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怪奇作家の書生  作者: よしじまさほ
7/13

理(ことわり)

 晩秋。


 十一月にはいると、急に寒さが身にしみてくる。

 よく晴れた日中の暑いくらいの陽気のよさに、少しいつもより薄手の装いをして出掛ければ、夕方、ふいに頬を叩いた風の冷たさに驚くことも多くなった。

 そんなある日の午後のこと。


「吉岡君、中臣君、私は今から少し出かけてくるよ」


 本田先生が私と清史君に声をかけてきた。


「どちらへ行かれるのですか? 先生」

「私の恩師のところだ。少しお加減が悪いそうなのでね」

「よろしければ、お供させてください」

「それは別に構わないが、君には少し退屈だと思うよ」

「いえ、先生のお供をすることも私の務めですから」


 私がそう言うと、先生は穏やかな笑顔で言った。


「そうかね。では、帰りに何かおやつでもご馳走しよう」

「ありがとうございます」

「本田先生。僕もご一緒してよろしいでしょうか?」


 清史君が言った。


「おや、君も一緒に行きたいのかい? 清史君。特に面白い場所ではないよ?」

「先生の行かれるところなら興味があります」

「まあ、君がいいというなら別に私はかまわないが」


 それまで私と先生の会話を興味なさそうに聞いていた清史君だったが、何か思うところがあったのか、急に同行を申し出た。


「では、二人とも支度が出来たらおいで。私は玄関で待っているから」


 先生が行ってしまってから私は清史君に聞いた。


「何かよくないものでも感じたのかい?」

「いや、そういうわけではないけど」


 清史君はそう言って薄く笑う。


「おやつをご馳走してもらえるというから。それに……」


 清史君は部屋の一角を指差した。


「あそこに潜んでいる根の暗い物の怪がうっとおしいから、気分転換に外に出ようかと思って」


 私は清史君の指差した方向を見て思わず苦笑した。


 押入れの襖が少し開いていた。

 よく見ると、爛々と輝く金色の瞳が襖の隙間から、怨念の篭った視線で清史君を凝視している。


「……ヘイマオ嬢……」


 この二人はよほど相性が悪いらしい。






 いつもより少し小奇麗な身なりで、セピア色のマントを羽織り、同色の帽子を被った本田先生は、鈍色にびいろの空を割って、まるで天空からの光の道のように降り注ぐ、淡い午後の光の中を私たちより少し先に歩く。

 先生から延びる影は、光が少ないせいか淡く少し長めで、まるで私の歩く方向を指し示しているようだ。

 私と清史君は先生の後ろを少し遅れてついてゆく。

 清史君は今日はいつもの浄服じょうふく姿ではなく、私と同じような格好をしている。

 はたから見れば、本田先生が書生を二人引き連れて歩いているように見えるだろう。


 本田先生は大柄な体格で背も高く、そのせいか足早なので、人より少し小柄な私は本田先生の歩調についていけないことが多い。

 だから私はいつも、大股で堂々と歩く先生の後をちょこちょこと急ぎ足でついて行く。

 先生はそんな私を気遣ってか、私と出かけるときは、いつも少し歩調を落としてくれることに私は気付いている。

 さりげなく優しい人だ。私はそんな先生にとても憧れているし、誰よりも尊敬している。


 曇天どんてんの午後の空気は冷涼で、師走を思わせる寒々しさ。


 まだ雪が舞うには早い筈だが、目指す場所に近づくほど寒さは増し、今にも雪が舞い降りてくるのではないかと思うほどで、背中を這う冷気は少し異様な感じを帯びてくる。

 私は嫌な予感がして、隣を歩く清史君の表情を伺い見た。


「あまりよくない感じですね、吉岡さん」


 清史君も気付いているようだった。


「清史君にもわかってたか……なんだかさっきから様子が変なんだ」

「ですね。でも、僕が側に居れば大丈夫。低級霊や力の弱い物の怪は僕の側には近づけません」


 清史君はあっさりと言う。


「……そ……そうだね。心強いよ」

「吉岡さんは見鬼けんきであるばかりか、わけのわからない狐や猫まで憑いてるし、本田先生もああ見えて『引き寄せやすい人』ですからね……こんな不気味な妖気の漂う中、二人だけで行かせるわけにはいかないですよ」


『わけのわからない狐で悪かったな』

「わぁっ!」


 突然、各務君の声が背後からしたので、私は驚きのあまり大声を上げてしまった。

 振り返ると白狐の姿の各務君がいつのまにかそこにいた。


「どうかしたのかね? 吉岡君」


 少し先を歩いていた本田先生が振り返り、不思議そうに私を見た。


「あ……ええっと……」

「なんでもありません、本田先生。吉岡さんが犬のくそを踏みそうになっただけです」


 どぎまぎしている私をよそに、清史君は冷静にそう言った。


「なんだ、そうかね。何事かと驚いたよ……吉岡君、気をつけて歩きなさい」

「は……はい……すみません」


 清史君が機転を利かせてどうにか誤魔化してくれた。


 先生はまた、先に立って歩き始めた。


『この姿の時の俺は、普通の人間には見えないと何度言ったらわかるんだ? 吉岡君』


 各務君はあきれたような声を出した。


「……そういえば、そうだった」

「いきなり現れて人間を驚かすとは、相変わらず品の無い狐だ」


 清史君がぼそりと呟く。


『お前に言われたくないよ、小僧』


 二人が言い争いを始めようとしたので、私は慌てて言った。


「各務君、何か用があるんだよね?」

『ああ、そうだった。ちょっと吉岡君に忠告をな』

「忠告?」

『これから言うことを心に留め置いてから先生のお供をするといい。君はいい奴なんだが、いかんせん人を信じすぎるからな。それから……これは言いにくいことだが、君は女に免疫がないだろう? 気をつけることだ』

「女の人?」


 私は首をかしげる。


『ご婦人と深い付合いをしたことがあるかい? 吉岡君』


 私は急にそんなことを言われたので一瞬、どぎまぎして固まってしまう。


「わ……私はまだ、半人前で自立してない身だから……そ……そういうことを考えるのは……」


 少しどもりながらの話し振りで、各務君は私の動揺を察したようだ。


『やはりな。思ったとおり女の免疫はなかったか……ならば、少しばかりやっかいなことになりそうだな』


 各務君は大きな耳を少し後ろに倒す。狐の顔に表情はあまり見られないが、なんだか呆れているように私には見えた。


『女は可愛らしいものだが、情が深い思いつめた女は俺も苦手でね……できれば関わり合いになりたくないんだ』


 各務君はそう言った。

 その言葉には何やら実感が篭っている。何か昔、女性が絡むことで嫌な目に逢ったのかもしれない。


「で、私がご婦人との付き合いがないことと、忠告に何か関係があるのかい?」

『ああ。今の君には『女難』の相が出ている。今から行く場所でもしも、女に出会ったら、『それがどのような女でも』充分に気をつけることだ』

「もしかして、私が今感じている嫌な感じと何かそれが関係あるということかい?」


 だが、各務君はその問いには答えてくれなかった。

 しかし、各務君のこの話し振りからすると嫌な予感は当たっているのだろう。

 各務君がわざわざ現れて忠告に来る位だ、あまりいい状態ではない筈だ。


「わかったよ。気をつける」

『うむ』


 各務君はそう言うと切れ長の細い目をさらに細くし、まるで笑っているような表情を見せた。


『俺が護ってやりたいのはやまやまだが、残念ながら我々稲荷の眷属は、人間の女人にょにんをあまり近づけてはいけないことになっていてね。俺はできれば遠慮したいんだ』

「つまり、今から行く、先生の恩師のお宅にはご婦人がいるということ?」

『そうだ。幼子だろうが、老婆だろうが、俺は人間の女が苦手なんだ。だから、俺は先生の奥方がいる時にはお前の家の中に入ったことは一度も無かろう?』


 言われてみればそうだった。

 家の中にはいつも先生の奥様がいらっしゃる。

 各務君はどこにでも現れるが、奥様がいる時に先生の家の中に足を踏み入れたことはまだ一度も無い。せいぜい本田家の敷地内に入るぐらいだ。


「しかし、各務君はヘイマオ嬢とはよく一緒に居るじゃないか」


 改めて言われると妙な話だった。


『彼女は人間の女じゃない。女怪だ』


 人間の女はだめで、女の物の怪なら問題ない。

 いったい何が違うのだろう?


「どう違うんだ?」

『物の怪は基本的に肉体を持たない。女人の形をとってはいても、ヘイマオ嬢は猫の物の怪だ、そして同時に香箱を守護する付喪神つくもがみたぐいだ。その上、彼女は長く香箱の側にいたから人を襲ったことがない、殺生の穢れを持たぬ者。同じではないが、極めて我々に近い者だ。肉体を持つ人間よりは彼女のほうがより清浄なのさ』


「何をふざけた事を」


 今まで大人しく私たちの会話を聞いていた清史君が、急に話に割り込んできた。


「あの女怪が人間より清浄だって? とんだ笑い話だね」

『小僧は黙っていろ』


 各務君は明らかに不機嫌そうに言った。


「稲荷の使い走りや、付喪神が人間より清浄だなんて聞いたことが無い」


 清史君は明らかな嫌悪の表情を浮かべている。


『それこそ偏見、それこそ人間の驕り。いいか小僧? 人間は清濁を併せ持つ不安定な存在だ。だからこそ神に仕え、敬い、自らの穢れの部分を取り去ろうと信心するのではないか。お前の考えは驕りの象徴だよ』


 今にも両者から火花が飛び散りそうなにらみ合い。

 私は胃に軽い痛みを感じた。


「いい加減にしてくれ、二人とも! 懲りないなあ」


 私は二人の間に入って言い争いを止めさせた。

 この二人にこの問題を議論させたら未来永劫ののしりあいが続きそうだ。


「どちらの主張も正しく、そして間違っているところもある。それでいいじゃないか。例えば自分の神への信仰を捨て、明日からは西洋の神を崇めろと言われたら君たちはそれをすんなり受け入れられるか?」


 二人は黙り込む。


「できないだろ? 人の価値観はそれぞれで多様性があって然りだ。自分と違うからといって自分の価値観を無理に人に押し付けるものじゃないよ。清史君だって、お父さんにそういい聞かされて、それを知るために先生のところへ来たんだろう? 各務君だって大神様が君を私のところへよこした意図にうすうす気付いてるんだろ?」


 普段激昂しない私が珍しく語気を荒げたのを見て、二人は少し怯んだようだった。


『君が言うことはもっともだ。俺は降りるよ』

「……そうですね。すみませんでした。吉岡さん」


 意外にあっさりと二人は矛を引き、私はほっと胸をなでおろす。


『まあ何にせよ一つだけ言っておくよ、吉岡君。『ことわり』は大切なものだと覚えておくといい』

「ことわり?」

『じきに判るさ……それと、そこの小僧』


 各務君は清史君に向かって言った。


「小僧じゃないと何度言えばわかるんだ。この狐め」

『お前にもひとつ忠告しておいてやるよ』

「何だよ」

『お前の祓いの力は確かに凄い。だが、己の力を過信しすぎると、いつか身を滅ぼすぞ。それだけは忠告しておいてやるよ』


 各務君はそう言うと、一陣の風と化していきなり消えてしまった。


「余計なお世話だ」


 清史君は苦々しい顔をする。


「つむじ風かな? ほこりっぽいな……」


 風に巻き上げられた砂埃に、少し離れた先を歩いていた先生が軽く咳ばらいをした。






「ここが私の恩師、宗像章太郎むなかたしょうたろう先生のお宅だ」


 先生の家から徒歩で半時間ばかり。

 豪邸の立ち並ぶ、閑静な住宅街にひっそりと佇む、古いが立派な屋敷の前で先生は立ち止まった。


「先生の恩師……ですか」

「そうだ。私が帝大生だった頃の恩師だ」

「先生は帝大卒だったんですか!」


 私は今更ながらに驚く。

 帝国大学といえば国の最高学府。

 その出身者は、国家の最高の職務につくことも多く、たとえ民間企業に就職しても最高の待遇で迎えられるエリート中のエリート。

 そのような輝かしい経歴を持ちながら、なぜ先生は作家などやっているのだろうと私はあれこれ思いを巡らせる。


 そういえば先生は、あまり過去の経歴を明かさない人で、かつて青嵐社の前身であった会社で編集者をしていたということぐらいしか私は知らなかった。


「親の言いなりになって帝大まで進んだものの、自分の人生を親に左右されるのが嫌で、親の反対を押し切って、自分がやりたかった出版の世界に行ったのだ、まあ、そのせいで私は父に勘当されたわけだが……」


 先生はそう言って苦笑する。


「卒業間際までそのことで悩んでいた私に、自分の思うとおりに生きよという助言を下さったのが宗像先生だ。先生の言葉で私はこの道に進む決意ができたのだ」

「そうだったんですか」

「卒業してからも、何かあるごとに私はご挨拶に伺ったものだ……しかし、十年ほど前に、奥様とお嬢さんを流行病で相次いで亡くされてから、先生はすっかり弱ってしまわれた。ただでさえご高齢なのに、後添えを娶ることもなかった先生は、先日ついに床についてしまわれた」


 先生はそう言いながら悲しそうな顔をした。


「心配で、早くお見舞いに行こうと思っていたのだが、仕事が忙しくてなかなかその機会がなかったのだ」

「では、宗像先生のお世話は誰が?」

「宗像家に昔から居る家政婦の花代さんが先生のお世話をしているよ」

「そうですか」


 先生が話すあいだ、私はずっと背後が気になっていた。


 なにかいる。

 なにかがじっと見ている。

 恐ろしさや、気持ちの悪さはないが、ただ、妙に気になる視線を感じた。

 清史君が側に居るのだから、悪いものは近寄れないはずだ。

 だが、どうしてこんなに妙な居心地の悪さを感じるのか?

 振り返ってその正体を確かめたいと焦る反面、決して振り返ってはいけないと、本能が私に教えていた。


 ふと、横目で清史君を見る。

 しかし、清史君は私の視線にまったく気付かない。

 一刻も早くその場を立ち去りたかった。


「さあ、行こうか」


 先生は門扉を開け、中に入ってゆく。

 その後に清史君が続く。

 私は後をついて行こうとしたが、何故か体が動かない。


「もし……」


 背後から声がかけられた。


「もし、そちらの方」


 若い女性の声だ。


 私は恐る恐る振り返る。

 あの視線はもう、感じなかった。


「あの……この家に訪ねてこられたお客様でしょうか?」


 そこに居たのは十六、七歳前後と思しき若い娘だった。


 黒を基調としたの品のいい着物は清楚な白の小花柄で彩られ、綺麗に結い上げられた黒髪には豪華な鼈甲のかんざし。

 艶やかな白い肌は大切に磨かれた磁器のよう。

 切れ長の瞳は黒目がちで、少し微笑んだように見える小作りの唇はほんのりと紅が引かれていた。

 深窓の令嬢だろうか? 全体から漂うこの娘の品のよさと美貌に私は一瞬見とれてしまった。


「は……はい……そうです」

「ああ、それはよかった」


 娘の顔がぱっと明るくなった。

 まるでほころび始めた花の蕾のような、眩しい笑顔で、私は自分の心が一瞬ざわつくのを感じた。


「私、この家を訪ねて来たんですが、中に入れなくて困っていたんです。どうか、私を一緒に連れて行っていただけませんか?」

「どういうことですか? 中に入れないって」

「番犬がいるんです……とても怖い番犬がいて、それが怖くて側を通れないんです」

「ああ、そういうことでしたか。大丈夫ですよ。鎖に繋がれている犬なら怖くはありません。吼えても私の後ろに隠れていけばいいですよ」

「ありがとうございます。助かります」

「では、行きましょうか」

「はい」


 娘は少しはにかんで、私の後ろについてきた。

 私は、少しの気恥ずかしさを感じつつも、娘と共に門をくぐった。


 宗像家の敷地は広く、門から家の玄関までは少しの距離があった。

 娘は私の後を静かについてきていた。


「番犬の姿はないようですね。心配しなくても大丈夫そうですよ」

「ええ……でも、本当に怖い犬なんです……私、まだ少しどきどきしながら歩いてるんですよ」

「犬はお嫌いですか?」

「……ええ、苦手です」


 玄関のところについた時、先生と清史君が待っていた。


「吉岡君、どうしたんだい? 遅かったじゃないか」


「ああ、すみません先生。このお嬢さんが、『この家に来たのだけど番犬が怖くて中に入れない』と仰ってたので、一緒にお連れしたんです」

「お嬢さんって……?」


 先生は不思議そうな顔をする。


「誰もいないじゃないか」

「え?」


 私は慌てて振り返るが、娘の姿はどこにもなかった。


「悪い狐に化かされたんじゃないのかい?」


 清史君が意地悪そうな顔で笑った。


「そんなはずは……」


 その時、玄関の扉が開いて、一人の老婆が現れた。


「どちらさま……? ああ、本田先生じゃありませんか」

「やあ、花代さんこんにちわ。先生のお見舞いに伺ったんですが、先生のお加減は?」


 すると、花代さんと呼ばれた老婆は困ったような顔をして、俯いた。


「それが、あまりよろしくないのです。私、今からお医者様を呼びに行こうかと」

「それはいけない。私が宗像先生を見ているので花代さんは早くお医者様を」

「ありがとうございます。では、お言葉に甘えてよろしいでしょうか?」

「うむ。後のことは心配なさらずに」

「はい。では、先生。よろしくお願いします」


 花代さんはそう言うと一礼して、門のほうへ走っていった。





「ああ……本田君か……すまないね、こんな状態で」


 床に横たわっている老人は七十近いと思われる白髪の老人。

 しかし、やつれてはいても、その姿にはどこか威厳があった。


「風邪をこじらしてしまったのか、どうも具合がよくなくてね……」


 そう言いながら宗像先生は軽く咳き込む。


「どうかご無理をなさらないでください」


 先生は慌てて宗像先生の背中をさすった。


 私は妙な居心地の悪さを感じていた。

 この家に入ったときからなんだかとても嫌な感じがする。

 私は清史君に耳打ちをする。


「何か、嫌な感じがしないかい?」

「そうですね。物の怪とは少し違う……むしろ人間の念に近い澱みを感じますね」

「人間の念?」

「ええ。人間の強い想いから来る澱みです。例えば、呪いとか、心残りとか……」

「呪い?」


 私は思わず声を潜める。


「僕にもはっきりとわからないんですが、この感じは呪いというよりは、悲しみに近い感じですね」

「悲しみ……か」


 その時、宗像先生の背中をさすっていた先生が私に声をかけた。


「吉岡君。先生が咳き込んでおられるので水をもってきてくれないか。台所は廊下を右に出た突き当たりにあるから」

「はい、先生」




 台所で湯のみ茶碗を探していると、台所に面した窓から声がした。


「あの……何かをお探しですか?」


 私は驚いて振り返り、窓の向こうに目をやった。

 先ほどの娘がそこにいた。


「先ほどはありがとうございました」

「急にいなくなったから驚きました」

「すみません。庭のほうへ回ったので」


 娘は申し訳なさそうに言った。


「この家のことをよくご存知なんですね」

「私、この家の娘ですから……事情があって、長く家を開けてたのですけど、帰ってきたのです」


 私は不思議に思った。

 この家の娘は十年前に母親と共に病で亡くなったと先生に先ほど聞いた。

 それとももうひとり、娘がいたのだろうか?


「あ……あの……」


 どう話し掛けていいものか迷っているうちに、娘は勝手口の扉を開け、中に入ってきた。


「お父様にお返ししなきゃいけないものがあって……私、それがずっと気になってたのです。でも、どこにやったかを忘れてしまって。どうしてもそれを探してお父様にお返ししないと」

「それよりも、あなたのお父様は今、大変なことに……早く行って元気付けてあげてください。一緒に行きましょう」

「お父様の湯のみ茶碗なら、その棚の三段目の茶色の茶碗ですよ。早くお水を」


 娘は私の話を無視してそう言った。


「でも……お水はあなたが持っていってあげたほうが」

「行って!」


 娘は黒目がちのその美しい瞳で私をじっと見つめた。


 私は、まるで何かに操られるかのように自分の意思とは関係なく、湯のみに水を汲むと、先生たちがいる部屋に向かっていた。




 水を飲んでしばらくすると、宗像先生は落ち着いたようだった。


「少し休まれたほうがよろしいですよ。宗像先生」

「すまないね、本田君……だが、眠れないのだよ」

「どうしてですか?」

「眠ると、亡くなった娘の……すみれの夢ばかり見るのだ」

「……お気の毒に……」


 本田先生は居たたまれないようだった。


「すみれは……ずっと長い間子宝に恵まれなかった私たち夫婦がやっと授かったかわいい一人娘でしてね。十七歳の誕生日を迎えて間もない頃、流行病でまだ若い命を落としてしまった……娘を亡くしてから、毎日嘆き悲しんでいた家内も娘の後を追うように半年後に同じ病で亡くなってしまったのだよ」

「本当にお気の毒です」

「夢の中のすみれは、とても悲しそうでね。私はそれを見ていられない……だから、あまり眠ることが出来んのだよ」

「しかし、宗像先生。それではお体に障ります」

「わかってはおるが……でも、だめなのだ」

「とにかく、お医者様が来るまで少しお休みください。先生が心配です」

「わかった……少し休むよ。本田君」






「困ったものだね。あの調子では宗像先生は……」


 その先は本田先生も口に出せないようだった。


 私はずっと無言だった。

 いや、正確に言うと喋ることが出来なかった。

 あの娘のことを先生たちに話しかったのに、なぜかその話をしようとすると、その時だけ声が出なくなってしまうのだ。

 もしや、これが各務君が言った『女難』なのだろうか?

 あの娘が宗像すみれ嬢だとすれば、彼女はすでにこの世の者ではない。


「やけに無口なんですね。吉岡さん」

「あ……ああ」


 清史君は不思議そうだ。

 私は清史君のことも不思議に感じていた。

 私が物の怪の影響を受けているなら、あの清史君が気付かぬはずが無い。だが、先ほどといい、今といい、清史君は全く感づいている様子が無いのだ。


 何らかの力が清史君の祓いの力を封じている可能性が高い。

 だが、その状況下にあって、妙な気配だけは感じることができる清史君の力はかなり強力で、さらにその強力な清史君の祓いの力をここまで封じることのできるその存在はかなりの大物ということになる。

 もしもそれが性質たちの悪いものだったとしたら、かなりやっかいな状況だった。


「花代さんがお医者様を連れてくるまで、我々はここでこうしている以外ないな」


 先生はあきらめたように溜息をつく。


「あの……少し、庭を見てきてもいいでしょうか?」


 私は、なぜかこの場に居たくなかった。

 どうしても落ち着かなくて、妙にそわそわしてしまうのだ。


「ああ、行っておいで。宗像家の庭は見事だからね。気分転換になるだろう」

「はい。では行ってまいります」




 広い庭をぶらぶらと散歩する。

 大きなにれの木があった。

 かなり立派なもので、樹齢百年は超えていそうだった。


「ここで、幼い頃お父様とかくれんぼをよくしたわ」


 あの娘の声が背後でした。


「君……いつの間に」


 娘は柔らかく微笑んでいる。


「本当に懐かしいわ……」


 あきらかにこの娘は普通の人間ではない。私には確信があった。

 しかし、物の怪とも違う気がする。

 ヘイマオ嬢のように、女の姿をとる女怪には独特の色香があるが、彼女にはそれが無かった。

 こんな妖しげな空間にありながら、彼女の気配はとても清浄なのだ。どちらかというと、彼女から清史君に近い清浄さを感じるのだ。


「もしかして君は……宗像すみれさん?」


 振り返った私は、彼女をじっと見つめて言った。


「そうです。お父様に会いに帰ってきました」


 すみれ嬢はそう言ってにっこりと笑った。


「あなたなら、絶対に助けてくれるとおもったのです。だって、あなたのその力は……」


 彼女は僕の力のことを知っている。


「もしかして、私が……何者かをわかっている?」

「ええ。でも……貴方はまだ目を閉じていおられますよね。ゆっくり目を開けてみてください。私の後ろにいるものが見えますから」


 目を閉じている?

 そんな筈は無い。私は目を開けているはずだと言おうとして私は気付いた。


 閉じているのはもう一つの目。

 普通の人が持たない、私だけが持つ、もう一つの目。

 眼鏡に手をかけ、少し戸惑った。


 雑魚の物の怪を極力見せない力、弱い物の怪を弾く力を持つ遮妖の眼鏡を外すことの危険さはよく知っている。

 しかし、私はなぜか怖くなかった。

 根拠はまったくなかったが、大丈夫だという不思議な自信があった。


 私は眼鏡をはずした。

 回りの景色はぼやけ、その代わり見えないものが見えてきた。


「ありがとう。私を信じてくれて……」


 微笑む彼女の背後には白い髭を生やした老人がいた。


「彼女に知恵を与えたのはあなたでしょう? 楡の翁(にれのおきな)


 私にはわかった。

 この老人の正体が。


 年を経た楡の木の精。

 その証拠に、老人は楡の葉で編んだ首飾りをかけていた。

 年を経た木の精は、皆清浄なる気を持ち、その木の花や葉で作られた装飾品をつけている。故郷の墓を護っている古梅の精も、この老人と同じ気を持っていた。


『そうじゃ……儂じゃ。この娘が不憫でならんかったからな。それにな、儂も少し難儀しておってな。お前の力を借りようと思ったんじゃ』

「私の?」

『伏見の守護を受けた特別な力を持つ見鬼。お前になら儂の難儀も取り除いてもらえよう』

「楡の翁。何を難儀されておられます?」

『儂の根を傷つけるものをとっておくれ。痛くて痛くてたまらんのだ。もとはといえば、この娘が原因でもあるが、この娘の悲しみが取り除かれねば、あれが儂をいつまでも傷つける……』

「翁の根?」

『うむ。この娘がやった少しの悪戯が、儂の根を傷つける。だが、それは悪意あってのことではないので難儀しておるのだ』

「翁様ごめんなさい……本当に悪気はなかったんです。でも、私ずっとあれをどこにやったか思い出せなくてここへ戻って来れなかった。その間ずっと翁様を傷つけてしまってた」

『悪気があったことではないから怒ってはおらんよ。でも、流石に儂も辛いからどうにかならんものかと思っておったんじゃ』


 頭を下げた娘の頭を翁は優しく撫でる。


「私、お父様の大切な品をここへ隠してしまったんです。でも今まで帰ってくることができなかったのは、私がそれを忘れていたからというだけではないんです。お父様を護るあの番犬が、鬼籍に入った私を通してくれなかったからです」

「番犬?」


 そういえば、すみれ嬢は番犬を怖がってこの家へ入れなかったと言っていた。


秋田犬あきたいぬの「はな」は宗像氏あるじを慕う忠実な番犬……死後もその姿を変え、主をけなげに護る忠犬じゃ。はなはこの嬢ちゃんが小さい頃に亡くなったが、嬢ちゃんは、はなをあまり可愛がっておらんかったからな。嫌われておったのだろう』


 楡の翁はそう言った。


「だって、私、犬は好きじゃなかったのですもの」


 すみれは拗ねたようにそう言った。


「はなが亡くなってからしばらくしてうちに来たお手伝いさんが花代さんでした。でも、私は花代さんがあまり好きじゃなかった……。よく働くいいお手伝いさんで、お父様のお気に入りだったけど、私とお母様にはちょっと厳しかったんです」

「ということは、花代さんはもしや?」

「はい。花代さんは、はなが人に変化した姿です。私は自分が死ぬまでそれに気づかなかったし、おまけに私がこの姿になってからは、絶対におうちに入れてくれないんですもの」


 すみれ嬢は泣き出してしまった。

 私は、ご婦人の涙には慣れていないので戸惑ってしまった。


『はなは主に忠実なあまり、主以外の家族にすら心を許さなかったんじゃ。先生の大切な品を、いたずら心で隠してしまった嬢ちゃんをはなは許せんかったんじゃろ……どちらも不憫じゃ。でも、儂も迷惑なんじゃ。なんせ……』


 楡の翁は困ったように足元を指して言う。


『この嬢ちゃんの隠した品は、儂の足元に埋められておるんでなあ……』






「お医者様をお連れしました」


 花代さんが医者を連れて戻ってきた。


「さっそく宗像先生の診察を」

「我々は席を外そうか」


 本田先生と清史君は居間へ、私は用を足してくると言ってその場を離れた。


 楡の木のところへ戻り、私は納屋から失敬してきた庭用のすきを使ってその根元を掘り始めた。

 少し掘ると、丁寧に油紙に包まれた真鍮の箱が現れた。


「ああ、これは痛いはずだ……」


 真鍮の箱の角が、楡の木の根を傷つけていた。


「これで大丈夫ですよ。翁」

『ありがとう。伏見の守護を持つ見鬼よ。さて、嬢ちゃんや……そろそろお前さんの父上が来られる頃だ。ちゃんとお返ししなさい』

「はい。ありがとうございます。翁様」


 すみれはにっこりと微笑む。


「え? ここに来るって……まさか……」



 その言葉が意味するものは。



「すみれ? すみれじゃないか!」


 背後で声がした。

 振り返ると宗像先生がそこにいた。

 立派な仕立ての背広を着て、高価そうな鼈甲の眼鏡をかけている。

 彼はさきほど床に臥せっていた弱々しさがが嘘のような堂々とした立派な紳士だった。


「お父様……お久しゅうございます」


 すみれ嬢は恭しく頭を下げた。


 おそらく宗像先生は息を引き取られたのだろう。


「そうか……私は……」


 宗像先生も自分の状況を理解したようだった。


「お父様。私、お父様に謝らなければと思って……これをお返しに来たんです」


 すみれは私の手から真鍮の箱を取ると、宗像氏に手渡した。

 箱を見た宗像先生は少し困ったように眉尻を下げて、薄く微笑んだ。


「これは……そうか……おまえだったんだね? 仕方のない子だ」


 宗像先生はそう言ったものの、少しも怒っていないようだった。


「私、お父様の進める縁談が嫌だったんです……ずっとお父様やお母様の側にいたかったのに、無理に縁談を進めようとなさるから。だから、お父様の一番大切なこの品物をこっそり隠して、お父様を困らせようと思ったのです」


 すみれはそう言ってしょんぼりとうなだれた。


「私はお前の幸せを願ってあの縁談を持ってきたのだが……お前はそんなにあの縁談が嫌だったのかい?」

「はい。もちろん、いつかはお嫁に行くつもりでした。でも、まだもう少しお父様とお母様の側にいたかったのです……だから、私の気持ちをわかってくれないお父様をちょっと困らせようと思って」

「困った子だね、お前は」


 そう言いつつも宗像先生は満足そうに微笑んでいる。


「もちろんこれは、いずれちゃんとお父様にお返しするつもりでした。でも、お返しする前に私……」

「いいんだよ、すみれ。もういいんだ」


 宗像氏先生は娘を抱きしめた。


「可哀想に。思いつめていたのだね……本当に申し訳ない。すみれや、私は別に怒ってなどいないよ。それよりも、お前にもう一度逢えたのが嬉しいよ」


 その時だった。


 辺りが急に暗くなり、恐ろしい声が響いてきた。


『やはりおまえだね! ご主人様を連れて行ってしまおうとするのは!』


 物凄い形相をした花代さんがそこにいた。


『ああなんてこと! せっかく、強い結界を張っておいたのに。どうしてお前などが入り込んでしまったのだろう! 強力な祓いの力すら弱らせる結界を、ご主人様のために張ったのに!』


「花代さん? どうしてここに……」


 宗像先生は表情を固くし、すみれ嬢はすっかり怯えて先生の後ろに隠れてしまっている。


 怒りの形相の花代さんの口にはいつのまにか牙が生え、その耳は尖った犬の耳になっていた。

 そして彼女は私を指差し、苦々しい表情で言った。


『そうか、お前か。この娘を家に入れたのはお前だったんだね! 今はお前の本来の力が封じられているからと安心していたのになんてこと! 大切な封印の力を自ら解放してしまうとはなんと愚かなこと! その娘の色香に迷ったのか!』

「ちょっと待ってくれ。私は別に悪気があったわけでは……それに封印の力って」


 困惑する私に花代さんはさらに続ける。


『知らないのはお前だけさ! 伏見の守護を持つ特別な見鬼』

「どうしてそんなことまで知ってるんだ」

『お前ほどの有名人は他にはいないからね。お前はそこいらにいるただの見鬼じゃない。あの伏見がお前を護り、伏見最強の守護狐、『鏡魂の君(かがみたまのきみ)』をお前の守護につけている意味をどうしてお前自身が知らぬのだ!』


 どういうことだ?


「おっと。それ以上喋られては困るよ、たかだか犬ころの分際で」



「か……各務君……」


 いきなり目の前に現れた各務君は、初めて伏見で出会ったときと同じ純白の装束を纏い、手には一振りのつるぎを携えていた。


「忠告したろ? 女難の相が出ているって。人間の女の御霊みたまにかかわったせいでこんどは雌犬の物の怪と諍いだ……もとはといえば、吉岡君があの娘にふらふらして、頼みを聞いてやったのが原因だ」

「でも……私は別に誘惑されたわけでは」

「誘いに乗ったこと自体が誘惑に乗るってことなんだよ。女に免疫があれば些か事情も違ったろうが、君はそういう意味で奥手だからな」

「い……今はそんなこと、か……関係ないだろ?」


 思わず狼狽えてしまう。


「おおありさ。ちょっと考えればわかることだろう? 犬が怖くて家に入れないから一緒に入ってくれって、たまたまやってきた男に頼むような女なんて怪しいことこの上ないってなぜわからんのだ?」

「そ……それは」

「それなりに女に慣れていれば、男になんらかの頼み事をする若い女には何かの魂胆があると考えるものだ。そこで気づいていれば巻き込まれずに済んだのに」

「でも、本当に困ってるかもしれないじゃないか」

「それも含めて嘘か真か判断できる経験が君には少ないって言ってるのさ」


 各務君はそう言ってにやりと笑った。


 なるほど。

 各務君が言ったことは悔しいが確かに正しいと私は反論できなかった。


「今回は仕方がないとして、今後は女が絡む誘惑には気をつけろ。まったく……人間の女はやっかいもので俺は嫌いだ。でもな、聞き分けのない女怪も俺は大嫌いでね」


 各務君は振り返ると、困ったような顔で私にそう言った。


「なあ、各務君。一体何が起こってるんだよ」

「後で話す。本当は、今回は関わりたくなかったんだけど事情が変わったんでね」


 各務君はそう言うと、手にした剣の切っ先を花代さんに向けた。


「なあ、お前。もうそろそろいいだろう? ご主人はお前のことも好きだが、娘はもっと可愛いんだ。ご主人の寿命が尽きることはもうわかっていただろう? そろそろ諦めてお前も去るがいい。でないと、大神おおみかみ様の名のもとに、俺はお前に仕置きをすることになるぞ?」

『狐風情が! 所詮我らの種族とお前ら狐は相容れぬものよ! 主を護るは我らの至上! お前になど邪魔させんわ』


 花代さん……いや、「はな」はすっかり大きな雌犬の姿に戻り、牙を剥き、こちらを睨みつけている。


「仕方ない……殺生は好かないが、止むをえん……行くぞ!」


 各務君が剣を構えたその瞬間だった。


「まってくれ! 私に話をさせてくれないか」


 はなと各務君の間に宗像先生が割って入った。


「なあ、はなや……聞いておくれ……」


 しかし、『はな』はぎらぎらした目で宗像先生を睨みつける。


「お前は賢いいい子だった……わかるだろう? 『こだわり』を捨て『ことわり』を以って自分の進むべき道をよく見なさい。私の話を思い出しておくれ……」



 私はその時各務君の言葉を思い出していた。



 ━━━━━━━ ことわりは大切だ。



「はなや……いつだったかお前に話したことがあったろう? お前はおぼえているかね?」


こだわり」とは本来、難癖をつけることや文句をつけること。そして、頑なに固執することという意味もある。大切なものをぎゅっと硬く握れば手を開くことはできなくなる。新たなものは何もつかめなくなる……これがこだわり。そして、これに似た言葉で意味が違うものが「ことわり」だ……」



 はなの目から怒りの光が少し薄れた。


『覚えておりますとも、ご主人様。ご主人様はご機嫌がよいときは、私を相手に、よく、哲学やものの考え方の話をしてくださいました。畜生である私に、その本来の意味はよくわかりませんでしたが、ご主人様が言わんとされていることはよく伝わっておりました』

「ならば、賢いお前にならもうわかっておるだろう? ことわりは礼儀にかなっていること、お前の忠義は、私にとってのことわりだ……だがな「ことわりをすぎる」という言葉もある。それは普通の程度を越えてしまうことを言う。そんなとき、どうするかも話したはずだな?」


 はなははっとする。


『……はい……でも、ご主人様……私は……』


ことわりのもうひとつの意味……それは『ことわり』だ……過ぎたる忠義は迷惑にもなる。ことわりを説けども屈せずなら、私はお前にことわりを言い渡すこととしよう」

『そんな……ご主人様。後生でございます! 私を見放さないでくださいませ』


『はな』はすっかり、小さな子犬の姿に戻り、尾を垂れ、耳をすっかり後ろに倒してしまっていた。


 宗像先生は小さくなったはなを抱き上げると頭を撫でた。


「お前はよく私に尽くしてくれた。ありがとう。だが、私はもう行かなければならない。お前も自由になるがいい、いままで本当にありがとう……」

『ご主人様、嫌です! 私はずっとご主人様のお側におりとうございます!』


 はなはくーんと鼻を鳴らし、宗像先生の懐に顔を埋めた。


「では、私と一緒にいくかね? はな」

『はい。ご主人様』

「すみれを嫌ったりしないかね?」

『はい。ご主人様。誓います』

「よろしい……では、私たちと一緒に行こう」


 宗像先生ははなの頭を撫で、すみれ嬢の手を取った。


「お父様。お母様があちらで待っています。はな……むかし、あなたを嫌って苛めたりしたこと、ごめんなさいね」

『お嬢様、私こそ大変なご無礼を……本当に申し訳ありません』

「いいの。私も悪かったのだから」


 宗像先生ははなと娘が打ち解けたのを見て、満足そうに笑った。そして、宗像先生は私の側に近づいてきた。


「娘を助けてくれてありがとう。すっかり迷惑をかけてしまったね。本田君はよい書生を持った」

「そんな……恐縮です」

「娘がせっかく返してくれたこの品物、残念だが私にはもう必要がなくなってしまった。だからこれはお詫びに君に差し上げよう。これを使って、よい作品を書いて欲しい……」



 手渡された真鍮の箱を開けると、中には立派な万年筆が入っていた。


「ありがとうございます。でも、本田先生が悲しまれるかと思うと、私は……」

「大丈夫。本田君はこの世界のことわりを理解しているから、きっと受け入れるだろう」





 数日後、宗像先生の葬儀が行われた。

 宗像先生から受け取ったあの万年筆は、家に戻るとなぜかなくなってしまっていて、私はがっかりしていたが、葬儀のあと、私は意外なところでその万年筆と再会することになった。


「吉岡君。ちょっと来ておくれ」

「はい。なんでしょう? 先生」


 呼ばれて先生の書斎に行くと、先生は私の目の前に見覚えのある箱を置いた。


「宗像先生の遺品だ。亡くなる直前に、先生が私に言ったのだ……『箪笥の中に私の愛用の万年筆がある。未来ある作家見習いの役に立てて欲しい』とね」

「えっ?」


 私は少し驚いていた。

 確か、私がすみれ嬢たちと話をしていた時は宗像先生はまだ床の中にいて、宗像先生は後から現れたから、もう亡くなってしまってあの姿になっていたと思っていたのだが。

 宗像先生はあの時まだ亡くなってはいなかったのだろうか?


「宗像先生は一度意識不明になられてね。医師が臨終の判断をしようとした時、今一度目を覚まされて、遺言を残されてから亡くなられたのだよ」

「そうだったのですか……」

「とても満足そうな顔で、娘さんの憂いが晴れたと言って笑っておられたよ」

「先生も宗像先生と最後にちゃんとお話ができたんですね?」

「うん」


 真鍮の箱の中身はあの万年筆だった。


「宗像先生のこの万年筆は素晴らしいものだよ……あのデラルー社のオノト万年筆だ。私が欲しいくらいだが、宗像先生のたっての希望だ、どうかこれを使ってあげて欲しい」


 名前だけは聞いたことがあるが、実物を見るのは初めてだ。


 英国からはるばる取り寄せられたデラルー社の名品であるオノト万年筆。

 誰もがその名を知る有名な文豪たちも愛用する逸品で、一介の書生にはとても手の出ない高価な品だ。


「あ……ありがとうございます」


 私は震える手で万年筆を受け取った。


「宗像先生の期待に応えられるような作品を書けるといいね」

「はい」

「作品全体に『こだわり』のある、それでいてにかなった『ことわり』のある作品を書くのはなかなか難しいことだよ、吉岡君。そして、いい作品を書くためにはいろいろな経験をして、その中では様々な誘惑にも出会うかもしれないが、はっきり『断り』を言えることも大切だ……これはなかなかむずかしいものだけどね。まあ、頑張りたまえ」

「はい、先生」



『なかなか素敵な品じゃのう……こういう使いでのある名品には、守護の物の怪がついたりするものじゃが。妾がそれも香箱と共に護ってやろうか?』


 ヘイマオ嬢が箪笥の上から興味深そうに万年筆を眺めて言った。


「せっかくだけど遠慮するよ」

『妾が護ればその品物には霊力が宿り、お前の中に潜む創造の力を引き出すことも可能なのだぞ?』

「それなら尚更だめだよ。私のこだわりは私自身のもので、それが度を越えないように理をもってものを書くには他人にたよっちゃだめだと思うから」


『さっそく『断り』をつかっておるのう』


 ヘイマオ嬢は満足そうに目を細める。


『ところで吉岡。あの憎たらしい清史めが落ち込んでおるそうではないか』

「例の一件を感知できなかったことを各務君になじられて、反論できなかったらしいよ」

『それは愉快じゃ。若造の癖に生意気に天狗になっておるからじゃ。ざまあないのう』


 ヘイマオ嬢はまるで笑うように金の瞳を細め、髭をピンと張り、口角を上げた。


「でも、仕方ないよ。あの『はな』は清史君の力を封じられるほど想いが強い物の怪で、しかも宗像邸は楡の翁の清浄なる気があったせいで、魔の力がわかりにくい特殊な場所だったんだから。それでも、妙な気配を感じていた清史君は凄いと私は思うけどね」

『確かに彼奴きゃつの祓いの力は強い。だが、あの生意気な小僧はまだまだ井の中のかわず。未熟者じゃ。あやつめが落ち込むほど、妾は楽しゅうてしかたがない』

「少しは溜飲が下がったかい? ヘイマオ嬢」

『少しはのう』


 ヘイマオ嬢は大きな欠伸をした。

 少し眠そうだ。


「ところで、ヘイマオ嬢……少し聞いてもいいかい?」

『なんじゃ?』

「各務君って本当は……凄いんじゃないの?」

『はて、何のことやら』


 どうやら彼女は各務君の正体を知っているようだ。ヘイマオ嬢は各務君とは親しい。知らぬはずが無い。


「カガミタマノキミ……ってわかる?」

『妾は眠い……悪いが次にしておくれ』

「……断りってわけか」


 私に返事をすることなく、ヘイマオ嬢は目を閉じた。


「仕方ないな……」


 諦めて席を立ちかけたとき、ヘイマオ嬢が片目を薄く開け、小声で言った。


『伏見稲荷の起源は大陸より渡来した一族と深い関わりがある。機会があったらお前の祖先を辿ってご覧……何かの理がきっと見つかるかもしれんぞ』

「ありがとう。ヘイマオ嬢」


 私はヘイマオ嬢の頭を撫でた。


『……ただの寝言じゃ……』


 ヘイマオ嬢は直ぐに軽い寝息をたてはじめた。


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