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 砂は彼の前に果てしなく広がっていた。淡い空の下、砂丘は凍りついた波のように連なり、起伏と浅い谷が静かに重なり合っている。

 ニコラスは真鍮製の望遠鏡を持ち上げ、稜線とその向こうの地形を丹念に探った。


 彼は儀礼用の鎧を身につけてはいなかった。外套の下には鎖帷子と硬化革が重ねられ、裾は数週間に及ぶ旅で白く砂に染まっている。重い軍靴が鐙を踏みしめ、鋼鉄の籠手には磨かれぬまま残された古い傷跡が刻まれていた。首元には日差しと砂を遮るための布がゆるく巻かれていたが、顔は覆われていない。


 背には布で厳重に包まれた剣が負われていた。

 それは常に彼と共にあり、一度として離されることはなかった。


 彼が馬上にあるこの地点は、シドラ公爵領の境界にあたる。

 その先には辺境の境界地帯が続く――名目上はリションラダ聖王国の領とされながら、実際には争われ、いずれの王冠も法も及ばぬ土地。さらにその奥にはリションラダ本領が広がり、聖都はすでに陥落し、異なる信仰の旗の下で軍勢が集結しつつあった。


「砂丘の向こうに動きがある」


 ニコラスは低く言った。

「迂回する」


 傍らには、黒く燻された全身甲冑を纏う騎士が立っていた。鉄像のように高く、微動だにしない。兜は表情の一切を隠し、甲冑の継ぎ目には、風が水面をなぞるような微細な彫刻が施されている――黒鉄の下に、かろうじて見えるほどのものだ。


 黒騎士は巨躯の軍馬に跨っていた。胸幅が広く骨太な馬で、灼熱の中にもかかわらず白い息を吐いている。砂漠には不向きな体格だが、その足取りは岩盤のように揺るがない。

 言葉もなく望遠鏡を受け取ると、砂丘を一瞥し、やがて籠手に包まれた片手を静かに上げた。


 背後では、二百の騎兵が沈黙のまま待機していた。岩混じりの道に沿って縦列を成し、合図とともに隊形は淀みなく変わる。砂丘を避け、砂漠の縁に沿う、より険しい石だらけの道へと進路を取った。


 安全ではない――ただ、予測はしやすい。


 ニコラスは馬を進め、崩れた地形を縫う行軍に加わった。蹄は砂ではなく石を打ち、乾いた音が鋭く反響する。塵は舞い上がったが、風がすぐにそれを運び去った。


 やがて一騎が側方から離れ、慣れた動きで前へと出た。軽装の鎧は持久より速度を重んじた造りで、長い布が顔の上まで高く巻かれ、砂と日差しを遮っている。携行品は見当たらない。


「閣下」


 その騎士はニコラスの隣に並んだ。

「シュヴァルツヴァルト王ヘンリヒが、前方の丘間に陣を敷いています。旗印の中に――グランツのペーター=フランツ卿を確認しました」


 ニコラスは、旅で乾きひび割れた唇に、かすかな笑みを浮かべた。

「彼はお前に気づいたか、オラフ?」


 布の上で、オラフの目が細まる。

「はい、閣下。あなたに会うのを楽しみにしている、と」


「……そうか」


 ニコラスは息を吐いた。

「それが中立な言葉であった試しはないな」


 隊列はなおも高度を上げていく。稜線に達したところで、ニコラスは再び馬を止め、砂丘の方角を振り返った。黒騎士とオラフは、呼ばれるまでもなく従う。


「彼らの陣までは、どれほどだ」


「この速度を保てば、主力は日没直前に到達します」


 ニコラスは一度だけ頷いた。

「俺はエクリアと先行する。向こうで合流しろ」


「承知しました」


 ニコラスは馬首を鋭く返し、隊列を離れて斜面を下った。

 黒き甲冑の騎士――エクリアも即座に追随し、装甲がかすかに鳴って距離が詰まる。


 二人の間に言葉はなかった。


 太陽はなお高く、冷酷なまでに動かない。しかし前方では丘陵が狭まり、影を落とす裂け目が現れ、ようやく熱が緩み始めていた。その先には、疎らに並ぶ天幕が見える。行軍を急ぎすぎ、弱さを許さぬ土地にまだ慣れていない者たちの休息地だ。


 進む中で、ニコラスは稜線を見上げた。

 空を背に、ひとつの影が立っている。岩にしては動きがなさすぎ、偶然にしては意図が明確すぎた。


 ――斥候だ。こちらを見ている。


「エクリア」


 ニコラスは落ち着いた声で言った。

「右の稜線だ。斥候がいる」


 黒騎士は、彼の指し示す先へと視線を送った。


「手を振れ」

 ニコラスは続け、わずかに間を置いてから言い添えた。

「両手で。大げさに」


 即座に、エクリアは籠手に包まれた両手を高く掲げた。燻された黒鉄が陽光を受け、一瞬、はっきりと――どこか滑稽なほど明確な合図として煌めく。


 長い沈黙が流れた。

 稜線の人影は、微動だにしない。


 やがて――きらり、と光が返った。

 一度、二度。意図的で、一定の間隔。


 合言だった。

 斥候は見張っているだけではない。敵ではなく、味方が近づいていると、自軍に知らせているのだ。


「もういい。見えている」


 ニコラスは乾いた声で言った。

 エクリアの両手が、ようやく下ろされる。


「片手で十分だったと思わないか?」


 ニコラスは小さく息を漏らした。

「……君は躊躇というものを知らないな」


 兜は振り向かない。


「軽率な命令は出さないよう、肝に銘じておこう」

 声の端に、かすかな愉悦が滲んだ。

「どうせ、そのまま実行するのだろうから」


 二人は再び進んだ。


 下っていくにつれ、陣営の全貌が見えてくる。

 整然とした布陣でも、見栄えのする配置でもない。ただ、人がいた。


 乾燥肉を歯で引き裂きながら、輪になってしゃがみ込む者。

 呪いの言葉すら吐く気力を失い、火種に必死で息を吹きかける者。

 疲労に負け、地面に半ば丸まったまま眠りこける兵。

 そして――眠ることすらできず、虚空を見つめたまま動かない者たち。


 これが、戦が本当に集まりつつある姿だった。


 その向こうには、シュヴァルツヴァルトの軍旗が林立していた。密で、幾重にも重なり、見誤る余地はない。王ヘンリヒの存在は、至るところに感じられる。

 しかも、この軍勢は全てではない――ニコラスは一目でそう悟った。


 天幕の合間には、諸侯の旗印も立っている。

 色と紋章は、古い同盟と、さらに古い野心を静かに語っていた。


 そのとき、怒号が空気を切り裂いた。


「ニコラス!」


 咆哮だった。

 生々しく、腹に響き、無視できるはずもない声。


 兵たちが本能的に道を空ける。その中心を、声の主が進み出てきた。


 ニコラスは手綱を引き、馬を止めた。

 彼とエクリアは同時に下馬する。


 前へ踏み出した瞬間、ニコラスのひび割れた唇に、久しくなかった笑みが浮かんだ。砂漠に足を踏み入れて以来、初めての――ほとんど本物の笑顔だった。


 待っていた男は、門のように幅広く、声はその倍も大きい。

 その存在感だけで、場を支配していた。


 ペーター=フランツは豪快に笑い、木材の歪みを確かめる職人のように、ニコラスを頭から足先まで眺め回した。


「痩せたな」

 そう断じる。

「その体つきじゃ、先祖に顔向けできんぞ」


 そして、遠慮なく笑った。


 ニコラスは、節度ある所作で一礼する。

「ペーター=フランツ卿。神の祝福が、あなたにありますように」


「おい、ニコラス! なんだその堅苦しさは!」


 ニコラスは体を起こし、かすかな笑みを保ったまま応じた。

「残念ながら――前にお会いしてから、私は伯爵位を拝領しました。今はヴェスタゴランド伯爵ニコラスとして、お呼びいただくのが筋かと」


「へっ。国境の石くれ山の伯爵様か」


 ペーター=フランツは鼻を鳴らすが、その声音に親しみがあるのは明らかだった。

「赤ん坊の頃、泣き喚くお前を膝に乗せてやったのは俺だ。俺にとっちゃ、いつまでも小僧のニコラスだよ」


 また、豪快な笑い。


「南の暑さと砂で喉まで干上がり、そんな無作法な笑い方になったわけではないでしょうな」

 ニコラスは返し、ようやく形式張った態度を崩した。

「旧交はここまでに。陣営への合流を願い出に参りました」


 ペーター=フランツの視線が、彼の背後へと流れる。

「で、軍はどこだ?」


「まもなく到着します」


 一拍の沈黙。

 やがて、ペーター=フランツの口元に笑みが広がった。


「相変わらず、芝居がかった登場を好むらしいな」

 目を細める。

「興味本位で聞こう――例の精鋭騎兵も連れてきたのか?」


「ええ。騎兵のみです」


 ニコラスは答えた。

「我が北方の誇る馬たちは、すでに砂を制したと聞きましたので。進んで従う者が多かった」


 小さな笑いが返る。


「やめてくれ」


 ペーター=フランツは鼻を鳴らした。

「俺の連中は命令されたから来たんだ。今じゃパン屋の豚みたいに汗をかいて、全員が俺を恨んでる」


 両腕を広げ、掌を上に向ける。

 それがそのまま、陣営全体を指し示していた――天幕、軍旗、兵士たち。


「七百の兵に、七十の騎士。それが俺の持ち分だ」

 そして、ニコラスを見据える。

「で、お前は何人だ?」


「ヴェスタゴランドの全軍を割くわけにはいきませんでした」


 ニコラスは淡々と続けた。

「――ですから、二百です」


 ペーター=フランツは目を瞬かせた。

 次の瞬間、鋭く、そしてどこか愉しげに笑った。


 それは、二つの危険な考えが頭の中で結びつき――その結果を気に入った男の笑いだった。


「二百……ヴェスタゴランドの騎兵、だと?」


 彼は繰り返した。

「それが、これから俺の陣に入ってくると?」


 二人とも、その意味を理解していた。


 五十騎ですら、名声だけで戦局を覆したことがある。

 二百ともなれば、解き放たれた瞬間に、一つの街道を血で洗い流しかねない。


 ペーター=フランツは、ほんの一瞬だけ計算し――即座に答えに至った。


「ならば、お前は神の祝福だ」


 彼はニコラスの肩を叩いた。

 旅塵にまみれた外套から砂埃が弾け、衝撃でニコラスの体が半歩揺れる。


「ダーン・ループブルフ卿に会わせてやれ」

「王ヘンリヒの下で指揮を執っている」


 ニコラスは頷き、興味を研ぎ澄ませた。


「歩兵じゃどうにもならん問題を抱えて、悪態ばかりついている男だ」


 ペーター=フランツの笑みが深くなる。

「お前の騎兵が一番得意とする仕事に、相応の対価を払う気になるだろう」


「生憎と」


 ニコラスは穏やかに言った。

「潤沢な戦費を持ち込んだわけではありません」


 彼はわずかに身を翻す。

「エクリア。陣地を確保しろ」


 黒騎士は了承の意を示す。


 ペーター=フランツは親指で、自軍の兵が集まる一角を指した。

「おい」


 黒い甲冑を見据えて怒鳴る。

「俺の兵を何人か連れていけ。落ち着くまで手を貸させる」


 エクリアは正確で無駄のない一礼をし、ひとつ頷いた。

 言葉はない。逡巡もない。


 次の瞬間にはすでに歩き出し、乾いた地面を踏む音を立てながら、周囲の兵が慌てて後に続いた。


 去っていく背を見送りながら、ペーター=フランツは喉を鳴らして笑う。


「顔を隠し、命令も声に出さない、か」


 鼻で笑う。

「まったく……あの黒騎士、戦乙女だろう? 聖戦に女を連れてくるとはな」


 ニコラスは、薄く笑った。

「それは些末事です」


「そうは思わん連中もいる」


「ええ」


 ニコラスは同意し、すでに背を向けながら言った。

「――それも、私にとっては些末事です」


 ペーター=フランツは指で天幕の奥を示した。

「ははっ、そう言うと思った。来い。ダーン卿も、自分の厄介事が片付くと知れば喜ぶだろう」


 ペーター=フランツは、ニコラスを陣営の内側へと導いた。

 そこでは空気が変わる。


 兵の荒々しい喧騒――怒鳴り声、装備のぶつかる音――は後景に退き、声は抑えられ、通ることを前提としたものになる。

 焚き火は姿を消し、代わりに高価な炭を使った火鉢が静かに燃えていた。汗と煮込みの匂いは薄れ、油を引いた革と、かすかな香の香りが漂う。


 ここに集う騎士たちは、暖を取るためでも、慰め合うためでもない。

 彼らは権威の島として立っていた。鎧は着られているのではなく、身体の一部として在った。


 一本の支柱にもたれ、すでに輝く柄頭を無言で磨く者。

 短剣で地図を留め、言葉もなく進路をなぞる者。


 彼らの視線が、ニコラスに向けられる。

 平坦で、測るような目。


 挨拶はない。

 ニコラスも、それを求めなかった。


 空地の中央には、積み上げた補給箱の上に厚い獣皮が張られていた。縁は石で押さえられ、古い刃傷と墨の染みが残るが、地図を夕刻の風から守っている。


 ペーター=フランツが近づくと、諸侯の一団が無言で散った。

 数人が彼にだけ会釈する。彼も同様に返す。


 ニコラスに向けられる視線はない。


 ただ一人を除いて。


 幅広く、節くれ立った手を獣皮に置いたまま、まるで土地そのものを量るように立つ男。

 ダーン卿だ。


 折れ、歪んだ鼻の下で、口髭は白くなり始めている。


「ペーター=フランツ卿」

「ダーン卿」


 挨拶は短い。


 ダーンの淡い視線が、ペーター=フランツを越え、ニコラスに据えられた。

 敵意ではない。ただ、正確だった。


「紹介しよう」


 ペーター=フランツの声から、先ほどまでの轟きは消えている。

「ヴェスタゴランドの若き領主だ」


 ニコラスは一歩進み出た。

「ヴェスタゴランド伯爵、ニコラスです」


 所作は正確で、抑制されている。

 一礼。


「神の祝福が、あなたにありますように」


 ダーンはすぐには答えなかった。

 彼の視線は静かに査定していた――旅で擦り切れた外套、飾り気のない鞘、ニコラスの顔に刻まれた砂と疲労の痕。


「……あなたにも」

 ようやく発せられた言葉には、温度がなかった。


 ピーター=フランツは礼儀に構うことなく切り出す。

「名は知っていよう。父の名もな。今朝、俺に突きつけてきた“厄介事”――その始末役が、ここに立っている」


「ヴェスタゴランドの騎兵か」

 ダーンは低く言った。その名には、古い重みが宿っている。

「北方で、私はお前の父の隣に立った。峠で、彼の第一子の旗が倒れるのを見た」

 視線が鋭くなる。

「良き兵だった。――同じ風を、貴公は連れてきたか?」


 ニコラスは淡々と答えた。

「同じ風です。何を動かすかは――他者が判断するでしょう」


 ダーンは返さなかった。


 一拍、長すぎるほど視線がニコラスに留まり――やがて外れ、再び地図へと戻る。

 沈黙が伸びる。意図的で、突き放すような沈黙。

 周囲では鋼がかすかに擦れ、火鉢が湿った音を立てる。

 裁定は、まだ下らない。


 ピーター=フランツが荒く息を吐いた。

「ここで二日、干からびている。議論する一刻ごとに、リションラーダへの道は兵の心から遠のく。

 目の前にあるものを使うか――さもなくば、家へ返せ」


 ダーンの手が地図を強く掴んだ。

「……見せよ」


 意味は明白だった。


 ニコラスは理解した。

 誇示のない、無駄のない動きで背に手を伸ばす。

 剣を、ほんの一寸だけ抜いた。油布を滑って現れたのは、鈍い灰色の鋼。光を拒む刃。


 ダーンの手が上がる。

 刃には触れず、覆いを引いて、さらに鋼を露わにする。

 沈黙のまま見定め――そして手を引いた。


「……貴公の《ディヴァイナー》は」

 ようやく口を開く。

「随分と……質素だな」


 周囲の諸侯と騎士の間に、かすかな動揺が走る。


「よせ、ダーン卿」

 ピーター=フランツが低く唸った。金装の斧――腰に副武装のように佩いた《ディヴァイナー》の柄に手を置きながら。

「昔のニコラスは、飾り気のない鉄で名を成した」


「これは聖戦だ」

 ダーンは言い返す。

 卓上の宝石細工の剣から、ピーター=フランツの黄金の《ディヴァイナー》


 ニコラスは、その視線を正面から受け止めた。


「父は改宗者でした」

 言葉は一つ一つ、きちんと据えられる。

「神の御言葉と、その約束に身を縛る際、彼は“ニコラス”の名を取りました。

 私にその名を与えたのは、同じ道を歩ませ――古き道を、土に埋めるためです」


 最後の光が、ひび割れた唇に残る塩を照らす。


「もし人が、神の授けた祝福で裁かれるのだとすれば」

 声は平坦なまま。

「それが与えられぬ時、咎はどこにあるのでしょう?

 ――鋼にか。あるいは、量られる魂にか」


 沈黙が場を支配した。


 ダーンは、長い時間ニコラスを見つめた。

 やがて――頭を下げた。礼ではない。認めたのだ。


「道理だ、若き領主よ」

「老いはな。砂漠と同じく、思考も乾かす」


 背筋を伸ばし、声を指揮官のものへと戻す。


「進軍を支える補給線――その地勢を論じよう。

 貴公の騎兵、まだ“鍵”を回すやもしれぬ」

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