番外:其の一 狢の外套(むじなのがいとう)
私が先生の書生になってからもう三年が経つ。
深川の佃煮屋で働いていた私が、本田鉄斎先生の小説に感銘を受け、一念発起して先生の自宅を訪ねてから、いろいろなことがあった。
先生の出世作であり代表作の『式神の都』には妙な噂があって、夜中にこの本を枕もとに置いて寝ると龍神の夢を見るだの、実は本田先生自身が主人公の龍神の化身だの、奇怪な噂が流れたぐらいだ。
先生はこの作品をたった二晩で書き上げ、その間は別人のように執筆に集中していたという。
二日のあいだ、一切飲まず食わずで眠ることもせず、何かにとりつかれたようだったらしい。
人は本田先生が鬼界と契約し、その様子を小説に書き記しているのではないかとさえ噂した。それほどまでに、この作品は強い吸引力を持っているのだ。
しかし、当の本田先生は噂とは随分印象の違う人物だった。
世間的には滅多に人前に顔を出さぬ謎の作家として知られる。
容易に人を近づけず、ある意味物の怪にも近い奇行が目立つ人物とされ、その姿は鬼を思わせる長身で迫力のある筋骨隆々とした巨漢であり、不用意に近づいた者はその生気を吸われるとまで言われていた。
本田先生にしつこく原稿の催促をした編集者は、体を壊し床に伏せると言われるため、各紙の担当編集者諸氏は先生に絶対に催促をしないとまで言われていた。
今考えれば殆ど妖怪扱いである。
実物の本田先生に会うまでは私もこの噂を信じていたので、先生を訊ねるまではかなり緊張していたし、気合いを入れて行ったものだ。
しかし、実物の本田先生は噂とは大きく違っていた。
生気を吸われそうな恐ろしい印象どころか、飄々とした風体で、普段は昼行灯のようにぼんやりしている。
その体格は確かに大柄ではあるが、筋骨隆々というよりは単に太り気味なだけである。
原稿の締め切りが近づくと確かに先生の奇行は多くなる。
壁に向かって何かをぶつぶつ呟いたり、食事もろくに摂らずに甘味ばかり口にしたり、むやみに髪をかきむしったり、挙句は苛立って理不尽な理由で奥様を怒鳴りつけたり……。
もっとも、奥様も中々に気の強い方なので、先生の理不尽な怒りに痛快なまでの反撃を返し、先生を言い負かしてしまうが。
とにかく、先生は書くことに煮詰まれば煮詰まるほどおかしな行動が増える。
だが、これは先生だけに限らない。世の数多の作家にもそういう御仁はザラにいると聞く。ゆえにそこまで珍しいことではないのではないかと私は考える。
まあ、そんなこんなで先生のとばっちりを受けたくない編集者諸氏は下手に先生に催促をかけない事が既に暗黙の了解である。
もちろん、たまには果敢にも矢の催促をかける強者もいる。
大抵は新米の真面目な編集者だったり、新たに付き合いを始めた出版社の者だったりするのだが。
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だが、たとえいくら矢の催促を受けようが、先生は書けない時は本当に何日も書かず、催促すればするほど臍を曲げて書かなくなってしまう。
かくして、先生の奇行についてゆけなくなった無謀な編集者氏は、胃の調子を悪くしたり、すっかり気鬱になって、しまいには寝込んでしまったりする。
そういう話がいつしか尾鰭をたっぷりつけて妙な噂になってしまい、世に流布されてしまうわけだ。
げに噂というのは本当に恐ろしいものだ。先生は妖怪どころか、ちょっと変わり者ではあるが一応は普通の人だというのに。
とはいえ、世間が何と噂しようと私にとっての先生は多くの知識を持ち、幾つもの美しい物語を紡ぎだし、私の知らない世界を沢山知っているとても尊敬できる方だ。
そんな先生には謎も多い。
私が初めて先生の家に訪ねて行ったとき、門の前で緊張している私を見て先生はこう言ったのだ。
「ほう……なかなか面白い子が来たね。さあ、おはいり」
まるで私の来訪を既に知っていたかのような口ぶりで迎えてくれた。
そして先生は私の詳しい身上を全く聞こうとしなかった。
名前と年齢、出身地、それから家族のことを少し聞かれたぐらいだった。
先生の書くような怪奇憚を書きたいと申し出た私に、先生は笑ってペンと原稿用紙をいきなり差しだし、「今夜一晩でこれに、頭の中で今考えている物語を書いてご覧」と言っただけだった。
私は張り切って、先生に絶対に認めてもらおうと、心の中に描いていたとっておきの短編を飲まず食わずで集中し、一晩かけて書き上げた。
当時の私にとっては自信作だったが、今思えばあれはとても小説とはいえないものだった。
その短編は私が今までに出会った物の怪たちのことを題材にした話だった。
先生はそれを読むとこう言った。
「まず君は言葉の使い方が酷い。それにその意味を理解していない」
「……はい」
「いいですか? 『とりつく暇もない』という言い回しはありませんよ。『とりつく島もない』が正しいのです。そもそも使い方が間違っていますね。この言葉は相手にされないことを表すのです。でも、君は相手が忙しいという意味で使ってしまっている」
「すみません……」
「それに主語と述語が不明瞭。全体的にこの話は主人公の視点なのか他者からの視点なのかも分かりにくい。そもそも文章を書く時の決まりも守られていない。これではとても読みにくい」
「はい」
厳しい指摘。
全くもって先生に言われる通りで、弁明のしようもない、
「そもそも、君は誰の為に小説を書いていますか?」
そう問われて気づいた。
小説は人読ませるならば、読む相手のことも考えなければならないということを忘れていた。
ただ面白いものを書けばいいのだと思っていた。そんな自分が恥ずかしくなった。
「私は……多分自分の満足のためにだけ、書いていたと思います」
「正直でよろしい。本来はそれでいいんだよ。自分の心の中に生まれた物語を書きたいように書く。それが本来の姿だ。しかし、世の中に出すことを目指すならば、それだけではいけないよ」
「はい……肝に銘じます」
すっかり恐縮してしまった私に、先生は優しく声をかけてくれた。
「だが君はなかなか面白いものを書くと思うよ。この発想は君の才能と言ってもいいし、色々間違ってる部分はあるが、独学にしてはすごいものだ。文章は酷いものだが内容は決して悪くはない。磨けば傑作になりうるだろう」
「ありがとうございます!」
この言葉だけでもう充分だった。
たとえ、先生の教えを乞えなくても私はまだ文章を書くことができる。
本気でそう思った。
「書くための技術などはこれから学べばいいだけだからね。話が面白いかどうかの方がはるかに大切だ。いくら文章が上手くても、面白くなければ読者は目も向けないのだから」
そしてさらにこう続けた。
「私は書生をとるのは初めてなんだ。師としてはいろいろ不手際もあるかもしれんが、それでもいいのかな?」
こうして私は本田鉄斎の初の弟子となった。
先生のところで暮らすうち、私は妙なことに気付きはじめた。
時折、私は先生に全て見透かされているのではないかという気がしてならないことがあるのだ。
自分の持つ不思議な力のことは先生にも話していない。
しかし、先生はもしや私の力のことに気付いているのではないか? そう思うことがよくある。
そればかりではない。
先生自身にも何かあるのではないかと思えることがしばしばあるのだ。
確信を持ったのはあの日から。
そう。
二年前の冬のことだ。
発端は、先生の愛用のあの立派な外套だった。
「あなた。もう、いい加減にこの古い外套に拘るのはお止めになったら如何ですか? 新しいものを仕立てられたら宜しいのに」
「またその話かね? 私はこれが気に入っているんだよ」
「この外套は確かに良い品ですけれども、今はあまり流行っていない型ですし、生地も傷んできております。側から見ていてとても見苦しいですわ」
「困ったねえ……私は流行りを追う気はさらさらないし、この型は昔は最新であり今は定番の一つだよ? まったく、お前はよほどこれが気に入らないのだね」
「そうではありません。いくらでも新しいものがあるのに、いつまでも古いものに拘るあなたの考えが理解できないのです」
奥様が先生にまたお小言を言っているのが居間から聞こえてくる。
私は台所で、遅い昼食に箸をつけていたが、聞くともなしに聞こえてきた声に耳をそばだて、やれやれと思いながら溜息をひとつつく。
先生が着る服のことは、お二人のあいだの喧嘩の種のひとつ。
特に冬場になると、とある一着の外套の件で必ず言い争いになるのだ。
普段からおしゃれな奥様は、地味な色使いながらも品のいい着物を召され、高名な作家の夫人に相応しい装いを心がけている。
しかし、当の先生のほうは、着物や洋服、それに外套には殆ど拘りがなく、気に入ったものがあればそればかり。
だから、箪笥の肥やしになる新品の服があるかとおもえば、着古してつぎがあたっているようなものもある。
奥様はそれが我慢ならなくて、たまに先生に意見する。
だが、先生はいつものらりくらりとそれをかわし、うやむやになってしまう。
「お前には粋というものがわからんのかねえ……こういうものは使いこむほど味が出てくるのだよ」
「確かにそれがあなたとって大切な一着であろうことはわかります。では、せめてお修理にお出しなさいませ。裾や袖が擦り切れてきています」
奥様は外套の袖の部分を指差す。
確かに、袖口が少し擦り切れていた。
「それにあなた、それをお作りになられた時よりお太りになられたでしょう? 寸法もあっていません。前を閉じると窮屈そうで釦が引っ張られていますわ」
「嫌なことを平気で言うねお前は」
太ったと言われたことは先生の気に触ったようだ。
「寸法もあっておらず、生地も傷んでるお召し物なんて、粋と言うよりただの襤褸ですわ」
「うーむ……お前の物言いは酷いが確かに言われてみればそうだな。そろそろ修理はしたほうがいいのだろうがねえ……」
先生もその点に関しては考えているようだ。
「では、わたくし早速明日にも仕立て屋にそれを持っていきましょう」
「いや、だめだ」
先生はきっぱりとした声で断る。
「普通の仕立て屋ではこの外套は修理できない。市井の仕立て屋にこれは修理できるもんじゃない」
「なにを仰います。たしかに、これは舶来のインバネス・コートだから、そこいらの仕立て屋ではお直しは難しいでしょうけど……いまでは大英帝国の仕立ての技術を学んでいる職人も多いのですから大丈夫ですわ。わたくしの馴染みに洋装の専門店がありますから、そこにお願いします」
「いや、きっと無理だと思う。私の古い知り合いにこれを直せる者がいるから、彼に頼むことにする」
奥様は呆れたような顔でしばらく無言だったが、やがて諦めたように言った。
「わかりましたわ……あなたのお好きになさいませ」
「吉岡君。少し、出かけてくるよ」
台所に先生が顔を出した。
「先生。どちらへ?」
「聞こえていたのではないのかね?」
先生がにやりと笑う。
「あの……申し訳ありません。聞くつもりではなかったんですが」
私は少し顔を赤らめた。
聞くつもりはなかったとはいえ、夫婦間の諍いの内容を聞いたのはなんとなく、後ろめたかったからだ。
「まあそういうことだ。これから仕立て屋へ行って来るよ」
「あっ……では、私もお供させてください。外は酷い雪です。荷物をお持ちします」
「そうかね。助かるよ」
おりしも師走。
あと数日もすれば新年ということもあり、街中は活気付いている。
門松や注連縄、棒鱈やのし餅、身欠き鰊、それに昆布など、正月の品を売る露店には多くの買い物を手に持ったご婦人方や、おつかいの丁稚たちなどが集まっている。
そんな街の喧噪を横目に、真新しい雪の上にさくさくと雪駄の後をつけながら、先生は足早に歩く。
私は傘と荷物を持ち、先生のあとをついてゆく。
先生は件のインバネス・コートを着て、黒の帽子を被り、傘もささずに歩いてゆく。
先生が奥様と言い争うほどに拘りを持っているこの立派な外套は「インバネス・コート」と呼ばれる舶来の品。
大英帝国のスコットランド地方にあるインバネスという街を発祥とした、丈が長いケープ付きの外套だ。
日本には明治二十年頃に伝わり、「二重回し」と呼ばれて、上流社会の名士や文豪たちに愛されてきた。
非常に高価な品だが、最近ではインバネスから袖を取った「とんび」、さらに雰囲気だけを似せて作られた「角袖」などの安価なもの出回り、一般的な冬の装いとなった。
この暖かな外套を着ていれば、雪の中でも寒くない。
真っ白な雪の中、黒っぽいこの外套は雪景色によく映えて、とても洒落ている。
賑やかな吉祥寺の繁華街を抜けて、市街地を抜けてゆく先生に私は声をかけた。
「仕立て屋はまだ遠いのですか?」
「まだまだ先だよ。結構遠いところにある」
「そうですか」
「吉岡君はそんな格好で寒くないのかね?」
「はあ、少し……」
私は先生のような立派な外套は持っていない。
冬の外出の時に着る外套は、真冬には少し薄い気がする安い角袖だけだ。
「せっかくだから、君も外套を仕立てるといい。腕のいい職人だ。きっといいものを作ってくれるだろうから」
「せっかくですが先生……私は書生の身ですから、立派な外套を仕立てるだけのお金は持ち合わせていません」
「大丈夫だ。金なら私が出してやろう。吉岡君はいつもよく頑張っているからね」
「そんな……よろしいのですか?」
「構わんよ。いつも私のわがままに君は付き合ってくれるし、修行も頑張っているからね。たまには師匠らしいことをさせておくれ」
「ありがとうございます」
私は雪の中、あの洒落たインバネスを着ている自分の姿を想像し、少し嬉しくなった。
その店は市街地から随分離れた場所にあった。
よく目を凝らさないと目立たないほど地味な看板には、控えめな文字で、『飯綱仕立店』と書かれていた。
「ここへ来るのは本当に久しぶりなんだ」
先生はそう言って中へ入ってゆく。
静かな店だった。
古びた柱時計がカチカチと時を刻んでいる音しかしない。
店内は狭く、客用の椅子が何脚かと、仕立物を広げる台がぽつんとあった。裁ち鋏や糸巻きが無造作に置かれ、まち針が何本も刺さった針山が床に転がっている。
ひときわ目を引くのは舶来ものらしい石炭ストーブで、コポコポと蒸気を噴き出している大きなやかんがひとつ乗せられていた。
「いらっしゃいませ」
店主らしい男が出てきた。
小柄な初老の男で、銀縁の眼鏡をかけていた。客用らしい愛想笑いの口元からは大きな前歯が覗いている。
「この外套の修理を頼みたいのだが」
先生は外套を脱いで、店主に渡すと、店主は一瞬はっとした顔をして、嬉しそうに言った。
「どなたかと思ったら、本田先生でいらっしゃいましたか。あまりにお久しぶりなので失念しておりました」
「もう、二十年近くになるかね」
「そうですね」
「二十年以上も経てば、この外套も古びて傷んでくるのは仕方がないことだ。どうだろう? 修理はできそうかね?」
「もちろんですとも。これは私どもが手がけた中でも一番の自慢の品。こんなにも長く使っていただけるとは光栄の至り……亡き麻実君も喜んでおりましょう」
「では、お願いしよう。時間はかかるかね?」
「そうですね……擦り切れのある袖や、裾の部分は詰めて、破れのある裏地は取り替えた方がよろしいですね。身幅の寸法はどうされますか?」
店主は先生をチラリと見る。
「ああそうだね。昔より少し太ったからね……寸法は変えられそうかい?」
「問題ありませんよ。では、少し身幅を広めにお出ししましょうか……そうなりますと二週間ほどお時間頂きますがよろしゅうございますか?」
「それで頼む」
「では、できあがり次第店の者に届けさせます」
「ありがとう。頼むよ。それと、私の書生のために、外套を一着仕立てて欲しいのだが、いいだろうか?」
「ありがとうございます。して、どのようなものがよろしいですか?」
先生は私のほうを振り返って言った。
「吉岡君、外套はどんな形のものが好みかね? やはり今着ているような角袖かとんび? それとも、私と同じインバネスにするかね?」
私は迷わず答えた。
「では、先生と同じ形のものを」
「承知いたしました。では採寸をさせていただきます」
店主はそう言うと、奥の間に向かって声をかけた。
「伊達君。お客様の採寸をお願いします」
「はい」
出てきたのは私より少し年上ぐらいのまだ若い青年だった。
少し吊り上った目と、細身の体はどことなく各務君に似ている気がした。
「ではこちらへ。細かく採寸しますから、少しお時間はかかりますよ」
「はい」
私は先生のほうを振り返った。
「私も彼と昔話があるから、ゆっくり計ってもらいなさい」
先生はにっこりわらって手を振った。
━━━━━━━ ここから先の先生と店の主との話は、私は知らない。
吉岡君に聞かせるにはまだ早い話だ。
飯綱氏は心得ている。採寸は、彼らの手にかかれば小一時間もかかるまい。
だけど、きっとあの伊達君という利口な青年は店主の意図を汲んでいるだろう。
そして、昔話をするには充分な時間を作ってくれるに違いない。
「先生が最初にここにいらしたのはどれぐらい前でしたかね?」
「二十と二年前……かな。私が二十八の時の冬だったから」
「ああ、そうですそうです。私どもがここに店を開いた年でした……」
「うん」
飯綱氏は懐かしそうに細い目をさらに細める。
「私と、麻実君と二人で開いたんですよ。この店を……まだ、私たちは東京に出てきたばかりで、右も左もわからなかった。だけど、ここは店を開くには本当にいい場所だというのが私たちにはよくわかったのです。だから、ここに店を作ろうと思ったのです」
「私はここに店ができたことなど、気付きもしなかったよ。あの時はね。あの頃は毎日この店の前の道を通っていたにも関わらず」
「そりゃそうですよ先生。この店はとても目立たない店ですから。看板だって、よく見なければわかりません」
「目立たない店には客はこないだろう?」
「ですね。でも、いいんです。先生のように選ばれたお客様だけに贔屓にしていただければそれでよいのですから」
「謙虚なことですな」
「恐れ入ります」
飯綱氏は照れくさそうに頭を掻く。
「でも私とて、あの日麻実君に出会わなければこの店には気付かなかったんですよ」
目を閉じると、麻実君の人懐こい笑顔が思い出された。
「それもご縁ですよ」
飯綱氏はそう言って私にお茶を勧めてきた。
蕎麦の香りがする暖かな蕎麦茶だった。
「麻実君は本当に腕のいい仕立て職人でした。先生の外套は彼の仕立ての中でも最高傑作です。彼が亡くなって二十年……私は今でも彼の腕にはかないません」
「うん。本当に彼はいい腕だった」
「思い出しますよ……今でもあの時のことを」
「そうだね。麻実君のいたあの時代……私にとっては大切な時代だった」
「ああ、そういえば先生が文壇に上がられた年でもあるのですね」
「うむ……全てはあの狢との出会いから始まっているのだろう」
白い湯気がゆっくりと踊るように茶碗から昇ってゆく。
私の心は二十二年前に飛んでいた。
━━━━━━━ 二十二年前。明治三十五年。
私は新米の編集者だった。
本田鉄斎は筆名であり、当時の私はまだ普通の会社員である本田健之助だった。
今の青嵐社の前身である光星出版で私は編集者として勤務していた。
戦時下でもなく、世は穏やかで、可もなく不可もない年だった。
覚えている社会的に大きな出来事といえば、伊豆鳥島が大噴火して多くの人が亡くなった事や、八甲田山で耐寒雪中行軍中の青森第五連隊が遭難したという悲壮な事故や日英同盟が締結されたという政治的な話ぐらい。
どれもさほど自分の身の上には関係がなく、私自身は淡々とした毎日を過ごしていた。
編集者としての仕事の他に、趣味で小説を書いていた。
世に出す気は全くなく、思ったことを書き綴るというその作業だけが楽しかった。
休日になると武蔵野の森まで散歩をし、新しい小説の設定を考えつつぼんやりと過ごすのが好きだった。
ある秋の日、私は散歩中にキーキーと鳴く動物の鳴き声を耳にした。
妙にその声が気になった私は声のする方向に行ったが、見渡す限り動物の姿はない。
しかし、苦しんでいるような声はずっと聞こえている。
もう暫く探してみると、銀杏の大木の回りに鬱蒼と生い茂った下草の所から弱々しい声がする。
一匹の穴熊がトラバサミにかかってもがいていた。
トラバサミは錆び付いており、地場の猟師が仕掛けたまま忘れたものだと思われる。
この辺りではまだ、狸や鼬が多く出没し、畑を荒らしたりするので、狸を捕らえるための罠がよく仕掛けられている。
おそらくこの不幸な穴熊は忘れられた古い罠にかかってしまったのだろう。
穴熊は私を見て牙を剥き出し威嚇していたが、私は敵意がないことを示すために両手を広げて近づいた。
「どれ、可哀想に……外してやろう」
錆びたトラバサミはすっかり硬くなっていて、外すのに少し苦労したが、やっとのことで穴熊を助け出してやることができた。
穴熊はびっこをひきながらさっと逃げていった。
よく見るとトラバサミの近くにはあの穴熊の巣穴らしき穴があった。
「なるほど……本当の意味での同じ穴の狢というわけか」
狢というのは狸のことではない。本来は穴熊をさす。
「同じ穴の狢」という言い回しは、一見関係がないようでも実は同類であることの喩え。
穴を掘る習性のない狸は、穴掘りの上手い穴熊の古い巣穴を利用していたり、時には同居していたりすることもあるがゆえに混同されることが多い。
自分の巣穴に住み着いた狸の悪行のために仕掛けられた罠に、狸ではなく、たまたま戻ってきた穴熊のほうがかかってしまったに違いない。
諺にまでいたずらものの狸と同列として登場させられるのだから気の毒といえば気の毒な話だった。
「どの時代でもお人よしは馬鹿をみるのだろうかね……」
ふと、そういう題材を使って何か書いてみようと思いつく。
それが、処女作となった『狐狸の悟り』だった。
要は物の怪同士の化かしあいの妙を描いた作品だったが、これが載った同人誌が自社の社長の目に止まった。
助けた穴熊の恩返し効果か、はたまた天の采配か、自社からの出版となったこの本が、運良く売れ、私は編集者としてではなく、専属作家として光星社に籍を置くことになった。
東京に初雪が降った日、私は自分への褒美に新しい外套を一着仕立てようと思い立ち、吉祥寺の市街へ向かっていた。
雪はさほど積もってはいなかったが、前日からの寒さで道が凍りついてしまっていたのだろう。私はうっかり足を滑らせ、転んでしまった。
「だいじょうぶですか?」
そんな私に手を差し伸べた男がいた。
差し伸べられた手は大きくて暖かかった。
人懐っこい笑顔の三十代ぐらいの男だった。
「ああ、すみません。大丈夫です」
私は起き上がり、雪を払った。
転んだ時に落としてしまった鞄の中から中身が飛び出ていた。
私はそれを拾い集める。男も手伝ってくれた。
「大丈夫ですか? なくなったものなどありませんか?」
「大丈夫だと思います……」
そういいつつ、鞄の中身を見直すとすぐに大変なことに気付く。どうやら財布がどこかに滑り出してしまったようだ。
「あれ?……財布がない」
「一緒に探しましょう」
男は財布を一緒になって捜してくれた。ほどなく、道端の植え込みの下から財布が見つかった。
「助かりました。一緒に探してくださってありがとう。これで、目的が果たせます」
私は男に礼を言った。すると男はにこにこしながらいいえと首を振った。
「金が入ったので新しい外套を仕立てようと思っていたんです」
「ほう。で、仕立て屋はもうお決まりで?」
「いえ、これから探します」
「では、丁度いい。私の店にいらっしゃいませんか? 開業したばかりなのですが」
「あなたは仕立て職人で?」
「はい。麻実幹夫と申します」
「ほお……これも何かの縁かもしれない。では寄らせていただきましょう」
その店は「飯綱・麻実仕立店」の看板をかけていた。
「はて、この通りは毎日通るのだが、こんな店あったろうか?」
「つい三日ほど前に開店したばかりなんです。あなたがお客様第一号ですよ」
「それは縁起がいい」
店は小さいが真新しく、新しい木の香りがしていた。
「お帰り、麻実君」
小柄な男が店の奥から現れた。
銀縁の眼鏡をかけていた。口を閉じていても前歯が少しだけ覗いている。
「お客様を連れてきたよ。飯綱君。外套の仕立てをして欲しいそうだ」
「それはそれはありがとうございます」
飯綱と呼ばれた男は丁寧に頭を下げた。
「まずは生地を見ていただきましょう。そして、見本を見ていただいてどんな型にするか決めていただき、採寸を致しましょう。お客様は当店の記念すべき最初のお客様ですからもちろん、御代はできるだけお安く致しますよ」
「ありがとう」
出された生地は、英国産の上等の羊毛やカシミヤばかりだった。
どれも華族や皇族が身に着けてもおかしくないほどの最高級品で、自分の身の丈にはとてもあわなさそうに感じられた。
銀座にある高級テイラードにも負けない品揃えの店が、こんな僻地にあるのは不思議ですらあった。
「あの……立派過ぎてとても私には手の出ない代物ばかりです……またの機会に……」
私は腰が引けた。
しかし、麻実氏は笑って言った。
「ご心配なく。ご予算よりかなり安く仕立ててさしあげます。もちろん最高級の生地で」
「そんな……」
「麻実君は洋行帰りで、大英帝国の生地屋につてがあるのですよ。技術も本場で学んだものですから、素晴らしい出来になりますよ」
飯綱氏はそう言って生地をいくつか持ってくる。
「はあ……」
「仕立て上がりはこれなど、いかがですか? お客様によくお似合いになると思いますよ」
見本の冊子に載っていたのは、マントのような長いケープのついた見慣れぬ型の外套だった。
「これは?」
「インバネス・コートといいます。大栄帝国にスコットランドという地方がありましてね、ネス川という有名な川が流れております……その河口の街でインバネスという場所があるのですが、そこで作られた外套です。大英帝国や亜米利加で流行の外套ですよ」
「ほう……」
「お仕立て代は生地代込みでこんなところでいかがでしょうか?」
興味を持った私に、飯綱氏はそっとそろばんを差し出す。
「こんな金額で本当に?」
見積もりとして提示された額は、私の持っていた予算よりはるかに安い金額だった。
「はい。お任せください。一生ものの一着にお仕立てしてみせましょう」
何度か仮縫いに店を訪れ、私とこの仕立て屋の二人はすっかり仲良くなった。
出来上がった外套はそれはそれは美しい形で、しかも驚くほど軽かった。そして、羽織れば雪の中でも寒さを感じぬほど暖かかったのだ。
出来上がった外套を着た私を見て、麻実氏は満足そうだった。
「本田先生によくお似合いです。どうぞ、長くご愛用いただけますよう……」
麻実氏を見たのはそれが最後だった。
その後、私は何度か店を訪ねようとした。
この外套をどこで作ったのかと多くの人に聞かれ、店を紹介しようとしたのだが、『飯綱・麻実仕立店』みつけることはどうしてもできなかった。
何度も行って場所は知っているはずなのに、何故か迷ってしまうのだ。
そして、二年が過ぎた。
次にその店に出会えたときは『飯綱仕立店』に変わっていた。
そして、麻実氏があの後すぐに亡くなった事を知ることとなった。
「すみません。相棒が亡くなったので少しのあいだ店を閉めていたのです。……彼は以前、不慮の事故で負った怪我の傷がもとで命を落としてしまったのです。とても残念です」
「それは、もしや足の怪我ではありませんか?」
心当たりがあった。
「おや、ご存知だったのですか? 麻実君が足を患っていたことを」
「彼は右足を引きずっていたので」
そう。
麻実氏は出会ったとき、右足を引きずっていた。
「ずっと一緒に修行してきて、やっと自分たちの店が持てた矢先だったのになあ……」
飯綱氏は寂しそうにそう言っていた。
それから二十年。
なぜか、あの仕立て屋に立ち寄ることはなかった。
忘れていたのかもしれないし、そういう気が起こらなかったのかもしれない。
何にせよ、縁がなかったのか、近くにいながら立ち寄ることはなかったのだ。
「すべては縁なのですよ、本田先生。先生と麻実君との縁が切れ、この店との縁が切れてしまったので先生はここにお越しになれなかった。でも、またあの外套が縁でお会いすることができました」
「そうだね。飯綱さん」
「先生は今後はこの店との縁が切れることはないでしょう」
「どうしてそう思うのだね?」
「こんどは先生がお連れになったあの若者がここに新たな縁を作ってくれるでしょうから」
「そうですね。吉岡君なら、きっとあなた方が作る服を気に入ってこの店を贔屓にしてくれますよ」
「はい。あの伊達君は幼い頃から麻実君の手ほどきを受けた愛弟子です。ゆくゆくはこの店のいい後継者になってくれるでしょう……あの青年が伊達君のいいお客になってくれればいいのですが」
「そうですな。ご縁は……たぶんありますよ。吉岡君はそういう人だから」
飯綱氏はにっこり笑ってうなづいた。
「採寸終わりました」
伊達君が奥の間から現れた。
「さて、ではそろそろ失礼しましょうか」
「あ、ちょっとお待ちを」
帰ろうとする私に向かって飯綱氏は言った。
「あの青年は長く側に置いてあげてください。少なくとも来年の九月を過ぎるまで元の住処に戻しちゃいけません……未曾有の災厄にあわせることになりますから。先生もどうかお気をつけて」
私は首を横に振った。
「わかりました。ありがとう……でも大丈夫ですよ。彼は見所があるから、ものになるまで私の側に置くつもりです」
やたら丁寧な採寸と、生地見本の説明を受けて、私は少し疲れてしまった。
帰り道、本田先生は用意してきた別の外套を着て帰ったが、なんだかちっとも似合っていなかった。
新品で、高級な生地を使った素敵な外套なのに、何故か先生に全く似合っていなかったのだ。
「仮縫いはしなくていいと言われました。私の体型は完全に把握したので先生の修理と同時に届けると言われました」
「それは凄いね。いい職人とはそういうものだ。きっと一生ものの一着ができるだろう」
「はい。楽しみです」
「ああ、そうだ。私は少し友人の所に寄ってから戻るので、吉岡君は先に戻っていいよ」
「はい。では、お先に失礼します。先生」
先生と別れてすぐ、背後に気配を感じた。
「各務君。何か用かい?」
振り返らなくても私にはわかっていた。
「狢の仕立て屋はどうだった?」
「えっ?」
私は思わず振り返る。
そこには、私が注文したものと同じインバネス・コートを着た各務君がいた。
「あれは、物の怪の店だと?」
「気付かなかったのか?」
「ああ……」
「流石に大物の狢ともなると見鬼にすら正体はばれないらしいね」
「……ケンキ?」
「君のことだ。吉岡君。君みたいな物の怪を見る者は『見鬼』と呼ばれるんだぜ。怪奇小説を書きたいなら覚えておけ」
「へえ……」
東京に来てから再会した私の守護狐はいろいろなことを知っている。
「それに、彼らの名前を聞いてピンとこなかったかい?」
「なまえ?」
「そうだ。飯綱はイヅナ……つまり我々の世界では管狐と呼ばれる物の怪だ。もっとも、狐といってもヤツは我々狐の一族ではなくその正体はオコジョだ」
「じゃああの伊達さんも……?」
「普通なら伊達と読む苗字をなぜ『いだち』と読ませるか考えてみなよ」
各務君はにやりと笑う。
「あ、もしかして……いたち?」
「そうだ。ヤツの正体は鼬だ」
「では、亡くなった麻実さんという方も?」
「マミというのは狢の別名。狢は本来穴熊をさす呼び方……これでわかったろ?」
私は各務君によってつぎつぎ明かされた真実に驚いたまま動けなかった。
「狢って動物はもともといない。地方によって違ってくるが、鼬やオコジョ、穴熊や狸の総称だ。まあ、物の怪であることは変わりないが」
「じゃあ、本田先生は物の怪に化かされて……」
「どうかな?」
各務君は細い目をさらに細めて愉快そうに笑った。
「あの先生、案外全部お見通しかもな。物の怪のことも、俺らのことも」
そう聞くと私は少し怖くなった。
物の怪に関わることはまだ少し抵抗があったからだ。最近になって現れたこの守護狐ですらまだ正体を掴みきれていないのだから。
しかし、各務君は心配そうな私に言った。
「力のある物の怪の仕立てたものは特別長持ちする。厄除けの力もある。有難く大切に使うんだね」
あれから二年。
飯綱氏の預言どおり、あの翌年の九月、大きな震災が東京を襲った。
私は先生の元にいたおかげで無事だったが、私が以前住んでいた深川は壊滅的だったらしい。
あの時仕立ててもらったインバネス・コートは今でも冬になると私の体を冬の寒さから守ってくれる。
丁寧な仕立てで、和装にも洋装にも似合う。
もちろん、先生は綺麗に修理された愛用の外套をずっと使いつづけている。
飯綱仕立て店にはあれから一度も行っていないが、仕立物の用ができたら、もう一度訪ねられるような気がする。
いずれ、その時がきたら、自分の作品で稼いだお金で上等な背広の一つも頼んでみようと密かに楽しみにしているのだ。