ土地にまだ慣れていない者たちの休息地だ。
進む中で、ニコラスは稜線を見上げた。
空を背に、ひとつの影が立っている。岩にしては動きがなさすぎ、偶然にしては意図が明確すぎた。
――斥候だ。こちらを見ている。
「エクリア」
ニコラスは落ち着いた声で言った。
「右の稜線だ。斥候がいる」
黒騎士は、彼の指し示す先へと視線を送った。
「手を振れ」
ニコラスは続け、わずかに間を置いてから言い添えた。
「両手で。大げさに」
即座に、エクリアは籠手に包まれた両手を高く掲げた。燻された黒鉄が陽光を受け、一瞬、はっきりと――どこか滑稽なほど明確な合図として煌めく。
長い沈黙が流れた。
稜線の人影は、微動だにしない。
やがて――きらり、と光が返った。
一度、二度。意図的で、一定の間隔。
合言だった。
斥候は見張っているだけではない。敵ではなく、味方が近づいていると、自軍に知らせているのだ。
「もういい。見えている」
ニコラスは乾いた声で言った。
エクリアの両手が、ようやく下ろされる。
「片手で十分だったと思わないか?」
ニコラスは小さく息を漏らした。
「……君は躊躇というものを知らないな」
兜は振り向かない。
「軽率な命令は出さないよう、肝に銘じておこう」
声の端に、かすかな愉悦が滲んだ。
「どうせ、そのまま実行するのだろうから」
二人は再び進んだ。
下っていくにつれ、陣営の全貌が見えてくる。
整然とした布陣でも、見栄えのする配置でもない。ただ、人がいた。
乾燥肉を歯で引き裂きながら、輪になってしゃがみ込む者。
呪いの言葉すら吐く気力を失い、火種に必死で息を吹きかける者。
疲労に負け、地面に半ば丸まったまま眠りこける兵。
そして――眠ることすらできず、虚空を見つめたまま動かない者たち。
これが、戦が本当に集まりつつある姿だった。
その向こうには、シュヴァルツヴァルトの軍旗が林立していた。密で、幾重にも重なり、見誤る余地はない。王ヘンリヒの存在は、至るところに感じられる。
しかも、この軍勢は全てではない――ニコラスは一目でそう悟った。
天幕の合間には、諸侯の旗印も立っている。
色と紋章は、古い同盟と、さらに古い野心を静かに語っていた。
そのとき、怒号が空気を切り裂いた。
「ニコラス!」
咆哮だった。
生々しく、腹に響き、無視できるはずもない声。
兵たちが本能的に道を空ける。その中心を、声の主が進み出てきた。
ニコラスは手綱を引き、馬を止めた。
彼とエクリアは同時に下馬する。
前へ踏み出した瞬間、ニコラスのひび割れた唇に、久しくなかった笑みが浮かんだ。砂漠に足を踏み入れて以来、初めての――ほとんど本物の笑顔だった。
待っていた男は、門のように幅広く、声はその倍も大きい。
その存在感だけで、場を支配していた。
ペーター=フランツは豪快に笑い、木材の歪みを確かめる職人のように、ニコラスを頭から足先まで眺め回した。
「痩せたな」
そう断じる。
「その体つきじゃ、先祖に顔向けできんぞ」
そして、遠慮なく笑った。
ニコラスは、節度ある所作で一礼する。
「ペーター=フランツ卿。神の祝福が、あなたにありますように」
「おい、ニコラス! なんだその堅苦しさは!」
ニコラスは体を起こし、かすかな笑みを保ったまま応じた。
「残念ながら――前にお会いしてから、私は伯爵位を拝領しました。今はヴェスタゴランド伯爵ニコラスとして、お呼びいただくのが筋かと」
「へっ。国境の石くれ山の伯爵様か」
ペーター=フランツは鼻を鳴らすが、その声音に親しみがあるのは明らかだった。
「赤ん坊の頃、泣き喚くお前を膝に乗せてやったのは俺だ。俺にとっちゃ、いつまでも小僧のニコラスだよ」
また、豪快な笑い。
「南の暑さと砂で喉まで干上がり、そんな無作法な笑い方になったわけではないでしょうな」
ニコラスは返し、ようやく形式張った態度を崩した。
「旧交はここまでに。陣営への合流を願い出に参りました」
ペーター=フランツの視線が、彼の背後へと流れる。
「で、軍はどこだ?」
「まもなく到着します」
一拍の沈黙。
やがて、ペーター=フランツの口元に笑みが広がった。
「相変わらず、芝居がかった登場を好むらしいな」
目を細める。
「興味本位で聞こう――例の精鋭騎兵も連れてきたのか?」
「ええ。騎兵のみです」
ニコラスは答えた。
「我が北方の誇る馬たちは、すでに砂を制したと聞きましたので。進んで従う者が多かった」
小さな笑いが返る。
「やめてくれ」
ペーター=フランツは鼻を鳴らした。
「俺の連中は命令されたから来たんだ。今じゃパン屋の豚みたいに汗をかいて、全員が俺を恨んでる」
両腕を広げ、掌を上に向ける。
それがそのまま、陣営全体を指し示していた――天幕、軍旗、兵士たち。
「七百の兵に、七十の騎士。それが俺の持ち分だ」
そして、ニコラスを見据える。
「で、お前は何人だ?」
「ヴェスタゴランドの全軍を割くわけにはいきませんでした」
ニコラスは淡々と続けた。
「――ですから、二百です」
ペーター=フランツは目を瞬かせた。
次の瞬間、鋭く、そしてどこか愉しげに笑った。
それは、二つの危険な考えが頭の中で結びつき――その結果を気に入った男の笑いだった。
「二百……ヴェスタゴランドの騎兵、だと?」
彼は繰り返した。
「それが、これから俺の陣に入ってくると?」
二人とも、その意味を理解していた。
五十騎ですら、名声だけで戦局を覆したことがある。
二百ともなれば、解き放たれた瞬間に、一つの街道を血で洗い流しかねない。
ペーター=フランツは、ほんの一瞬だけ計算し――即座に答えに至った。
「ならば、お前は神の祝福だ」
彼はニコラスの肩を叩いた。
旅塵にまみれた外套から砂埃が弾け、衝撃でニコラスの体が半歩揺れる。
「ダーン・ループブルフ卿に会わせてやれ」
「王ヘンリヒの下で指揮を執っている」
ニコラスは頷き、興味を研ぎ澄ませた。
「歩兵じゃどうにもならん問題を抱えて、悪態ばかりついている男だ」
ペーター=フランツの笑みが深くなる。
「お前の騎兵が一番得意とする仕事に、相応の対価を払う気になるだろう」
「生憎と」
ニコラスは穏やかに言った。
「潤沢な戦費を持ち込んだわけではありません」
彼はわずかに身を翻す。
「エクリア。陣地を確保しろ」
黒騎士は了承の意を示す。
ペーター=フランツは親指で、自軍の兵が集まる一角を指した。
「おい」
黒い甲冑を見据えて怒鳴る。
「俺の兵を何人か連れていけ。落ち着くまで手を貸させる」
エクリアは正確で無駄のない一礼をし、ひとつ頷いた。
言葉はない。逡巡もない。
次の瞬間にはすでに歩き出し、乾いた地面を踏む音を立てながら、周囲の兵が慌てて後に続いた。
去っていく背を見送りながら、ペーター=フランツは喉を鳴らして笑う。
「顔を隠し、命令も声に出さない、か」
鼻で笑う。
「まったく……あの黒騎士、戦乙女だろう? 聖戦に女を連れてくるとはな」
ニコラスは、薄く笑った。
「それは些末事です」
「そうは思わん連中もいる」
「ええ」
ニコラスは同意し、すでに背を向けながら言った。
「――それも、私にとっては些末事です」
ペーター=フランツは指で天幕の奥を示した。
「ははっ、そう言うと思った。来い。ダーン卿も、自分の厄介事が片付くと知れば喜ぶだろう」
ペーター=フランツは、ニコラスを陣営の内側へと導いた。
そこでは空気が変わる。
兵の荒々しい喧騒――怒鳴り声、装備のぶつかる音――は後景に退き、声は抑えられ、通ることを前提としたものになる。
焚き火は姿を消し、代わりに高価な炭を使った火鉢が静かに燃えていた。汗と煮込みの匂いは薄れ、油を引いた革と、かすかな香の香りが漂う。
ここに集う騎士たちは、暖を取るためでも、慰め合うためでもない。
彼らは権威の島として立っていた。鎧は着られているのではなく、身体の一部として在った。
一本の支柱にもたれ、すでに輝く柄頭を無言で磨く者。
短剣で地図を留め、言葉もなく進路をなぞる者。
彼らの視線が、ニコラスに向けられる。
平坦で、測るような目。
挨拶はない。
ニコラスも、それを求めなかった。
空地の中央には、積み上げた補給箱の上に厚い獣皮が張られていた。縁は石で押さえられ、古い刃傷と墨の染みが残るが、地図を夕刻の風から守っている。
ペーター=フランツが近づくと、諸侯の一団が無言で散った。
数人が彼にだけ会釈する。彼も同様に返す。
ニコラスに向けられる視線はない。
ただ一人を除いて。
幅広く、節くれ立った手を獣皮に置いたまま、まるで土地そのものを量るように立つ男。
ダーン卿だ。
折れ、歪んだ鼻の下で、口髭は白くなり始めている。
「ペーター=フランツ卿」
「ダーン卿」
挨拶は短い。
ダーンの淡い視線が、ペーター=フランツを越え、ニコラスに据えられた。
敵意ではない。ただ、正確だった。
「紹介しよう」
ペーター=フランツの声から、先ほどまでの轟きは消えている。
「ヴェスタゴランドの若き領主だ」
ニコラスは一歩進み出た。
「ヴェスタゴランド伯爵、ニコラスです」
所作は正確で、抑制されている。
一礼。
「神の祝福が、あなたにありますように」
ダーンはすぐには答えなかった。
彼の視線は静かに査定していた――旅で擦り切れた外套、飾り気のない鞘、ニコラスの顔に刻まれた砂と疲労の痕。
「……あなたにも」
ようやく発せられた言葉には、温度がなかった。
ピーター=フランツは礼儀に構うことなく切り出す。
「名は知っていよう。父の名もな。今朝、俺に突きつけてきた“厄介事”――その始末役が、ここに立っている」
「ヴェスタゴランドの騎兵か」
ダーンは低く言った。その名には、古い重みが宿っている。
「北方で、私はお前の父の隣に立った。峠で、彼の第一子の旗が倒れるのを見た」
視線が鋭くなる。
「良き兵だった。――同じ風を、貴公は連れてきたか?」
ニコラスは淡々と答えた。
「同じ風です。何を動かすかは――他者が判断するでしょう」
ダーンは返さなかった。
一拍、長すぎるほど視線がニコラスに留まり――やがて外れ、再び地図へと戻る。
沈黙が伸びる。意図的で、突き放すような沈黙。
周囲では鋼がかすかに擦れ、火鉢が湿った音を立てる。
裁定は、まだ下らない。
ピーター=フランツが荒く息を吐いた。
「ここで二日、干からびている。議論する一刻ごとに、リションラーダへの道は兵の心から遠のく。
目の前にあるものを使うか――さもなくば、家へ返せ」
ダーンの手が地図を強く掴んだ。
「……見せよ」
意味は明白だった。
ニコラスは理解した。
誇示のない、無駄のない動きで背に手を伸ばす。
剣を、ほんの一寸だけ抜いた。油布を滑って現れたのは、鈍い灰色の鋼。光を拒む刃。
ダーンの手が上がる。
刃には触れず、覆いを引いて、さらに鋼を露わにする。
沈黙のまま見定め――そして手を引いた。
「……貴公の《ディヴァイナー》は」
ようやく口を開く。
「随分と……質素だな」
周囲の諸侯と騎士の間に、かすかな動揺が走る。
「よせ、ダーン卿」
ピーター=フランツが低く唸った。金装の斧――腰に副武装のように佩いた《ディヴァイナー》の柄に手を置きながら。
「昔のニコラスは、飾り気のない鉄で名を成した」
「これは聖戦だ」
ダーンは言い返す。
卓上の宝石細工の剣から、ピーター=フランツの黄金の《ディヴァイナー》
ニコラスは、その視線を正面から受け止めた。
「父は改宗者でした」
言葉は一つ一つ、きちんと据えられる。
「神の御言葉と、その約束に身を縛る際、彼は“ニコラス”の名を取りました。
私にその名を与えたのは、同じ道を歩ませ――古き道を、土に埋めるためです」
最後の光が、ひび割れた唇に残る塩を照らす。
「もし人が、神の授けた祝福で裁かれるのだとすれば」
声は平坦なまま。
「それが与えられぬ時、咎はどこにあるのでしょう?
――鋼にか。あるいは、量られる魂にか」
沈黙が場を支配した。
ダーンは、長い時間ニコラスを見つめた。
やがて――頭を下げた。礼ではない。認めたのだ。
「道理だ、若き領主よ」
「老いはな。砂漠と同じく、思考も乾かす」
背筋を伸ばし、声を指揮官のものへと戻す。
「進軍を支える補給線――その地勢を論じよう。
貴公の騎兵、まだ“鍵”を回すやもしれぬ」




